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ディストピア~滅びゆく世界の中で~  作者: 広崎葵
第1章 悪しき夢
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1

 目覚まし時計のけたたましいアラームと共に加代(かよ)は目を覚ます。もっそりと起き出し、耳障りなアラームを止める。寝ている間に汗を吸ったのだろう、背中に張り付いた下着が妙に冷たい。こちらも下着に負けず劣らず、汗を吸ったベッドから降りる。フローリングが素足にその冷たさを伝えたが、冷た過ぎるのか痛いという感覚の方が強かった。

 久々に夢を見たな、と加代は独りごちる。それもかなり現実味を帯びていて、意味不明な夢を。空を飛んだかと思えば街が燃え、海の中で炎に巻かれかけたところで宇宙で小惑星を見た。そこまではいいのだが、問題はあの無数の人影と声だ。たしか地球を救ってくれとか言っていた。夢にしては妙に生々しいあの声が頭の中にこびりついている感じがして、思わず加代は頭を左右に振った。

 家は静まり返っており、既に両親が会社に出勤していることを物語っている。いつものことだ。家に自分以外誰もいないことを確認しながら階下へと降り、洗面所に向かう。おもむろに櫛を手に取った加代は、ざっくりと髪を()かした。ミディアムボブと呼ぶのが正確な加代の黒髪は艶があり、寝癖も滅多につかない。放っておいてもぼさぼさにはならず、伸びるときもほぼ整った形で伸びてくれるため、手入れを面倒と感じる加代にとってはありがたいことこの上なかった。

 顔を洗い、昨日のうちに作っておいたおにぎりを頬張りながら、再び上に向かう。パジャマを脱ぎ、迷った挙句に汗を吸った下着も脱ぎ捨てた加代は、肌を刺す冷気に身悶えしながらも手早く新しい下着を身につけ、高校の制服を着込んだ。

 着始めてから一年と半年が経つ制服は、初めはきいていた糊が取れ、くたびれてしまっている。が、加代はこの方が着やすいに決まっていると言い、決してクリーニングには出さない。この日も付いていた糸くずなどを、粘着テープで一通り取り終えると、昨夜のうちに今日の授業の用意を入れていたリュックを背負った。


「行ってきます」


 いつものように、返ってくるはずのない挨拶をした加代は、ドアに鍵をかけたことを確認してから登校した。腕時計を見ると、針は七時半を指している。学校には八時半までに着けば良く、加代の家から学校までは三十分もかからないのだが、加代はいつもこのぐらいの時間に家を出ている。

 というのも、中学からの同級生である元村奏もとむらかなでと登校するというのが、いつもの日課であるからだ。父親の仕事の都合で広島から上京してきたという彼女は秀外恵中、温厚篤心。まさに完璧としか言いようのない人間でありながら、自分のことを少しも鼻にかけることはない。少々天然のような節もあるが、ご愛嬌といったところだろう。そういったことも含めて、男子はもちろん女子からの信頼も厚い。とくに特筆すべき点が見受けられない自分とは大違いだと、加代は自嘲した。

 ものの十分もしないうちに奏の家に着いた。家の前にはゆるくウェーブのかかったセミロングの髪を、後ろでポニーテールに結おうとしている奏の姿があった。奏もこちらに気づいたらしい。手首に付けていたヘアゴムでポニーテールの結ってしまうと、加代がたどり着く前に自分から近づいてくる。


「加代、おはよう」


 白い歯を見せながら奏が言う。


「おはよう、奏。髪、ポニーテールにしたんだ?」

「うん。いつまでも同じ髪型じゃといい加減飽きるじゃろ? ほいじゃけえ、ちぃと変えてみたんよ。……似合わんかな?」


 今まで下ろしていた肩まで届く髪をポニーテールにすることを、ちぃとと呼ぶのかどうかは疑問だったが、それを敢えて口に出すような馬鹿な真似はしなかった。不安そうな目をする奏に加代は「そんなことないよ」と返しながら、歩くようにさりげなく促す。実際、奏のポニーテール姿はなかなか様になっていて、違和感を感じる隙はなかった。ただ一つだけ手を加えるとするならば——。


「え? ちょ、加代?」


 ポケットに入れていた淡いピンク色のシュシュを取り出した加代は、何も言わずに奏にそれを付けさせる。突然の事態に、奏が戸惑った声をあげる。何をされているのかが分からず、じたばたする奏に「動かないの!」と一喝した加代は、奏の動きが止まった一瞬を逃さずにシュシュをポニーテールに付けた。


