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 肌を刺激する寒風が、覚醒した加代を迎えた最初の知覚だった。同時に鼻を突いた草と土の臭いに思わず顔をしかめつつ、加代は地面に倒れこんでいた自分の状態を確認する。上手く力の入らない脚を拳で叩いて喝を入れ、無理矢理にでも立ち上がる。

 覚悟していた奏に絞められる窒息感による目覚めがなかったことは、加代に安堵感よりも焦りを与えていた。カヨとの対面の間に時間が経ち、侵略者に連れ去られたという想像も働いたが、対面の前とほとんど違わぬ、白み始めたばかりの空が広がっていることと、腕時計が指す時刻が最後に見た時と大して変わらないことからカヨと話している間、現実世界では時間の経過はなかったのだと理解する。

 では奏はどこへ?

 当然の帰結に従って周囲に目を向けてすぐに、奏の姿は見つけることができた。ほぼ真正面、数メートル離れたところで仰向けに倒れていた。カヨと出会う前に閃いた光は、カヨと自分の意識を繋げただけでなく、奏を身体から引き剥がして、殺されそうだった我が身を守ったとでもいうのだろうか。


「うう……」


 奏が上げた呻き声が耳に入る。苦痛を帯びた呻き、とりわけ親友のそれとなれば、聴く側にも苦しみが伝染すると錯覚するほど悲痛で、痛々しい。


––––うちを、殺して……?


 言葉が耳元で繰り返される。

 狂化に冒され、意識を刈り取られながらも踏ん張った奏が絞り出した言葉は、快活で饒舌だった奏からは想像できないほどに細くて辛いものだった。

 どうにかしたい。どうにかできないものか。

 願う思いとは裏腹に、カヨが開花させてくれた力は、不可能と告げていた。


「––––わかってる」


 ポツと言葉が零れる。

 力のある今なら判る。侵略者が撒いたウイルスに冒された人間は当てのない憎悪と妄念に理性を刈り取られ、代わりに視界に入る人間の全てを壊したい衝動を植え付けられる。

 なんて悪質で、下劣で、背筋の凍る兵器だろう。避難民が逃げ込んできたとはいえ、その数は決して多いものではない。それなのに基地の光景は凄惨という言葉をいくら重ねても足らないほどに惨たらしい有り様だった。

 人で溢れる市街地の光景なぞ、それこそ想像することさえはばかられた。非人道的というより、人を人と見ていないからできることだ。

 意識が生まれる端から刈り取られ、撹拌される感覚は想像だに恐ろしい。自我の消失、などと生易しいものではない。自己という概念をズタズタに引き裂かれていくのだ。

 そんなおぞましいものに冒されながら、自我の喪失という堪え難い苦痛に堪えながら、奏は加代に意思を伝えてきた。それがどんなに辛いことか。

 奏が無抵抗であればたちまち加代に飛びついて、その指爪で皮を剥ぎ、目を潰し、首筋に歯を立てるだろう。そうなっていないのは真実、奏が必死に暴走を押しとどめているからに他ならない。


––––なら、わたしにできることは……


「奏の願いを叶えること、だよね」


 《八九式》のコックピットには平塚から譲り受けた拳銃があり、弾もまだ残っているはずだが、加代に拳銃を使おうという気は起こらなかった。理由は至極単純で、親友を殺すことに無粋な道具は使いたくはないからだ。

 鉛のように重い脚に力を込めて一歩踏み出す。奏との距離は十メートルあるかないかといった程度しかなかったが、何故か距離はなかなか詰まらなかった。どうせならば縮まらないで欲しいという思いが脳裏をちらと過ぎる。だが歩いて縮まらない距離などない。ほどなくして奏の足元に辿り着くと、横たわっている奏に馬乗りになる。

 吹き飛ばされた衝撃が残っているのか、わずかに身じろぎをするのに終始して、馬乗りになった加代を振り払おうとする気配はない。

 まどろんでいるような奏の瞳と目を合わせる。それから瞼を閉じて、綺麗な焦茶色を網膜に焼き付けた加代は、深く息を吸った。新鮮な空気で満たされた肺に蓋をすると、加代は奏の喉に両手を重ねて、絞めた。

 気道を塞がれた奏の身体は、静かであった一瞬前からは想像がつかないほどの力と勢いで大きく跳ねる。わずかに残る奏の思惟による反応か、宿主を生かそうとするウイルスの生存本能か。前者でないことを祈りつつ手に込める力を強める。

 奏の抵抗が次第に大人しくなっていくのにさしたる時間は必要なかった。もう一押しと、乗せきっていなかった体重を乗せようと奏の腹の上に置いていた腰を上げた時だった。ふわと奏の匂いのする風が顔の間近で吹いたと知覚した直後、何かが加代の頬に触れた。

 触れたものが奏の右手だと理解することに数秒。加代は逸らしていた視線を奏に向ける。すると、視界に奏の首を絞めている自分の両手と少し上で薄く微笑んだ表情を浮かべる奏が入ってきた。力を弛めるでもなく、加代は一度ぴくりと痙攣を起こしたまま硬直してしまったが、それも「か、よ……」と奏が潰れかけの喉を震わせるまでのことだった。


「奏……?」


 奇跡的に意識が戻ったのか? 思わず両手に込めた力を弛めようとして、頰を離れた右手に制止させられる。


「かよ……ごめん……ね……ほ、んまに……ありが、とう」


 瞬間、鼻の奥がツンとして、釣られたように目頭が熱くなる。奏は何も悪くない、そう応えようとしたがいま口を開いてしまったらきっと嗚咽しか出てこない。

 それだけは避けなければ。奏の最期を罪悪感だけで終わらせたくはない。その一心で、潤む視界には気づかないフリをした加代は笑みを浮かべて見せながら、ゆっくりとかぶりを振った。見届けたのかどうかは判然としなかったが、やがて一切の力が抜けた奏が湛える笑みは心待ち彫りを深めていた。

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