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ガスタービンエンジンの小刻みな律動と、無限軌道が伝える雑な振動からなる《八九式》の乗り心地は、お世辞にも良いと言えるものではない。
それでも、極度の緊張と恐怖に晒された身は休息を求めていたらしい。《八九式》の速度に狂人らが付いて来られないこと、人気のない方向に向かって行っていることを理解した途端、加代は眠ってしまった。
次に知覚したのは制動による衝撃だった。瞬間的ではあったが、前のめりになった身体を押しとどめるハーネスが肩に食い込む痛みに寝起き早々、顔をしかめる。
「大丈夫? 奏」
《八九式》が完全に止まり、コンソールのディスプレイに目的地到着の文字が浮かぶのを見てからハーネスを外した加代は、後部座席にいる奏の様子を伺う。
「ん……大、丈夫。目的地に、着いたんかね?」
同じく寝起きらしい奏は心なしか苦しそうに見える。エアコンなどという上等な機能がない《八九式》のコックピット内はやや寒かった。逃げるときに汗もかいただろう。身体を冷やして風邪を引いてしまったか?
「奏……」
「ごめん、加代。外に出たいんじゃけど、ええ?」
こちらを遮るようにして言った奏に流されるように首を縦に振った加代は、ちらと過ぎった危惧をひとまず保留にして、まさぐった記憶のままに加代はハッチを開けた。
時刻は午前五時を回り、世を席巻していた夜気は東の空を白く染め始めた太陽に西側へ追いやられ始めている。先にコックピットから出て、足元がおぼつかない様子の奏に手を貸して、朝焼けと装甲各所に灯るランプの光を頼りに慎重に降りる。
すぐに降りたようにも感じたが、地に足をつけた頃にはまだ暗がりの中でありながら、周りの景色が見える程度には明るくなってきていた。
「工事現場……なのかな」
数歩歩いて、掘り起こされた地面や打ち下ろされた鉄製の杭を見た加代が呟く。ここに来るように自動運転は設定されていたようだし、国防隊直轄地なのだろう。非常時でなければ捕まってかつ厳重注意、悪ければ学校を退学させられているかもしれない。
「確かにここなら追手は来ないだろうけど、これからどうしよう……とりあえず食料かな? ねえ、奏?」
振り向きつつ問う。だが、そこで奏と資産が交わることはなかった。両側頭部を手で押さえつけるようにしているようにしてうずくまっている。
「奏?」
「来んで!」
一歩踏み出した加代を鋭い声で押しとどめた奏は、次第に苦しそうな呻き声を上げ始める。
「奏、まさか……」
「逃げて……加代」
「そんな、やだよ……」
奏の呻きは尋常ではない。状況からして、それが表す事象は明白だったが、知らぬふりで奏に駆け寄ろうとする––刹那。
視界いっぱいに奏の身体が映った。跳んだ、と理解した時には遅かった。しゃがんだ体勢から跳躍したとは思えない速さ、跳躍力だった。
気づくと奏に体躯を押さえられていた。咄嗟に四肢に力を込めるが、奏の腕がその細さからは想像だにしない力で、さながら万力のように加代の身体を地面に押し付けていてピクリともしない。
歯噛みしたのもつかの間、現実に立ち返った加代は「奏⁉︎」と呻いていた。目は血走り、頰にも幾筋かの血管が浮かび始めている奏の見た目はどんどん狂人のそれに近づいていく。こちらの動きを封じる奏の四肢の圧力が高まったと感じた瞬間、両手にかかっていた圧力が喉に集中した。
「くぁっ……」
冷静を保とうとするも、反射的に息を吸おうとして果たせなかったことで脳が混乱する。灼熱する肺。酸素を求める血肉。無駄な嚥下を続ける喉笛。身体で起きていること全てが早送りにもコマ送りにも感じ取れ、同時に、全身から感覚の潮が引き始めるのを知覚した。
流石にここまでか。なけなしの酸素で回された理性が、これで二度目の呟きを放ち、そうなのだろうと加代の心も納得する。ここには平塚のように助けてくれる第三者が存在しない。
同じ殺されるなら、見知らぬ他人より親友の方が幾分マシか……。そんな感慨も湧きだすと、何かが吹っ切れたのか、窒息の苦しさも全身を押さえられる痛みもスッと抜けていく。
ただひとつ、狂人化した友人を残していくことへの無念と謝罪の想いが胸に鉛を呑んだような重みと痛みを訴えていた。だがこの状況は覆しようがない。仕方がない。
触覚も薄れゆくの中、ポツと何かが頰に落ちたのがひどく明瞭に感じ取れた加代は、いつの間にか閉じていた瞼を開いた。酸素が足りない身体では瞼を開けることさえ億劫に思えてくるのを堪え、焦点を合わせようとする。勝手に出た涙のせいか、酸素が回らないせいか。どちらにせよ歪んだ視界の中で加代が捉えたのは奏の泣き顔だった。
奏の表情は消えている。ただ涙だけが頰を滑り、加代の頰に落ちてきている。言ってしまえばそれだけだが、むしろ他に感情を示すものがない分、感情が色濃く出ているのかもしれない。
「か、よ……」
蚊の鳴くような声に目を見開く。
「この、ままじゃ……加代を、殺してしまう。だから……うちを、殺して……?」
奏の深層意識が全力で抵抗をしてやっと話しているのか、言葉は途切れ途切れだったが、それについて振り分ける思考の余裕は加代にはなかった。
私が奏を殺す?なにを言っているのだ?
回らない頭を無理に回して、それだけの疑問を浮かべた加代だったが、ふと思いつくものがあった。
奏は発症していない加代を助けようとしているのだ。自分を犠牲にして。
治療方法を持ち合わせていない以上いや、そもそも治療方法などないのかもしれない状況、加えて加代には殺さず無力化するなどという技術も道具もないのだ。狂人化していない人間を襲う敵を殺すのは当然の結論。ならば奏の意思を尊重するべきか。
そう考えてしまうのは、悔しいと思う。しかしその悔しさは力さえあれば感じずに済んだのではないか。こうした状況に追い込まれたのは自分に力がないからではないのか。
––きみは特別なんだ
––その気になれば歴史すら変えられるほどのね
いつかの夢で聞いた顔のない相手の声が思い出される。なにが特別。なにが歴史を変えるほどだ。親友の一人も助けられない人間のどこが特別なんだ。
力だ。力がないからこうなる。力があればこうはならなかった。血の気が失せつつある手を握りしめる。
加代の気迫に萎縮したように、奏の腕の力がほんのすこしだけ弱まる。気道に開いた隙間から空気が一挙に流れ込んでくる。空気を味わう間も無く、想いのままに声を上げていた。
「力があれば……!」
瞬間、光が弾けた。こめかみで弾けた薄い光はあっという間に周囲を白に染め上げる。喉笛を絞める奏の両手。少ない酸素に悲鳴を上げる肺。酸素欠乏で早くも走り始めた疼痛。その全ての感覚が白の闇に呑まれたように失せる。
身体さえ溶けて白の世界に意識のみで現界した加代は、意識ひとつで白の世界を飛んだ。その行動は加代が考えてしたことではなかった。力を欲する強い深層思念に触発された感応波の為した、言わば"奇跡"の一端だった。