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ディストピア~滅びゆく世界の中で~  作者: 広崎葵
第1章 悪しき夢
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2

 本日五本目の煙草を灰皿に押しつけ、火を消したブライアン・ウォーレットは、まだ肺に残っていた紫煙を吐き出す。すぐさま懐から取り出したケースを振り、六本目を出そうとしたが既に煙草は切れていた。無いと分かると、余計に欲しくなるのが人間というもの。今日までに片付けなければならない懸案があるブライアンは一分、一秒さえも惜しく、買いたくとも買いに行けない状況だった。

 せめてもの慰めにと、ポケットから飴玉を取り出す。剥いた包装紙は足元の屑かごにいれ、飴玉を口に放り込む。ヤニが染みつき澱んでいる口の中に、爽やかな柑橘系の香りが吹き抜ける。レモン味、と舌が受け取った感覚を脳に伝えるよりも速くに「NASA屈指のヘビースモーカーさんが煙草じゃなく飴玉?」という声が間近に聞こえる。振り向いた先には案の定、悪戯っぽい笑みを浮かべた同期のスーザン・ミラーがいた。この忙しい時に、と内心悪態を吐きつつ「何の用だ」と返す。


「別に。無性にあなたに会いたくなったの」

「どうせ嘘だろ?」

「ええ、もちろん」


 即座にスーザンは否定する。普通ならば屈辱くつじょくに顔を歪ませるところなのだろうが、徹夜で作業を続け感情の起伏が乏しくなっているブライアンに、目立った傷がつくことはなかった。何かしらの反応を期待していたのか、あまりの朴念仁っぷりにスーザンは不満げに唇を尖らせる。


「ちょっと。何とか言ってくれないと、張り合いってもんがないでしょ」

「張り合い? そんなものがなんで必要なんだ。今のおれが欲しいのは時間。張り合いなんか要らん。分かったならさっさと失せろ」


 ぎし、と机が軋む音が返事の代わりに耳に飛び込んでくる。ため息を吐きながらそちらを見ると机の上にでかい尻を乗せ、ただでさえ丈の短いスカートをめくり上げる。穢いものだ、と思う。どれだけ美人と周りが騒いでいようと、それは三十七というブライアンよりたった二つ下の年齢を考慮してのことだ。めくり上げられたスカートの裾から覗く太ももは、確かに年齢に似合わぬ色気を残していたが、ブライアンが結んだのは、だから何だという率直すぎるほどの感想だった。

 女に興味がないわけではない。むしろ若い頃は風俗店にしょっちゅう入り浸っていたし、今でも気分がくさくさした時には顔を覗かせている。相手が自分の身体を売るほかないような女は、人間と判断することさえ難しい。ほとんどの女は違法ドラッグで崩壊した精神を持ち合わせていたり、大量の汚濁と男たちの欲求を受け止め続け肉体が澱んでいるが、一晩の鬱憤うっぷんを晴らす為の道具と割り切れば何てことはない。

 合成樹脂等の代わりに血肉の通った性欲処理の道具。ブライアンにとっての女の価値は、たった一人を除いて風俗でもそうでなくても同じだった。常軌を逸している人間と思われても致し方ない。それは誰に言われなくとも、自らが一番良く理解している。それだけにこうもすり寄って来られると対処に困る。


「分かったわ。用件を済ませたら消えるわよ」

「用件?」


 無駄口を叩くために来たとばかり思っていたブライアンが素っ頓狂な声を上げ、あえて外していた視線をスーザンのそれと交わらせる。真剣な話か。瞳の奥から意思を読み取り、即座にそう判断したブライアンは「手短に頼むぞ」と返した。資料を片手におもむろに腕を組んだスーザンは早速「小惑星が接近しているって話、聞いたことある?」と尋ねてくる。早々に質問をふっかけてきやがった。心の中で舌打ちをかます。


「小耳に挟んではいる。だが、そんなのはどこの会社にでもあるような七不思議みたいなもんだろ? どっかの部署の暇人がホラを吹いてるに決まってる」


 ぴしゃりと言い放ったブライアンに「それが、あながち嘘とも言えないのよ」とスーザンが即座に返す。


「これを見て」


 目の前に放られた資料の見出しには、『小惑星接近を想定しての迎撃衛星の発射計画』と書かれている。端のあたりは黄ばみ、そこそこに古いものであることを思わせる。つい気を取られ、尋ねる気は毛頭なかったのにも関わらず、「これは?」と尋ねてしまった。