「はい。お終い」


 奏の肩を両手でぽんと叩く。一方的に付けられたシュシュを恐る恐る、といった様子で触っている奏に、加代は小さな鏡を渡した。シュシュを付けた自分の姿を認めると奏は目を輝かせ、しばらくは無邪気な歓声をあげていた。そしてふと我に返ったかのように加代に鏡を返すと、せっかく付けてあげたシュシュも取ろうとする。


「取らなくていいんだよ。それは奏にあげたんだもの」


 慌てて止めた加代を見た奏は、目をぱちくりとさせる。


「……ええん?」

「良いよ」


 事実、今の加代の髪の長さでは髪を縛ってもあまり意味はないし、これから伸ばす予定もない。半年前に腰まで届く髪をばっさりと切って以降、ポケットに入れたままだったのだし、使われた方がシュシュも本望だろう。人から無償で物を貰うことに罪悪感を感じるタチの奏は、もう一度念を押すように尋ねてくる。


「ほんまにほんま?」

「本当だってば。ほら、そろそろ急がないと遅刻しちゃうよ?」


 ありがとうと言いかけた口をそのままに腕時計を見た奏は、やばっと呟く。「急がんといけんね」と言うと、加代の腕を掴み駆け出した。いつもはこんなことはしない奏が珍しいと思ったが、揺れるポニーテール越しに耳先が仄かに赤く染まっているのを見た加代は、直ぐに照れ隠しかと思い直した。

 今は奏のさせたようにさせればいい。充足感に似た気持ちが加代の胸に広がる。住宅街を抜け、街中に出る。車や人が行き交ういつもの風景。そこに夢で見た爆発の光景が重なり、加代は目を見開いた。

 思わず奏の手を振り払う。驚いたように奏がこちらを窺ってくる。意思に反して身体が震えだす。冷や汗が止まらない。頭を抱えた加代は、遂にはその場に座り込んでしまった。奏が肩を叩きながら話しかけ、通りがかった通行人が大丈夫かなどと声をかけてくれているのが分かる。が、それは遠のきつつある意識を繋ぎ止めるには、石ころほどに役の立たないものだった。


***


 消毒液のにおいが鼻をつく。どうもこのにおいは好きになれない。早く消毒液のにおいから離れたい。それだけの思いで加代は目を開けた。何もない無機質な天井。清潔感はあるものの、温かみを感じないベッド。加代の寝かされている部屋には計四つのベッドがあり、それぞれに加代と同じ年齢か少し歳上の少女が横になっている。ある者はヘッドホンで音楽を聴き、ある者は読書をし、ある者は寝ているのか閉じた目を天井に向けている。

 部屋の状況からしてここが病院だということは検討がつくが、記憶が混濁してしまっていて、自分がなぜここにいるのかがはっきりしなかった。ガラッと音を立て、出入り口のドアが開く。薄い桜色のナース服を着た二人の看護師が入ってくるのを見た加代は「あの……」と、極めて控えめに声をかけた。

 患者であるらしい少女達は、そのことに気づいているのかいないのか。なんの反応も示さない少女達を他所に、看護師の一人が目を見開いてこちらに駆け寄ってくる。もう一人に田中先生を呼んできて、と指示しながら駆け寄ってきた看護師は「大丈夫? 気分は?」などと声をかけてくる。あまり他人と話をする気分ではなかったが、答えずに余計な検査に回されることのほうが苦痛に感じた加代は、さっさと終わらせたい一心で機械的に受け答えをする。

 もともとは点滴の薬液を補充に来たのだろう。聞くことを一通り聞き終えた看護師が、加代の腕に繋がっている点滴の薬液のバッグを慣れた手つきで交換している間に、白衣を纏った初老の男が入ってきた。あのおじいさんが田中先生だろうか。


「どうも。担当をさせて頂きます田中と申します。気分はいかがです?」


 優しい笑顔と調和がとれた柔らかい声だった。


「悪くありません」

「それは何より」


 看護師が先ほど加代から聞いたことをメモした紙を、クリップボードごと田中に渡す。受け取った田中はボードに挟まれた何枚かの紙をぱらぱらとめくる。


「持病なし。アレルギーなし。今朝も朝食は摂ったようだし、身体は健康そのものだね。特に異常は見受けられない」

「……」

「きみが何かを恐れているように見えたと友達は言っていた。……ぼくは内科医だけど、きみの話を訊くことぐらいはできるし、何か困っていることがあるなら相談にも乗るよ?」


