Ⅶ 新たな動作。
明かされていく謎に少年は、どう反応するのか。
第一章、終盤でございます。
ユークと名乗った彼男は口元の笑みを決して絶やすことなく、その細い目を俺に向けていた。
「さて少年。よくぞここへ辿り着いた。まずは、そのことに対して賞賛の声を上げようじゃないかおめでとう! で、急ぎ君は彼女に会わなくちゃいけないわけだ」
「賞賛の声凄く短いね! ……彼女?」
「そう! 僕がこの″繰り返される世界″の中で直接干渉できた場所は、この屋敷の中だけだったんだ。だから君には、ここまで来てもらう必要があった」
陽気な口調でそう言うユークと名乗った白い男は、何かに納得したように幾度か頷いてから、人差し指を立てた。
「そうだね。君に真実を伝えなくちゃね。ふいじゃ、いくよ?」
声と共に男が立てた人差し指を親指へとあてる、そして勢いよく指を鳴らした。
指の音が俺の聴覚まで達した瞬間だ。
視界が揺れて全てが″変化″を開始した。
目の前の風景が崩れ去る、揺れる視界の中で少しの吐き気を感じながら俺は目を閉じることにした。
「なんだっこれは?」
それから数瞬の間をおいて、俺はそっと閉じた瞼を開く。
すると――俺の視界の中に捉えられたものは、数瞬前とは全てが一変していた。
「これが現実。君はこの七年間、ずっと非現実の檻の中に閉じ込められていたんだよ?」
見える視界の中には廊下があった――しかし違う。数瞬前とは異なる廊下の風景。
まるで何年間も放置されていたかのように、屋敷の中は疲弊したものへと変わっていた。
いや変わり果てていたというべきか、天窓が割れてその破片が床に落ちているし、壁にも所々に穴が開いている。
自分が歩いてきた長い廊下の先を見てみると、天窓や壁が崩れているところがあるため、俺が最初に上がってきた中央の幅の広い階段の辺りまで見ることができた。
「七年? 何の話をして――」
再びの疑問を口にしようとした俺の声に、重ねるようにして新しい声が生まれた。
「あんたは七年間。ずっと十一月三十日をループしていたのよ」
「……伊神先生?」
重ねられた声の主は先日、学校に赴任してきた世界史の女教師――伊神霧恵先生だった。
「はぁー。本当にアンタはどんくさいわね。そろそろ気が付かない? 私の事思い出さない?」
俺が何をしたというのか、不機嫌な顔つきでコツコツとハイヒールを鳴らして、割れた天窓の破片が落ちている廊下をこちらへ向けて歩いてくる。
そして、いつかの放課後の様に、俺の両肩に手を載せて正面から俺を凝視した。
「な、何を」
「私の目を見なさい。私の名前は伊神霧恵。十七年前に同じ小学校に通っていた」
言われて俺は、彼女の目を見た。
不機嫌そうな顔が少し怖いけれど我慢する。
するとどうしてだろう、頭の中。
ずっと奥の方から浮かび上がってくる記憶があった。
「きり……え?」
そうだ。彼女は伊神霧恵だ。
俺が幼い頃から仲よく遊んでいた家が近くて――確か小学校二年生の時、同じクラスになって、それから転校してしまってそれきいり会ったことはなかったけれど。
「ってえぇぇぇぇぇぇ! ど、どうして霧恵、そんなおっぱいでかいの!? うこぉはぁっ」
正拳突きが腹に飛んできて、俺はその場に倒れこみ悶える。
「それは教師に対しての立派なセクハラ行為よ……私は今、二十四歳なの、あなたはループしていた七年間、歳すら取っていなかったらしいから変わりはないと思うけどね」
「に、二十四歳ぃ? な、なんの冗談を」
「この後に及んでまだ夢を見るつもり!? あなたはこの世界に囚われていたのよ! 何が貴方をそうしたかっていう事は、私にもよくわからないけど、知りたいなら、そこにいる魔法使いにでも聞くといいわ」
不機嫌も極まって眉根に大きなシワをつくりながら言う霧恵。
少しだが感じる過去の面影、しかし、すっかり変わってしまっていた。
――今更、何が起きても驚かない……そう思っていた矢先にこれか。
俺の目の前に広がる世界は、あまりにも俺の理解の及ばないものへと変わってまった。
いや、俺が変わっていなかったのだろう。
「感動の再開はそれくらいにして、そろそろ本題に入ろうか。君は彼女を……ブリキを知っているね?」
ブリキ――その言葉を俺は知っていた。