「十数年前に行なわれた会議の文書。概要は見出しの通りよ」

「こんな計画があったなんて聞いてないぞ」

「当たり前よ。こんな馬鹿げた計画を普通に報道すると思う? 打ち上げられたのは試作の気象衛星と言ったらしいけど、それはもちろん嘘。因みに迎撃衛星は三分割して打ち上げられた後、宇宙でまたドッキングし直したらしいわ」


 確かに資料にも、三分割した衛星は全て打ち上げた後にドッキングすると書いてある。しかし衛星が打ち上げられる期間は一年おき。それでは動力が保たないのではと思ったが、動力は全て、プルトニウム238の崩壊熱を利用する原子力電池(RTG)と太陽電池の両方を採用しているという。なるほど、動力について心配することはないのか。感心半分、呆れ半分。苦笑しようとして果たせず、ブライアンは口の中の飴玉を頬に追いやってから、懐から取り出した携帯用酒瓶を傾ける。アルコールの匂いに気付いたのか、スーザンが咎める目を向けたが、構いはしない。


「資料はざっと読んだ。打ち上げた後の迎撃衛星の運転は自立運転だろうが、迎撃の時は相当な情報処理能力が必要なはずだ。しかしだ。今現在、それをこなしてしまうほどに高度な情報処理システムは、世界中どこを探しても存在しないはずだが」

「噂にしか過ぎないけれど、国防高等研究計画局(DARPA)では独自開発した量子コンピュータを応用した人工知能の研究がされているというわ。もしかすると……」


 それが搭載されたのかも知れない。言外の言葉を読み取ったブライアンは、返事を保留にしたまま舌の上に呼び戻した飴玉をごろっと転がす。量子コンピュータ——ものすごく簡単に言ってしまえば、スーパーコンピュータでさえ数千年かかっても解けない計算を、たったの数十秒でこなしてしまう化け物染みた情報処理システム——がDARPAで? しかし今日まで開発に試行錯誤を続けられているのは、従来のコンピュータに接続して使う専用計算機のようなものばかり。

 DARPAが作ったというその高性能な量子コンピュータの存在そのものが怪しければ、ペンタゴンとNASAが手を組むということ自体、俄かには信じ難い話だ。あり得ない。そう否定したかったが、するだけの根拠を持っていなければ証拠も持っていないブライアンに、物事を否定する権利は当然の如く巡ってこない。遣る瀬無い思いが苦味となって這い上がってくる。酒瓶を再び傾け、せめて酒ですすごうとしたが苦味は依然として口中の粘膜という粘膜にまとわりつき、どうしようもないということだけをやっとブライアンに伝えた。


「迎撃衛星の存在は了解した。最後になるが、解せないことがもうひとつ。……なんで今この話をする」


 どうでもいいと思われる小惑星の話をわざわざ始めにして。


「パソコン借りるわよ」


 そう言ったスーザンは、今開かれているブラウザを保存したのちに閉じて、パソコンを再起動させる。使用者確認のパスワードに自らのそれを打ち込み、自分のパソコンのプログラムをブライアンのパソコンで呼び出す。いくつかの操作で数個のウィンドウが表示される。その内のひとつを拡大したスーザンは見ろとばかりにあごで示す。

 取られていた席をひったくるようにして奪い返しながら、そこにはいくらスクロールしても終わりが見えないほどの膨大な文字化けしたとおぼしき文字の羅列があった。


「なんなんだこれは……」


 思わず、ため息と共にそんな声が漏れる。


「最近、地球から迎撃衛星に向けて指令が下されたの。これは地球が衛星に送った情報と衛星から地球に返された情報を掠め取ったものよ。定期的な稼動検査だとしても、大規模だとは思わない?」

「なるほどな。確かに大規模だ。そして狙い澄ましたかのように囁かれ始めた小惑星接近の噂、か」


 できすぎてると思う傍らで、これを知っているのはまずいことなのではないかという思いが浮かぶ。NASAでは下の方の部署に配属されているスーザンが、これほどの情報を当たり前のように手に入れられるわけがない。「あたしを満足させてくれるんなら、コピーをあげても良いのだけれど?」耳元で囁いたスーザンに、面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと呟くと、ブライアンは資料をスーザンに投げて返す。


