深夜シフト
深夜2時半だというのに申し合わせたかのように一気に客が来た。
今の時点で4人の客が店内を物色している。レジに来るタイミングが重なりそうだったのだが、吉田先輩はちょっとトイレと言ったきりもう10分戻って来ない。どうせ裏でガンジャでも決めているのだろう。あの人が30分以上素面で仕事をしているのを見たことがない。いつかトラブルに巻き込まれそうで、あの人と二人のシフトは出来るだけ避けたいのだが、深夜のコンビニバイトのシフトにそう多くのバリエーションがあるわけもない。結局いつもあの人とのコンビで、おれが1.5人分の仕事をする羽目になるのだ。客の一人か二人に雑誌コーナーで立ち読みでもしてもらえると、レジに来る時間に差が出るのだが、こんな時に限って4人の客はすでに目当ての商品を次々と手に取っている。このままだとおれ一人で全員に対応する羽目になりそうだ。クレームへの不安が嫌な予感となって憂鬱な気分になる。
まず最初に薄汚れた作業着を着た中年男がレジにやって来た。カウンターに置いたのは缶コーヒー一本だ。すぐに終わらせることが出来そうでほっとする。
「あとメンソール」
「おタバコですか」
「あたりめぇだろ、他に何がある」
「どちらのメンソールでしょうか」
「メンソールつったらメンソールだろうが、そんなこともわかんねぇのかよお前。新人か?」
中年男はイライラとした様子で、持っていた車のカギでカウンターをコツコツと叩く。
「ええと、色々な銘柄からメンソールのタバコが出ているのですが」
「エイガラ? エイガラってなんだ、おい。お前俺のことバカにしてんのか?」
「申し訳ございません」
面倒な客に当たった。とりあえず、この中年男が好みそうなマイルドセブンのメンソールを取ってくる。
「なんだよ、出来るんなら最初からやれよ」
「申し訳ございません。2点で520円になります」
「あ? お前これ1ミリじゃねぇじゃん。お前おれを肺癌にする気か?」
「申し訳ございません、すぐお取替えいたしますので」
「お前絶対おれのことバカにしてんだろ。このグズが」
吐き捨てるように言い残すとレジに420円を投げるようにして撒き散らし、中年男は店を出て行った。このやり取りの間に残り3人がすでにレジに並んでいる。先輩はまだ戻らない。
「お待たせいたしました」
次にレジにやって来たのは、180cmを超えるだろう身長と太った体型に、髪はテラテラと脂ぎった長髪で服装は上下グレーのスウェットという、世間の引きこもり像そのままの若い男だった。男は、漫画週刊誌2冊とスナック菓子2点と1.5ℓのコーラの入った買い物カゴをカウンターに置いた。バーコードを読み取り「938円になります」と言うが、その客は両耳にイヤフォンをしたままで、おれの声が聞こえていないのか、無言のままじっとこっちを見つめている。
「5点のお買い上げで938円になります」
おれを見つめる厚い目蓋に埋もれた小さな目に不安げな表情が浮かぶ。
「お客様、合計で938円になりますが」
重ねて言うと、相変わらず無言のままで、おれの視線を避けるように目を左右に泳がせる。
「あの、お客様」ともう一度声をかけた瞬間、ようやくイヤフォンを外す。
「なんで僕のことじっと見るの?」
「え? あ、いや、聞こえていらっしゃらなかったようですので」
「そんなことじゃなくて、なんで僕のことをじっと見てるのか、それを聞いてるの。僕の顔に何かついてる?」
「いえ、決してそんなことはございません。不愉快な点がございましたら、申し訳ございません」
「心から謝ってないでしょ。わかるんだから。あ、もしかして、あいつらに言われてるってことないよね?」
「え?」
「僕のこと監視するように、あいつらから言われてるんでしょ? そうなんでしょ?」
男はそこまで言って一旦言葉を切るとまじまじとおれの顔を見て、突然表情を大きく歪ませた。
「お前、まさか、メッセンジャーか? そうなんだろ、メッセンジャーなんだろ! ちくしょう、そうなのか。わかったよ。いいよ。言ってみろよ。メッセージ言ってみろよ!」
男がカウンター越しに手を伸ばしおれの胸倉を掴んで体を揺さぶる。突然の事な上に、おれはかなり小柄な体型をしているため、男の巨体が生み出す力に抗うことが出来ない。
