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(二機同時に爆発事故が起こるなんてそうそう考えられるもんじゃないですよ。ましてや、その二機は片方の爆発に巻き込まれたわけでもなく、離れた状態でそれぞれが爆発したって言うんですから異常と言うほかありませんね)
どこぞの大学の教授が唾を飛ばしながらそんなことを話しまくる様子を流すだけのテレビを、加代はただ眺めていた。今はどの局もいつもの番組をそっちのけにして、急遽組んだ特番を流しており、天下のNHKでさえも似たような状況だ。ついさっきから見始めたばかりのため、詳しいことはまだよく分からないが、何やら月面基地建設の作業中に月で事故が起こったらしいことは判別がつく。
(えー、では今回の事故について振り返ってみましょう。NASAからの情報によりますとつい三時間前、月面基地を建設中に月の軌道上で待機していた調査艇と、調査艇から切り離され月面に着陸していた着陸艇が爆発しました。今回のミッションにはアメリカ人のサム・フレミング宇宙飛行士とボブ・ジョンソン宇宙飛行士。そして日本人の杉村拓人宇宙飛行士の三名が参加していました。NASAが交信を試みていますが依然、彼らとの接触はなく……)
部屋のドアが開けられ、看護師が夕食を入れたカートを押しながら入ってくる。夕食の時間か。ちょうど始まった事故の詳細の説明にやや後ろ髪を引かれながらも、加代はイヤホンを外してテレビの電源を切った。
看護師から夕食の乗ったプレートを受け取る。明日には退院するためこれが最後の晩餐となるが、そのメニューといえば若干水分が多めのご飯に味噌汁、鯖の味噌煮とほうれん草のおひたし、そして肉じゃが。一汁三菜の食事のお蔭なのか、はたまたゆっくりと身体を休ませているからなのかは分からないが、入院してからというものこれ以上はないというほど身体は軽くなっていた。
初めはどうにも馴染めずにいた味の薄い食事にもすっかりと言っていいほど慣れ、一番始めにに食べ終えた加代は箸を置くと手を合わせながら、「ご馳走様でした」と呟いた。看護師さんがプレートを下げに来るまではノートを広げて勉強というわけにもいかない。もう一度テレビの特番を見るという手もあったが、テレビカードもそろそろ残高がないことを思い出し、仕方なく加代は傍に置かれた椅子の上にある自分のリュックから一冊の萎びた本を取り出す。表紙には"宮沢賢治短編集"と書かれている。どのページにどの話があるか、どの行にどんな文章が書かれているか、幼い頃から読み続けている加代はそれが把握できている。
数ある短編や詩の中でもよく読んでいるのが"やまなし"だった。透き通るような描写と、噛めば噛むほど味の出る文章に加代は小さな頃から心惹かれていた。この時も"やまなし"を読んでいた加代は「何読んでるの?」と発せられた声に顔を上げる。また、ポンと音を立てて包装からアイスキャンデーを取り出した紀子が視界に入る。この六日間一緒に過ごして、紀子は食後に決まってアイスキャンデーを舐ることを知った。
初日には分からなかったが、沙耶以外の二人ーー紀子と凜ーーは加代よりも一歳年上らしく、それを知った時はあらかじめ敬語を使っておいて良かったと胸を撫で下ろした。
「宮沢賢治さんの短編集で、今読んでるのは"やまなし"です」
「あ、それ聞いたことある! ええっとどこで聞いたんだっけ……」
こめかみに手をやり、うーんと唸る紀子にちょうど食事を終えた凜が「教科書でしょ、小学校の」と言う。
「そうそれ! 凜、あんたよく覚えてたね」
「このぐらい誰でも知ってるわよ」
「えぇ……あたし覚えてなかったんだけど……」
「それはあんたの記憶力がないだけ」
さも当たり前かのように返す凜に紀子はガクッと肩を落とす。初日こそ紀子がツッコミ役に回っていたが、二、三日経つと本来は凜がツッコミ役であることが判明した。判明したところで加代は新参者であるため、無理にそのそのやり取りに混ざるような愚は犯さずただひたすらに傍観するか、本を読むことに徹することにした。
いつから入院しているのかは定かでないにしろ、一応加代よりは古参であるはずの沙耶はといえば、初日に見た困惑顏がなければ仮面を付けているのではないかと思わせるほどに冷静な面持ちを崩すことなく、終始タブレット端末をいじっている。
元より冷めた性格なのか、現実に興味がないのか。何を熱心にやっているのかと、何度か端末を覗き込もうとしたことがあったが、毎度沙耶に物凄い剣幕で睨まれてしまい早々に退散した。
未だに言い合いを続けている凜と紀子をよそに、沙耶はようやく箸を置いて両手を合わせる。沙耶がタブレット端末を取り上げる前に加代は声をかける。
「ねぇ、沙耶ちゃんは何か好きな本とかある?」
沙耶はあからさまに顔をしかめる。
