夢現
潮騒と潮の香りが全身を包む。程良く日に焼けた素足に、砂浜から柔らかい熱が伝わってくる。昼間、この砂浜を照らし温めた太陽は、今は水平線の彼方にその身を埋めようとしている。なんとも美しい光景だった。
ギャア、ギャアというしわがれた鳴き声に今井加代は顔を上げる。一見頼りなさげな翼に潮風を受け止めたウミネコが、軽やかに空を飛んでいた。しわがれた声とは対照的に、優雅に空を飛ぶその姿に目を奪われる。もっと間近で見たい。無意識に心の中で呟く。
今なら飛べる。その思いが胸中に像を結んだ。砂浜を蹴りつけると、ふわりと身体が浮かぶ。目論見通りだった。あとは至極簡単。ただ自分が空を駆ける様を、想像してやればいい。なぜ知っているのかはわからない。身体が覚えているのだ。身一つで空を切り、風を満身に浴びる。
人類が一生かかっても、叶えられるはずもないことが叶った。その喜びが胸中で爆発するのを感じる。自由に空を飛んでいる。機械の力をも必要とせずに。それが余計に加代の心を揺さぶる。感傷に浸っているのも束の間、猛烈な風に襲われる。崩した体勢を立て直す暇もなく、加代はわけもわからずに吹き飛ばされた。
気がつくと地面に叩きつけられていた我が身を見、四肢の健在を確かめると取り敢えず安堵の息をついた。ここはどこだ。そう思い辺りを見渡すと、見慣れた加代の住んでいる街だということが間もなく分かった。
しかし、加代が叩きつけられたのは街中の交差点のど真ん中。普段ならば、自動車がクラクションをやかましいほどに鳴らしながら行き交う場所なのだが、今は車はおろか人の姿さえ見当たらなかった。何かがおかしい。初めて加代は気づく。辺りの様子を窺うことに全神経を集中させてしまっていた加代は、この時響いた空気を裂く音に気がつかなかった。
各所で目がくらむほどの閃光と、肌を焦がすのではないかと思わせるような、烈しい熱風を伴った爆発が立て続けに起きる。咄嗟に耳を塞ぐも、焼け石に水だということは分かっていた。爆音は加代の身体を突き抜け、揺らす。それは騒音としてではなく激しい痛みとして加代を襲った。
ごめんなさい、と我知らぬ内に口の中で呟く。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいーー。
自分でも何に対して謝っているのかは、全くもってはっきりしなかった。ただ恐ろしい。目の前の現実が、途方もないほどに恐ろしい。それだけだった。自分の知っている街が、毎日目にしている街が燃えている。その光景は想像以上に恐ろしいものとして加代の心に映り込み、痛めつけ、精神を削った。
爆発音を押しのけるほどの甲高い絶叫が、耳に飛び込んでくる。その絶叫が自分の喉から溢れ出しているものだと気付いたのは、満腔で叫んだせいで咳き込んだお蔭だった。
崩壊が崩壊を呼んでいる街が、突然どろりと溶ける。加代は溶けたビルや、アスファルトに飲み込まれた。飲み込まれた先にあったのは——水だった。周りには街は見当たらず、上を仰げば太陽の光が水面で屈折しながら差し込んでいるのが見える。
水の流れる音が、爆音で馬鹿になった耳を労わるように入り込んでくる。水中でも当たり前のように息をしていることに、加代はしばらくしてから気がつく。あれ、とは思いはしたものの、つい先ほど身一つで空を飛んでみせたことを思い出した加代には、怪しく感じるところは何もなかった。
脇を魚——イワシの群れが通り抜ける。それを見て初めて加代は自分は海の中にいるのだと気づく。球状にまとまりながら、上下左右とせわしなく動き回る彼らは、それだけで天敵から身を守るための手段になるとでも思っているのだろうか。そんな薄い護りなど直ぐに破られ、喰われてしまうだろうに。案の定イワシの群れに、大きな黒い影が飛び込んだ。弾丸のように突っ込んでいったのは、イワシの捕食者たるマグロだろう。
強者が弱者を喰らう弱肉強食の世界。少し前まで自分が味わっていた地獄を忘れて、加代は捕食されるイワシ側から見れば地獄以外の何ものでもない光景を、何を思うわけでもなくただ見つめていた。不意に、下から溢れ出す光が加代の目に留まる。確かな熱量を持って、ゆらゆらと揺らめくオレンジ色の光。後先を考えることなく純粋な好奇心に駆られ近寄ったのは、後々考えてみれば軽率な行動だったかもしれない。