「聞いてやる、聞いてやる。聞いてやるからメッセージを言ってみろよ。逃げ切ってやるから、絶対逃げ切ってやるから」
男はさらに激しくおれの体を揺さぶってくる。喉が圧迫され声が出せないどころか息すらままならない。あまりの予想外な出来事にとっさに防犯ブザーを押すことが出来ないまま、カウンターの上まで引き摺り上げられてしまう。カウンターに置かれた商品が落ちて床に散乱する。太った男はそれに気づく様子もなく、スナック菓子の袋やコーラのペットボトルを踏み潰している。
「いつまで待たせるのよ!」
男の背後からしわがれた女の怒鳴り声が聞こえてきた。
「いつまで待たせるのって言ってんの! すぐに帰るつもりでこんな格好して出てきてるのよ、こっちは! 女に恥をかかせて、それでもあなた男なの!」
後ろに並んでいた蛍光ピンクのスウェット上下を着た小太りの中年女がヒステリックに怒鳴りながら、持っていたヨーグルトをおれの顔面に向かって投げつけてくる。ヨーグルトはおれの額に当たり、容器が破裂しておれと太った男に中身が降りかかった。太った男は跳ね飛んだヨーグルトに気づく素振も見せずにおれをカウンター越しにさらに引っ張る。
「こんな恥をかかされたのは初めてよ。訴えてやるから! この精神的苦痛の代償を必ず払わせてやるからね!」
中年女はさらにプリンの容器とゼリーの容器を投げつけてくる。闇雲に投げているように見えながらも、その全てが正確におれの顔面を襲い、容器が破裂して中身がぶちまけられる。中年女はさらに缶入りのミルクティーを投げ、缶の角が当たったコメカミが切れて噴出した血が目に流れ込んで視界が赤く染まる。中年女は手に持っていた商品を投げつくすと、レジ付近の商品棚にあるものを手当たり次第に掴んでは投げ、掴んでは投げてくる。
「訴えてやる、訴えてやる、訴えてやる、訴えてやる」
「言ってみろ! メッセージ言ってみろ! 一字一句そのまま言ってみろ!」
強い力で激しく揺さぶられる頭に投げつけられた商品が次々と当たり、意識が朦朧としてきたところで、入り口の自動ドアが開いて新たな客の気配がする。助かった、と目だけをなんとか入り口に向けると、先ほどの中年男がすさまじい形相で駆け込んでくるのが見えた。
「てめぇ! これセッタじゃねぇだろが! マイセンなんか吸えるわけねぇだろ! バカにしやがって!」
駆け込んできた勢いそのまま、中年男がタバコを握り締めた拳でカウンターの外側まで引っ張り出されていたおれの顔面を殴りつけた。その衝撃でおれの体は完全にカウンター外へと飛び出し、スナック菓子とヨーグルトとプリンとゼリーとコーラがぐちゃぐちゃに混ざり合って広がる床へと落下する。その上に衝撃で傾いた容器から、熱々のおでんの汁が降りかかる。
「バカにしやがって! バカにしやがって!」中年男が倒れたおれをなおも殴りつける。
「言ってみろ! 言ってみろ!」太った男はその巨体でおれの上にのし掛かり首を絞める。
「訴えてやる! 訴えてやる!」中年女が商品棚から電池の束を掴み、投げつけてくる。
激しい音を響かせて、店舗奥にある事務室の扉が開かれた。扉の前に吉田先輩が立っている。助かった、と思った瞬間、先輩は血走った目を見開くと両手を広げて頭上に掲げ、奇声を発する。
「うきゃきゃきゃきゃきゃきゃ UFOだ! UFOだ! 空飛ぶ円盤だ! 宇宙人がやって来た! うひょひょひょひょひょひょひょ」
先輩はそのままの姿勢で駆け出すと、開きかけた自動ドアに体をぶち当てながら外に飛び出し、夜の闇へと消えていった。ガンジャどころか、もっとハードなやつを決めていたらしい。そのうえ、完全にバッドトリップだ。あの人に一瞬でも期待した自分が情けなくなる。
先輩の後姿を見送っていた一番後ろに並んでいた真っ赤なロングコートを着て腰まで届く長い黒髪をした背の高い細身の女が、カツカツとヒールの音を響かせながらカウンターまでやって来た。
「あなたたち、いつまでやってるのよ!」
女がよく通るソプラノで怒鳴る。その声に、3人の動きが止まる。
「ちょっと落ち着きなさいよあなたたち。一部始終を見させてもらってたけどね、あなたたちちょっと一方的すぎるわよ」