「本……"ロストメモリーと狼少年の告白"くらいしか読んだことないです」
「え、ロス狼読んだことあるの? なら是非この本も読むべきだと思うな。同じ純文学だし」
そう言って加代はベッドから降りると、今しがた開いたばかりの本を半ば強引に沙耶に渡す。
「はい。絶対ファンになるからね」
「……ありがとう」
遠慮がちに言った沙耶に、歯を見せて笑った加代は再び自分に割り当てられたベッドに潜り込む。
「そういえばさ、加代。なんであんたは一週間もここにいるわけ? 普通なら即日退院でしょ」
「そういやそうだね。加代ちゃんなんで?」
討論をしていたはずの凜と紀子の視線が唐突にこちらに向けられ、加代は「え?」と返してしまった。
「だから、なんで一週間もここにいるのよ」
「わたしもよく分かんないですけど、看護師さんの持ってたカルテっぽいのをちらっと見たら不整脈とか書いてありましたよ」
「ふーん」
意外と平凡だったことに落胆したのか、二人が揃って気のない相槌を打つ。「ま、何にしても明日には二人とも退院でしょ? おめでとう」といった紀子にん? と加代は眉をひそめる。自分ともう一人退院するのか。紀子が言っているということは沙耶か凜のどちらかだが——。
「良いわよね、好きに外を歩けるようになるんだもの」
なるほど。凜がそう言うからには、退院するのは沙耶らしい。当の本人は今しがた加代が渡した本を読み耽っていて、自分の話題が上っていることにも気づいていないようだが。
凜の言葉にややぎこちない笑顔を作り、加代は取り敢えず場を繕った。明日の朝には最終検査があるため明日は無理だろうが、明後日には学校に行けるか。学校に行くことができる、この国ではごくごく当たり前のことがこれほど待ち遠しく感じられたことはなかった。
***
このところ身体の疲れが取れない。齢六十八——そろそろ歳か。そんなことを考えつつ老眼鏡を外し、脂の浮き出た目頭を揉む。疲労のせいとも、歳を感じたことに落胆したせいとも受け取れるため息をひとつ吐いた田中は、砂糖三杯にミルクをひと匙入れたコーヒーを啜った。ガムシロップもあるにはあったが、田中はあの妙にべたついた甘さがどうにも好きになれないでいた。
書類やら何やらが乱雑に置かれたテーブルの中央には、今井加代と平成沙耶の退院時サマリーがあった。退院時サマリーとは後日必要な情報を抽出できるデータベースとして機能するもので、内科認定医試験などのレポート作成や臨床研究・診療の質評価のデータ抽出にも活用することができる。
また、特に重要な視点で、退院後に診療する医療職にとって有用な情報源となり、病棟と外来や救急などの他部署との連携を円滑にするツールでもある。したがって、『入院中の情報』(入院時記録+入院後経過)に加えて、退院後の診療に役立つ『退院時の病状』(最終診断名や病状)や、『今後の方針』(退院後の課題)といった、退院“後”に目を向けた記載が重要になる。
サマリーの数は担当患者の数と比例するため、担当患者数は第一内科の中でも三本の指のうちに入る田中が書かなければならないサマリーの数も、一年を通してみるとやはりそれなりの数になってくる。本来ならば、もっと早くに書き終えているはずだったのだが、今日は外来患者がいつもより多く来たため遅くなってしまった。
正直に言ってしまえば、非常に面倒な作業であることに疑う余地など皆無だが、書くからにはしっかりと書かなければなるまい。退院後に読むのは医師だけに限らず看護師やケアマネジャーという場合もあるからだ。すると必然的に、院内でしか通用しない専門用語・略語はできるだけ避けて、わかりやすく記載することもまた重要となってくる。
本来は退院後の切れ目のないケアに備えたり急変時に活用するために、『退院と同時』に出来上がっていることが理想なのだが、生憎明日は諸用で熊本まで飛ばなくてはいけない。担当患者の退院日に、顔を合わせられないというのは心苦しいことこの上ないが、夜に病棟を見回った際は二人とも特に異常はないようだったし、大丈夫だろうと田中は感じていた。
「よ、お疲れさん」
声に気づきその方向を向くと、別棟に入院している担当患者を診に行っていた、第一内科の同僚が数人入ってきていた。
「おう。お疲れ」
「どうだ、そっちは。明日には二人退院するんだろ?」
烏龍茶の入ったペットボトルを傾けながら、隣の席に座ったのはその巨体からクマというあだ名を持つ近衛だった。白髪交じりの顎髭に手をやりながらそう尋ねる様は、その巨体と強めの目力から少し威圧的に見える。が、本人にはその気は全くなく、むしろ相手のことを慮る奴だということを長年の付き合いから知っていた。
「一人は不整脈の気があったんで一週間ほど居させてた娘で、もう一人は三ヶ月ほど前に警察から渡された娘でな。で、警察から渡された娘……沙耶っていうんだが、あの娘はどうにも胸の内が読めなくて困ったよ。まあ、明日には退院するんだがね」