「なによ」

「やめだ。こんなこと詮索して、良いことなんかあるわけがない」

「もしかして怖いの?」

「ああ。なんとでも言え」


 再びパソコンに向き直り、今度こそ振り向くまいと決めたブライアンは文字の打ち込みに意識を振り向けた。スーザンはそれから何度も繰り返し呼びかけていたが、聞く耳を持たないブライアンに呆れ返ると、「これだから男は……」とため息混じりの捨て台詞を吐きつつその場を立ち去った。

 また別な男のもとに行き、場合によればあの緩そうな股への男の侵入を許すのだろうか。そんなことを考えた自分にブライアンはたまらず失笑した。どんなコント番組でも、コメディ映画でも今まで笑うことなどなかったブライアンが、たかが品という言葉の鱗片も見せない一人の女のことで、これまで笑ってこなかった分を取り戻すかのように笑った。周りに気を使う必要はなかった。既に通常勤務の時間が終わり、いつもならば大勢の職員がいる部屋には今、ブライアンの他には誰もいないのだ。

 ひとしきり笑い終えてから、目の淵に浮かぶ涙を拭う。ぐわんと空っぽの部屋に反響した笑い声は後を引き、ほどなくして耳障りの悪い不協和音に姿を変える。時折押し寄せる笑いの余波とは対照的に、口の中の飴玉に当初感じたような清涼感のある甘みは感じられない。人工甘味料や香料といった人の産物が舌や鼻腔にまとわりつき、なんとも言い難い不快さをブライアンに知覚させた。


 ***


 家に着いたらチェーンに油を注し足さなくては。次に修理キットの中の油注しに油を補充して——。漕ぐたびにぎぃぎぃと耳障りな音を闇夜に包まれた街に響かせるロードバイクを見下ろしながら、ブライアンは帰宅してからするべきことを算段していた。デスクに向かっている間に夕立に降られていたらしく、びしょ濡れになっていた車体はまだ拭けば良いだけのことだったのだが、油が流されてしまっていたことには、携帯用修理キットの中に入れていた油が切れてしまっていては対処のしようがなかった。油の落ちた自転車のひと漕ぎは途方も無いほどに重く、肉体的な疲労に精神的な疲労を上乗せさせる。

 何に対するため息かも判別できないそれをつきながら、ブライアンはハンドルを切りロードバイクの進路を路地裏に向ける。散乱するゴミや、中から白濁した体液が溢れ出している使用済みのコンドームを巧みに避け、歓楽街に出る。あちらこちらにある看板は装飾のごとく盛られた多数の電球で夜を蹴散らし、己の存在をこれでもかというほどに誇示しているように感じられた。真夜中であるというのに全くそれらしい様子を見せず、むしろ昼間よりも明るい印象をブライアンに与えた。

 四方八方から安い化粧と、安い服で身を固めた安い女がかけてくる声を意識の外に追いやりながら、ときに立ち止まり“品物”の女達を吟味する男の波の間を縫うようにしてひたすらにペダルを漕ぎ続ける。自分の身体を簡単に売ってしまう女や、そんな彼女達相手でさえ自らの抑えきれない欲望の捌け口とする男の姿はブライアンの瞳には同じ人とは映らず、欲望のままに行動する獣のように見えた。

 したいだけ差別し、見下したブライアンだったが、これからの自分の行き先とその目的を思うと自分も獣だと認める。


「一〇一号室。三時間で頼む」


 歓楽街のある通りの一番奥。そこに立つ薄汚れたビルの小さな窓口で、ブライアンは財布から500ドルほどを取り出す。通りの中心部では腐るほどにいた人は今や自分以外誰もおらず、先ほどまで喧騒の中にいた身には異常と感じるほどの静けさが舞い降りていた。


「いつもすいませんね。こんなボロ店に」


 棒きれのような腕を伸ばして金を受け取った老店主が言う。額にあげていた薄汚れた老眼鏡をかけ、渡された金を数え終わると「確かに」と言いながら傍の固定電話の受話器を取り上げる。


「お客様だ。支度しろ」


 それだけ言うと一方的に通話を切った。


「それじゃあ。ごゆっくり……」


 店主が差し出したルームキーを受け取る。その手が以前来たときよりも骨張っているのを見、やっぱり客は来ていないらしいと認識する。すごすごと奥に引っ込んでいく店主を見送ってから、ブライアンは手にしたルームキーをもてあそびながら歩き始める。

 耐用年数はとっくの昔に過ぎているのではないかと思われるエレベーターを使って、ビルの三階ーー事実上の最上階まで一気に上る。ぽんという軽い電子音が最上階に到達したことを伝え、ぎこちなくスライドしていったドアが不協和音を奏でた。