女が声のトーンを落として諭すように続ける。3人はなぜか、母親に怒られた子供たちのようにおとなしくなって、俯きながら互いに視線をやり取りしている。ようやく助けが入った。いまひとつ女の言っていることがおかしいように思えたが、そんなことはどうでもいい。この狂った現状さえ打開出来ればなんでもいい。
「裁くにしても、ちゃんと裁判をしなきゃいけないわ。物事はフェアでなくてはならないのよ。ちょっとそこのデブ。そいつのこと起こしてそこに座らせなさい。逃げ出さないようにしっかり抑えてね」
おれの上に圧し掛かっていた若い男が、立ち上がり、圧力から開放されてようやくおれは息をつくが、男に襟首を捕まれて半身を起こされる。
「そこに座らせて、ちょっとあんた! 正座しなさいよ!」
女の声のトーンが突然上がり、おれの頬に激しい平手打ちが飛んでくる。
「それじゃ、それぞれの言い分を聞いていかなきゃ。まずそこのおっさん」
「ああ、こいつはおれをバカにした。冴えない中年の肉体労働者だからって。自分はこんな深夜のコンビニでバイトしてるけど、夢があるからお前ら負け犬とは違うとか思ってるんだよ。バンドでもやってんのか? ジャーンなんてギターでも弾いてるのか知らんがよ、とにかくこいつはおれをコケにしてんだよ。バカにしてんだよ。ゴミを見るような目で見下してくるんだよ!」
「ちょっと待ってください! そんなこと絶対にありま」
「あんたは黙って!」平手が飛ぶ。頬がジンと熱くなる。
「じゃ、そこのデブ、お前の言い分は?」
「こいつ、メッセンジャーなんだ。ここを中継地点にして、あいつらがおれにメッセージを送ってこようとしてて、こいつはそのメッセンジャーなんだ。メッセージというのは警告で、おれを陥れようとしてるあの組織がおれを追い詰めようとして送ってくるもんなんだけど、こいつはそれをテレパシーで伝えてこようとしたんだよ。脳が破壊されるところだったんだよ」
「ちょっと」と言いかけて、女に睨まれおれは言葉を切る。どういうわけかわからないが、この電波どもが、なぜか女の言うことには素直に従っている状況はおれにとって助かるための最後の細い糸で、女の機嫌をそこねるわけにはいかない。
「じゃ、最後におばさん」
「こいつはね、私に恥をかかせたの。私を辱めたの。それは精神的なレイプよ。強姦よ。女としてこんな屈辱を味わったのは初めてよ。訴えて損害賠償をしてもらわないと絶対納得できないの」
「あなたたちの言い分はわかったわ。この店員がクズなこともよくわかった。でも、あなたたちのような常識のある大人があまりやりすぎるのも感心しないわね。許すことも覚えなきゃ」
信じがたいことに、女の言葉で3人の顔に反省しているような表情が浮かぶ。相変わらずひどく狂った状況には違いないが、とにかくこの悪夢から逃れられそうな希望が湧いてきた。空気が弛緩しかけた予兆を切り裂くように、携帯の呼び出し音が鳴った。女のコートのポケットからのようだ。女が慌てた様子でガラケーを取り出すと、押し付けるように耳に当てる。
「タカシ! もうちょっと待っててね。今ちょっとコンビニに寄ってるから。あなたに何か美味しいものを作ってあげようと思って。え? いないって? どういうこと? え? 引越し? 引越しって、タカシが? なんで、意味わかんないよ。だってタカシ言ってくれたじゃない。勘違いしてるのはタカシのほうだよ。ストーカー? 誰がよ! 誰のことよ! 引っ越したかどうか知らないけどね、絶対突き止めるから! 逃げられると思ってんの! ちょっと、タカシ、タカ・・」
一方的に切られたらしい電話を見つめる女の表情は、今まで言葉でしか聞いたことがない阿修羅というのはこれを言うのか、と思われるようなすさまじいものだった。女が携帯を閉じるパタリという音が、目の前で巨大な鉄の扉が閉じられたような重みを感じさせ、店内が息苦しいほどの閉塞感に覆われる。その空間の中に何かが焦げたようなきな臭い臭気が充満していく。
「判決を言うわ」
女は目を閉じ、たっぷりと時間を取ったあとに、目を開いて4人の顔を順繰りに見回す。
「死刑」
最後にひとつだけ幸運なことが起こった。
3人が揃って愉悦でじっとりと湿った目をこちらに向けると同時に、おれは意識を失った。