17
一足先に用をたし終えた加代は、横一列に並ぶ仮設トイレのひとつの扉に寄りかかって奏が出てくるのを待っていた。軽く吸い込むだけで肺を凍てつかせる冷気が相変わらず加代を取り巻いていたが、先ほど奏が腕を絡ませてきた胸の辺りはまだ暖かい。
「あったかい……」
ポツと呟いた直後、水の流れる音を背に奏が仮設トイレから出てくる。
「あー、危ない危ない。漏れそうじゃったわー」
言いつつ出てきた奏は、胸に手を当てていた加代を見るなり、「……どしたんよ?」と訝しげに問うた。数分前には救われるような思いをさせてくれた相手が、自分の中であっという間にただの天然娘に戻っていく様に軽いショックを受けつつ、
「なんでもない!」
「えー、なんなんよー」
多少むくれ気味の加代に奏はさっぱりわからないといった風に返してくる。なんでこうも鈍感なのだろう。先ほどの情もトイレで流してきたとでもいうのか。
この時ばかりは不安もなにも頭から吹っ飛んだままずんずんと歩いていると、ドンという重低音が鼓膜を震わせた。
「きゃっ!」
悲鳴を上げて耳を押さえた奏がバランスを崩したのを咄嗟に支えた加代は、反射的に空を見上げてから四方に視線を飛ばした。
上空から降り注いだように思えた音はまるで爆発音だったが、基地の照明以外の光源は基地内にも、天然の要塞の如く基地をぐるりと囲んでいる山にも見当たらない––なんだ? なんの音だ?
(その子から離れろ)
考えるそばで誰かの"声"が頭蓋を揺らした。前触れなく現れた感覚に、グッと喉の奥で声ともつかない変な音が鳴る。
「ありがとう加代……大丈夫?」
今度は耳から飛び込んできた声に現実へと引き戻された加代は、無意識のうちに腕の中に抱えていた奏を視界に入れて、慌てて奏を解放した。
「うん、大丈夫。それよりさっきの音は……」
"声"のせいか、吹き出してきた嫌な汗を奏に気づかれないうちに服の袖口で吹きながら、再び空に目を向けた加代に奏が声をかける。
「加代、一旦集合場所に戻らん? ……その、みんなのことも気になるけえ」
ここで奏が言う『みんな』とは彼女の家族のことだろう。加代の身を慮ってか、『家族』という言葉を口にするのを奏に遠慮させてしまった後悔を感じるのも束の間、
「ダメ」
加代が発っしたのはその一言だった。予想外の言葉に奏が目を丸くする目の前で、加代も自分自身が発した言葉に判断が追いついていなかった。
考えて出た言葉ではなかった。加代の中に凝った何かが一瞬だけ加代の口を動かしたようだった。
「で、でも何か起きるんじゃったらなおさら……!」
怯みから立ち直り、抗弁の口を開いた奏が声を震わせた次の瞬間、凄まじい衝撃が二人を襲った。悲鳴を上げた奏がしゃがみこみ、加代がそこに覆い被さると、一拍遅れて届いた音と熱波が身体を突き抜けていく。
音すらまるで、大気そのものが太鼓となり革となった自分たちがバチで打ち鳴らされたかのようで、骨身の芯が軋むような不快感と背中を炙る熱波に耐えた加代は、それらが行き過ぎるのを待ってからゆっくりと顔を上げた。
まず目に入ったのは加代の目の前にある倉庫の向こうで燃え盛る一条の火柱と、火柱が生む圧倒的な光で打ち消された挙句、醜いオレンジ色に染められた星空だった。
およその距離と方角から、火元は避難者に割り当てられた倉庫ではないと見て取った加代は、それ以上の思考を紡ぐという頭も働かないまま、気がつくと引き起こした奏の手を取り、脚を動かし始めていた。
「加代! どしたんよ加代!」
(逃げろ、逃げろ……)
奏の声を打ち消すように、ついさっき忠告を飛ばしてきた"声"が頭の中でこだまする。
「うるさいよ……!」
口中に呟いた加代は"声"がする度に頭に流れ込んでくるイメージのままに走った。そうすれば助かるという保証はない、が今はこうするのが得策と確信している自分もどこかにおり、加代はそんな実態もない確信に頼るしかない自分への怒りも込めた脚で地面を蹴った。