ダイビングの要領で光源を目指して進む。無論ダイビングなど経験があるはずもなく、テレビなどの見よう見まねだが、浮力や海流は潜ろうとするのを邪魔することはなかった。加代の身体は、海中に浮かぶオレンジ色の光源に向かってするすると潜っていった。
近づくにつれ、浮かんでいた光は炎だと気がつく。水の中でなぜ炎が燃えているのか。じっくりと考えていたかったが、どうやらそうもいかないらしい。炎の勢いが増す。一回り大きくなった炎から伸びてきた手を、必死に水を蹴って逃れる。退路を塞ぐかのように横を掠め頭上へと回った炎が、自身の周りの水を蒸発させながら、激しい熱を加代に振りかける。
しまった。焦りから噛み切った唇から血が滲み出る。それは途端に海水に混じり、鮮烈な紅はあっという間に薄まった。逃げられるか? 自問するが、返ってきたのは、無理だというわずかに残る理性の叫びだった。
業火が大蛇のように揺らぐ。避けるだけで精一杯の動きの予測が困難な炎の蛇は、隙あらばその鋭い牙を突き立てようとする。気を抜けば巻かれてしまいそうな炎を、加代は紙一重で躱し続ける。
しかしそれも限界が近づき、もう躱しきれない、と避けることを加代は諦めかけた——刹那。炎が嘘のように消え去った。光が消え、海は再び水中の静けさを取り戻した。動きを止めて初めて、加代は自分が肩で息をしていることに気がついた。息が上がっているときの条件反射で、額に手の甲を擦り付け汗を拭おうとしたが、海の中なのだから拭う必要もないのだと思い至り、上げかけた腕を下ろす。
執拗に加代を追い詰めていた炎が生まれていた所を見下ろす。なにやら散り散りになった装甲のようなものが、浮遊しているのが見える。その中で海流に乗って、こちらに向かい浮き上がってくるものがあった。海底に近い方は暗く、浮き上がってくるもの自体も小さいため、上手く判別できない。よく見ようと目を凝らす。かろうじて視認できる距離に浮き上がってきたのは、散らばっていた装甲の一部でもなんでもなく千切れた人の腕だった。その手のひらが、救いを求めるかのように開かれているのを加代は見てしまった。
——助けて
亡霊か、はたまた腕にまだ残る強い残留思念か。何者かの声が加代の頭の中に直接響いてくる。緩く回転を交えながら浮き上がってくる人の腕。千切れたその断面を加代は偶然にも、視線上に捉えてしまった。ぐちゃぐちゃになった肉。断面の中央から、冗談のようにその身を覗かせている白い骨。
ぐらりと加代の身体が揺らいだ。不安定になった加代の精神に呼応するかのように、周りの風景も徐々に崩れ、歪んでいく。回転し始めた視界の中で、なけなしの上下感覚がなくなり、三半規管が悲鳴をあげた——。
いつの間にか固く閉じていた目を開ける。無限に広がる漆黒の宇宙が目の前に広がっていた。しばし呆然としながら、自らの命と引き換えに眩い光を放つ星々を見つめる。遠くに小惑星帯が視認できる以外は、周辺に目立つものは——あった。小惑星という言葉が当てはまるのかさえも、疑問なほどの大きさの物体。凄まじい速度で星の海を驀進するそれが頭上を行き過ぎる。
当たり前のことだが宇宙には大気がなければ、空気もないため風が吹き抜け、髪や服を騒がせることはなかった。だが質量を持った波動のようなものが押し寄せ、加代の胸をざわめかせた。不意に駆られたよく分からない居心地の悪さに、加代は思わず生唾を飲み下す。
リモコンでテレビのチャンネルを変える時のように、世界が一瞬のうちに切り替わった。
真っ白な空間に眩しい光が差し込んでいる。目の前には数え切れぬほどの人影が浮かんでいるのが見える。彼らの後ろから光が射し込んでいるため、一人一人の顔を伺うことはできず、黒い陰として見えるのが精一杯だった。大勢の人垣の中からすっ、と一人が前に出る。その人もやはり黒塗りだった。
『地球を、救ってほしい』
影の人から発せられたのであろう声は、耳ではなく頭の中に直接入り込んできた。
『私たちの代わりに、地球を……。どうか……』
男とも、女ともつかない声が再び弾ける。片腕が持ち上がったかと思うと、その人はこちらに差し伸べるかのように手を開いてみせた。全てがあまりにも唐突過ぎて、状況の変化に頭が追いついていかない。救う? 何から? 影の人に聞き返そうとしたが、喉元で詰まってしまい声にならない。
『どうか……どうか……』