 自分を労ってくれていると感じた加代は、とてもありがたかった。仕事に勤しむ両親には見向きもされない加代にとって、大人から優しくされるのは本当に久しぶりだった。それだけに大人には心を閉ざそうとする我が身を振り返ると、田中の優しさは針となって加代の胸を突き刺した。

 加代の中の大人の印象は金に貪欲で、上の顔を窺いつつごまをするような汚ならしいものだった。両親とて、仕事をすることを欲するあまりにどこかおかしくなっているというのが加代の見解だ。他人を気遣っているように見せながら、腹の中では自分のことばかり考える。大人は皆、そんなものなのだろうか。大人はそんなに穢れた生き物なのだろうか。

 加代のそんな考えを、田中は一新させた。悪い大人ばかりではない。加代は思った。今まで自分の視界に入っていた大人が、たまたま(、、、、)人間としての価値のない動物だった。それだけだったのだろう。大人にはなりたくないと思っていたが、こういう大人にならなってもいい。


「ありがとうございます。勉強のストレスで、疲れが溜まっていただけです」


 嘘ではなかったが、真実でもなかった。嘘と真実は表裏一体。よく言ったものだ。田中も探る目を向けたのも一瞬、何かを察したのだろう一つ頷いた。


「なら良い。だけど、ここで寝ている理由が理由だからね。悪いけれど念のため、一週間はここに居てもらうよ。ご両親にはすでに連絡は入れておいたんだが……」


 田中に確認の目を向けられた看護師は、横に小さく首を振った。来ていないのだろう。思わず口元に苦笑が浮かんだ加代は、気付かれないように慌てて顔を俯ける。


「両親は仕事が忙しくて手が離せないのでしょう。仕方ありません」


 無理に呼ばれても困る。暗にそう伝えたつもりだった。裏の言葉を認識してくれたかどうかは分からなかったが、優しい顔を露骨にしかめて見せた田中は「そうかい……?」と納得していない声を出した。


「此方から何度か連絡を入れるよ。今じゃなくて良いから、きみからもご両親に連絡を入れてみてもらって良いかな?」

「分かりました」

「先生、そろそろ」


 脇に立っていた看護師が田中に声をかける。うんと返した田中は、立ち去り際にこっそり加代に小さな紙を渡した。声を出しそうになったのを慌てて堪えた加代は、極めて平静を装って頭を下げた。

 看護師が出て行き、ドアを閉めるのを見届けた加代は、溜めた息を一気に吐き出した。右手を開き、握らされた紙を眺める。名刺を渡されたらしい。名前と肩書きが書かれている。雄三ゆうぞうというのか。名刺に書かれた名前を見、そんなことを考えながら何の気なしに名刺を裏返す。

 元から書かれていたのか、たった今気づかぬ間に書いたのか。裏にはメールアドレスと電話番号がボールペンで走り書きにされていた。最近の医者はみんな、こんなに気を回すのだろうか。そんなわけがない、一人苦笑した加代は、ベッドの傍に置かれたテレビの台に小さな引き出しがあるのを見つける。取り敢えずしまっておこうと、引き出しを開ける。声がしたのはその時だった。


「それは捨てた方が良いと思うわよ」


 真正面のベッドで音楽を聴いていた女の子だった。歳は加代と同じか、少し上くらいだろうか。つけていたヘッドホンは外され、今は首にかけられている。


「あんなやつの連絡先なんか、知ってるだけ損なだけよ」


 捨てた方が良いとはどういうことか。尋ねる間も与えずに、少女は続けた。口調からして相当嫌っている。いや、嫌っているどころではないか。雰囲気からして、同じ空気を吸うことさえも嫌悪している。とすると、それなりの理由はあるのだろう。


「わたしは親身になってくれる先生だと思いましたが?」

「初めはみんなそうやってあの変態に騙されるの。ほんと馬っ鹿みたい」

「へ、変態……?」


 久々に良い大人に出会えた気がした加代は知らぬうちに少し尖った口調で話していたが、変態という突拍子もない単語に苛立ちの種火はその勢いを弱らせる。やれやれといったように少女は深いため息を吐く。左手でうな垂れた顔を覆うその姿は、先ほどまでのたんかを切る姿とは裏腹に、なんだか少し悲しげだった。


「あんたは聡いように見えたんだけど、見込み違いだったみたいね」

「それってどういうことです」

「あら、そのまんまの意味よ」


 言いたいことを言って、自分に質問を投げかけられたらのらりくらりとかわす。加代の嫌いなタイプだ。奥歯をぎりと鳴らし何とか言い返してやろうと上手い言葉を探していると、ぽんという何かが弾ける音がした。