 エレベーターから降りてすぐの部屋、一〇一号室のドアの鍵穴にもてあそんでいたルームキーを差し込み、横に捻る。鍵が開いたことを伝える乾いた音が静まり返った廊下に響き渡る。一度おもむろに深呼吸をしたブライアンはドアノブを回し、部屋の中へと入っていった。

 部屋に入ると、無条件に身体を反応させる生臭いような甘ったるいような臭いがブライアンの嗅覚を刺激する。少し前まで客がいたのか? そんなことを考えながらも、ブライアンはずんずんと奥のベッドルームへと向かっていく。


「やあ、ニーナ。調子はどうだい?」


 相変わらず膝まである白いワンピースを着て、ベッドの端に腰をかける少女ーーニーナは心持ち顔を上げると、「ブライアンおじさんのおかげで元気いっぱい」と満面の笑みを浮かべてみせた。


「おじさんはよせと言ってるだろう。これでも、まだ三十後半なんだ」


 苦笑混じりに言ったブライアンにニーナは足をぶらぶら「はーい」と返した。


「今日はジュースとお菓子を買ってきた。さ、一緒に食べよう」

「やった!」


 背負っていたリュックからジュースのボトルと紙コップ、菓子を取り出したブライアンは手始めにポテトチップスの袋を開けた。口を開けるようにと言ったブライアンの指示に素直に従い、大きく開いた口にブライアンはニ枚ほどを一変に入れてやる。ぱりぽりとポテトチップスを咀嚼するニーナの顔は喜悦の色に満ちていた。

 しばらくそうしてポテトチップスを貪っていると、ニーナが喉の辺りに手をやる。「喉渇いたか?」尋ねつつ、ブライアンはニーナが喉にやっている手を取り、今しがたオレンジジュースを注いだばかりの紙コップをその手に掴ませる。

 はたから見れば少女に良いように使われているようだが、別にニーナの召使いになっているというわけではない。ニーナはただ目が見えないのだ。

 ニーナと初めて出会ったのは四年前。つい先月十歳になったばかりだというから、その時は六歳だったらしい。ニーナの話を信じるとするならば、彼女は物心ついたときからここで夜な夜なたまに来る客を待っているという。部屋に入って、小さな身体で女とはとても呼べないほどに未熟なニーナが一人、ベッドに横たわっていたときは大層驚いた。微かな空気の乱れを感じたのか、ゆっくりと身体を起こした彼女は言った。いらっしゃいませ、と。

 あの頃よりは大きくなったニーナの身体を見下ろしたブライアンは「客、来てるのか?」と尋ねた。


「うん。おじさんが来てるよ」

「そうじゃなくて、おれ以外にも誰か来てるのかって」

「ああ……うん。来てるよ。ほんとたまーにだけどね。今日はおじさんの前に一人来たし」

「乱暴されなかったか?」


 心からの言葉だったのだが、ニーナはころころ笑うと「それ、あたしに訊くの?」と言った。ポテトチップスを口に運んでいた指についた油を舐めとってから、ニーナはさも当たり前かのように服を脱いだ。古傷や生傷をこしらえた素肌が露わになり、ブライアンは思わず顔をしかめた。


「今日は左の太ももとおへその上らへんに、煙草押されたぐらいだったよ。一週間ぐらい前は強引に縄で縛られちゃったし、それに比べればなんてことないよ」


 煙草を押しつけられた所の肌は赤黒くただれ、見ているだけで痛々しかった。その辺に転がっている売女の傷を見ても何とも思わないのに、ニーナの傷を見るとこうも胸が痛むのはなぜなのか。ブライアンにその真実は自分でもよく分からなかった。ブライアンに分かるその辺の売女とニーナの唯一の相違点といえば、恐ろしいほどに心が綺麗だということぐらいだった。視界を歪ませる水滴を拭ったブライアンは、「めったなことを言うもんじゃない」と叱る声を出すと、ブライアンはニーナの華奢な身体を抱きしめた。「おじさん、煙草臭い……」と言ったが構わなかった。シャツ越しにも彼女の裸体から伝わる熱は、小さい身体ながらも懸命に生命の炎を燃やし続けていることを確かに伝えた。


「自分の身を大切にしなさい。きっと……きっと……明日は良い日になる」


胸の中でもぞもぞと動くのをやめたニーナは、うずめていた胸から顔を出すと、困ったように微笑んだ。


「おじさん。それあたしなんかに言うことじゃないよ。だけど……ありがとう」

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