「ああ、あの金色の目の」
「知ってたのか?」
「警察から預けられた素性不明の少女。しかも、その瞳は金色ときてる。スクープに飢えた若い女看護師連中が放って置くわけがなかろうよ」
当たり前のことだろう。烏龍茶をもう一度口に含んでから付け加えられた言葉に田中は、そうだったそうだったと苦笑で応える。
「昼間ちらっとだけ見てきたが、なかなか可愛いな。北欧系っていうのか? あと数年待てばいい女になりそうじゃないか。良いよなぁ、おまえは可愛い若い娘の担当が多くて」
田中は噴き出しそうになったコーヒーを何とか飲み下すと、口元を手の甲で拭った。
「何を言い出すかと思えば……。相手は女子高生だぞ。楽なことばかりじゃないよ。それ以前に、彼女たちは大事な患者だ」
「だからこうして内輪で盛り上がるだけにしているんだろ」
「この変態グマ」
「ほっとけエロ親父」
「……な⁉︎」
空になったペットボトルを手に、立ち去ろうとした変態グマ——もとい近衛を呼び止めた田中は、眉間に手をやった。
「おまえが変態と呼ばれる所以は、おそらく誰もが分かることだろう。だがなんでわたしまで変態呼ばわりなんだ」
「凜って娘にブラ外せって言ったんだろ?」
「あれは診察だからだ、医者ならおまえも分かるだろう。それに、命令形で言った覚えなどない!」
「うんうん、そうだな」
「頼む、信じてくれ」
「仕方ねぇなぁ」
ヒヒヒ、と近衛が肩を揺らす。つまらない言い争いのせいか、どっと疲れが出てきた。残ったコーヒーを一息で飲んでしまうと、田中はおもむろに立ち上がった。どこに行くんだ、と目で問うた近衛に胸ポケットからシガレットケースを取り出して振ってみせる。「お、じゃあ俺も」と言い、近衛がポケットの中をまさぐりながらついて来る気配を察する。ドアノブに手をかけたところで、「悪い雄三。煙草一本」という声が降りかかった。
「ったく、付いて来いよ」
近衛のいつもの手口であることを知っていながら、田中は近づいてきた近衛に煙草を一本放った。
***
「で、どうなんだ彼女」
屋上で寒空の中、身体を寒風にさらしながら煙草を吹かし続けること数分。煙草も半分ほどが灰に還ったころ、業務用の雰囲気を漂わせ始めた近衛が聞いた。沙耶のことか。言外の言葉を汲み取った田中は、どこから話したものかと白髪混じりの頭を掻いた。吐き出した紫煙が風に乗って背後に流れていくのを感じながら、「実のところ、わたしも良く知らんのだ」と田中は言った。
「知らないだぁ?」
「ああ。警察の方から無言で引き渡されてな。向こうはただ三ヶ月程度預かってくれって言っただけにして、それ以降は音沙汰なしだ」
「ちっ……だからサツは嫌いなんだよ」
苦々しげに言い放ちながら、近衛は四方を取り囲む金網に近づいていく。金網の向こうには街の夜景が広がっていて、自分も近衛に倣って金網に近づき、それを見てみる。田中は屋上から見下ろすこの夜景を、純粋に綺麗だなと思った。徐々に近づいてくる救急車のサイレンが、無条件に胸をざわつかせる。
患者がどうこうというわけではなく、人間としての本能があの無機質で不安感を煽るサイレンの音を拒否しているのだ。こんな音、毎日否応なしに耳に入ってくるのに。サイレンの音に慣れない挙句に、まず初めに患者のことか頭に浮かんでこない自分は医者として失格なのかもしれない、と頭の片隅で考えた田中は思わず失笑した。
近衛に不審がられないうちに浮かべた笑みを消し、味のしなくなった煙草の火を消してから携帯灰皿にねじ込む。
「退院したら、どうなるんだあの娘は」
裁判にかけられ、牢屋に入れられる沙耶の様子を思い浮かべた田中は急いでそれを脳内のゴミ箱へと追いやった。
「さぁな。警察から寄越せって連絡も来てないし、別に普通に退院させればいいのかもしれないな。看護師長にも、そう言っておくつもりだ」
「言うなら、一言一句推敲してから言えよ。あの婆、すぐに難癖をつけてきやがる」
「そう言うなって」
下唇を突き出した近衛に、笑って相手をしてやる。扱いが難しいと評判の看護師長の相手をしなければならないことは、それなりの心労を田中に与えていた。もう一本欲しいなと思い始めた自分に、一日一本と決めたではないかと戒め、取り出しかけたシガレットケースをポケットの奥にしまう。
「おまえ明日出張だろ。なんなら、おれが退院を見送ってやらんでもないけど」
「いいのか? おまえも色々あるだろう?」
「大丈夫だよ」
近衛が即座に反応する。やると言ったら途中で投げ出すようなやつではない。念を押すまでもないと結論づけた田中は、「じゃあ、看護師長への報告も頼むな」とあくまでもさりげなく付け加える。直後に上がった近衛の抗議の声は、凍てつき始めた夜空に溶け込んでいった。事故が起きたのなんだのと騒ぎになっているらしい月は、素人目にはいつもと変わらずに自分たちを見下ろしている気がした。