「あはは、ごめんごめん。うるさかった?」


 静まり返っていた部屋だったため、思いの外音が響いたのだろう。笑いながらそう言ったのは、右斜め前で本を読んでいた少女だ。包装を取ったばかりのアイスキャンデーは早速口に咥えられている。濃いピンク色と、漂ってくる甘ったるい匂いからしていちご味だろう。


「そうそう。りん、あんまり新入りさんを虐めるんじゃないの。子どもっぽいよ……あ、事実子どもか」

「う、うるさいわね。わたしはあんた達なんかよりずっと精神的に大人なんだから」

「聴診器で胸の音を聴くときに恥ずかしくてブラ外そうとしない人が、果たして大人と呼べるのかねぇ? 挙げ句の果てには、外してくれって言った田中先生を変態呼ばわりだし」


 みるみる内に顔を真っ赤にした凜と呼ばれた少女は「だったら何よ。紀子きこは外すっていうの⁉︎」とアイスキャンデーをむしゃぶる、紀子というらしい凜と同じぐらいの年頃の少女に荒々しく返す。


「外すけど?」

「……あっそ!」


 不利と判断したのか、ヘッドホンを付け直した凜は、横になるとシーツを頭からかぶった。好きなだけ言って不利になったら即退散、やはり加代の嫌いなタイプだ。紀子と視線が交わる。ふにゃと表情を崩した紀子は、困ったもんだとでも言うように肩をすくめて見せた。


「ごめんね。この子、新入りには当たりが強くてさ。自分がなかなか退院出来ないからって、ちょっとわがままなんだよね。でもまぁ、根は悪い奴じゃないから遊んでやる程度の気持ちで相手してやって……おっと」


 紀子がアイスキャンデーを三分の一ほどかじると、中に入っていた練乳が溢れ出した。危うく垂れそうになっているところを、慣れた様子で上手く舌で舐めとる。白い練乳を赤い舌が舐めるさまは、何だか妙に色っぽく加代の目に映った。

 緊張が緩んだのか急にまぶたが重くなってくる。自覚はしていなかったが、身体は疲労を溜め込んでいたのだろう。この機会にじっくりと休ませてもらった方が得策だと考えた加代は、横になってシーツをかけた。授業で大幅に遅れを取ってしまうな。そこまで考えはしたものの、濁流のように押し寄せる眠気に耐えきることは出来ず、間も無く加代の思考は途絶した。


 ***


 がさがさと紙袋の中を漁るような音に、加代の睡眠は破られた。眠っている間に夢を見たような覚えはないから、恐らく深い眠りから浅い眠りに移行するところで破られたのだろう。何度か目を瞬く。目ヤニがまつ毛同士をくっつけているのか、離そうとするたびに軽い痛みが走った。半身を起こす。手の甲で目をこすると、ぽろりと目ヤニが取れるのを知覚する。


「あ、ごめん。起こしてしもうた?」


 いつから居たのか、奏が夕焼けを背負って窓ぎわに立っていた。もうそんな時間か。じんわりとかいた汗を拭った加代は、その質問には答えずにただの一言を口にする。


「来てたんだ」


 椅子の上に置いたリュックから、奏がいくつかのプリントを取り出す。どうやら目を覚まさせた音源はこれを探していた音だったらしい。プリントをクリップで二つの束にまとめてから、テレビの台の上に置いた奏は「うん」と返した。


「これ、今日配られた課題のプリントと授業のノートのコピー。ノートの方で重要なところは、マーカーで線引いといたけえね。ちゃんと確認しときんさいよ」

「ありがとう。さすが奏、綺麗にまとまってる」


 ノートのコピーを目にした加代は、率直な感想を述べた。三分の一ほどは教師が口頭で言った重要そうな部分をメモする欄に当てられ、マーカーも色を使い分け、ノートをより見やすくすることに貢献している。


「そんなことありゃあせんよ。うちはこうしたほうが、後で見直したときにやりやすいけぇそうしとるんよ」


 少し困ったような顔と柔らかい広島弁に中和されたのか、普通だったら「うざい」と切り捨てる言葉も何だか納得出来た。何だかんだ言って、自分も相当身勝手だなと頬に苦笑を刻んだ加代は、ふと凜と紀子がいないことに気づいた。


「あのお二方なら診察に行っていますよ」


 声の主は、あの終始寝ていた少女だ。流れるような長い髪を手櫛てぐしで梳く。手櫛をする手とは反対の手は大型のタブレット端末に指を滑らせ、髪で加代からは見えない目にディスプレイの青白い光を受けている。起きていたのかと思う一方、ディスプレイの光を浴びているにしても白すぎる肌に若干の疑問を覚える。

 北欧の血でも混ざっているのだろうか。それにしては、髪の色は漆で塗られたかのように深く艶のある黒色で、いかにもアンバランスだ。歳は——よく分からない。「綺麗な人じゃね」耳元で奏が囁く。加代には見る目がないが、奏にはある。その奏が綺麗な人というのだから、彼女は綺麗な人なのだろう。無条件にそう断じる。それを腰巾着と笑う人もいるが、加代も笑う人を見るたびに心の中でそいつをわらった。本当に信じることのできる相手がいないのだな、と。奏のくしゃみで、飛んでいた思考が肉体に舞い戻る。取り敢えず、彼女に教えてくれたお礼を言うのが先決と思い直した加代は、上半身をそちらに向けた。


「そうなんですか、ええと……」

「沙耶です」

「沙耶さん、ありがとうございます」


 沙耶と名乗った少女は、一瞬だけ目を見開いた。かかっていた髪が払われ、こちらを見返した眼球の中心部に据えられている瞳は、金色に輝いていた。突然姿を現した神秘的な瞳にどぎまぎしつつ、加代は生唾を飲み下した。


「なぜお礼を?」

「なんでって、分からないでいたことを教えて下さったんですから、お礼は言わなくては礼儀に反するでしょう?」


 美しく神秘的だけれども、肝心な感情をどこかに置き忘れてきてしまったかのような瞳。真正面から見据えてそう感じとった加代は、自分が言葉を返した途端そこに寂寥の念に似た一抹の何かが弾むのをみた。それが何かを判別する間も与えてくれぬまま、「そうなんですか」と返した沙耶の瞳は再び底なし沼に舞い戻った。持っていたタブレット端末を持ち直した沙耶は、それきり顔を上げることは二度となく静かに指を走らせ続けた。


「敬語を使つこうとるけど、あの子常識いうもんを知らんね」


 耳元でまた囁いてきた奏の頭を「失礼だよ」と言いながらぺしとはたく。赤い舌をちろっと出した奏は、そろそろ帰る時間なのか付けていた腕時計に目をやった。奏のことだから、言い出すタイミングを掴み損ねているのだろうことは容易く察しがつく。小さく笑った加代は「もう時間?」と聞いてやった。


「うん。これからピアノのレッスンに行かんといけんのよ。ごめんね、加代。明日も来るけえ」


 案の定だ。眉をハの字にした奏が加代を両手で拝む。


「良いって、良いって。わたしのことは本当に気にしなくて良いからさ」

「そうはいかん。加代のおっちょこちょい加減は度を越しとるし」

「何よそれ」


 思わず頬を膨らませた加代をみた奏は、微笑を顔に浮かべる。上がった右手は加代の頭の上に置かれ、親が子どもをあやすようにぽんぽんと叩いた。リュックを担いだ奏は、最後にじゃあねと手をひらひらさせると、ドアの向こうに消えた。

 静寂が訪れる。今まで騒がしかったのがここまで静かになると、さながら台風の目に入ったかのようだ。特にこれといったする事もなく、勉強もする気にはなれなかった加代はスマートフォンを取り出し、日中の間に来ていたメールを確認する。どれも広告ばかりだったが、開いて一瞥しては削除する単純作業はなかなか良い暇つぶしだった。最後の一通というところで、唐突なバイブが手を震わせた。

 送信元には『母さん』と出ていた。今更なんだという気持ちが湧いたが、大切なことが書いてあったら困るのは自分だと思った加代は、画面の上から降りてきた通知のバーをタップする。


『病院の方から大体の事情は知らされました。着替え、入院費は此方で病院に送ります』


 仮にも娘が道端で倒れたというのにも関わらず、物のような扱い方は変わらない。キャラのあまりのブレなさに加代はたまらず苦笑する。壊れた道具の修理代程度にしか思っていないのだろう両親を思い、自分は一体どちらに似たのだろうという考えが浮かんだ。

 顔は父親似とよく言われる。せめて性格に関しては似たくないと思うものだが、あのような環境で、あのような両親に育てられたのだから似てくる可能性は否めない。こうして年齢不相応なほどに、冷静に物事を判断するのだって両親の影響。結局これといった力も抗う術もない子どもに、家の呪縛から逃れる手段などないといった結論に落ち着いた。毎度のことだ。

 ふと空腹を覚えた加代は、腹に手をやりながら台の上の時計を見る。食事が運ばれてくるまであと一時間と少し。エネルギーを消費するだけ無駄と判断した加代は、食事の時間までもうひと眠りすることにした。

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