それは一人の女性を指す名前だ。
ユークの言葉に頷きで返す。
「いいね。記憶が追い付いてきているみたいだ。じゃぁ、扉を開けてごらん」
微笑み、言う彼は右手の人差し指で一つの扉を指した。
振り返って示された扉を見る。
古ぼけた扉は先程、俺が無人であることを確認した部屋の扉だ。
一度だけユークに視線を向けてから、彼が頷くのを見て俺は扉のドアノブに触れた。
「……すぅー」
ドアノブにある冷たい感覚が手に伝わってくる、大きく息を吸い込んで俺は扉開けた。
そして。
「――わからないな……どうして君が?」
いた。
視線の先。部屋の中、ベッドに腰掛ける女性の姿。
俺が昔、ブリキ姫と呼んでいた女性が目を閉じて座っていた。
探していた人を見つけてしまった。もう見つからないと思っていた彼女が目の前にいる。
俺はどうすればいいのかわからず、その場でぼーっと眠る様に目を閉じる彼女の顔を見つめた。
「ブリキ姫……、良い名前だね。君が名づけたんだって?」
聞こえるユークの声に、けれどそれに答える余裕など俺には存在しない。
それからやっと思考がまとまって、俺はそっと部屋の中へと一歩を踏み込んだ。
見える視界の中に広がる部屋は、とても汚れていた。
見ると天井が崩れ落ちて、その瓦礫が床に転がっている。
不思議なことに砕けた天井の穴から、蒼色の月明かりが差し込んでいて、その光が俺の視界の中心にいる女性へと塗られていた。
こんなに夜が更けていただろうか?
月の位置は真上だ。これが現実。世界の本当の時間なのだろうか。
しかし、そんな事はどうでもいい、俺は視界に捉えた少女を見た。
ブリキ姫……、そう、彼女の名前だ。
それは俺が幼い頃に名前を持たなかった彼女につけた名前だ。
俺は彼女に手が届く程の距離まで歩みを進めてから、目を閉じる彼女に話しかけてみた。
「久しぶり……、覚えているだろうか? 実は、君に助けて欲しいことがあるんだ」
近くで見てわかったことだが、彼女の容姿は、数年前にみたそれと変わっていなかった。
白く綺麗な肌の色。細い腕、華奢な体躯だ。
なにより長い黒の長髪が月明かりに反射して輝いていて――とても綺麗だと、そう感じた。
「彼女は眠っているんだ……、知っているだろ? 彼女を目覚めさせる方法」
ユークの声に頷いて、俺は彼女の横へと足を進める。
大きなダブルベッドの足元側に腰掛ける彼女、俺はその背中にある突起物へと手を伸ばした。
触れる。
触れた時の感触はなんだか懐かしいもので、何か心の底から込み上げてくるものがある。
それを抑えて、俺は触れた冷たい突起物に力を加えた。
――回す。
触れた突起物は彼女に命を与える原動力となり得るものだ――それは、金色のネジだった。
不自然に背中から飛び出るそれを回す。
ネジが一周したところで、カチッ、という機械的な音が聞こえて、それから彼女の身体がビクリと動いた。
ネジを回され、動き出す彼女。
幼い頃の俺は、それを見てブリキ人形を連想させたのであろう、そしてつけた名前がブリキ姫。
昔の俺はロマンチストだったのだろうか? なんて疑問を心の中でしてから、俺はブリキの正面へと戻って、彼女の閉じられた瞼を見た。
「おはよう。良い夢は見れた?」
次の瞬間、彼女の閉ざされた瞼が開き。綺麗な青色の両眼が姿を現した。
彼女の視線が動き、そして俺を捉える。
「――おはよう」
最後にこの声を聞いたのはいつだったのだろうか、思い出そうとするけれど思い出せない。
しかし、久しぶりに聞いた声に思わず微笑んでしまう。
「ブリキ!」
微笑みから数瞬後。叫び声にも似た霧恵の声が響いた。
振り返ると彼女は、全力疾走に近い脚の動きでこちらに走り出していた。
そして、その勢いのままブリキへと抱き付いたのだ。
「ごめんね! ごめんね! 覚えていないだろうけど……、でも、謝らせて! ごめんなさい!」
謝罪。繰り返し叫ぶ霧恵は泣いていた。
どうしたことかと、俺が首を傾げていると、今度は抱き付かれたブリキが口を開いた。
「……謝罪の意味がわかりません」
「うん。わかってる。でも謝らせて!」
その後も霧恵の謝罪が続いた。
★
それから霧恵が落ち着くまで数分の時間を有した。
やっとのことで涙が止まった霧恵は、クシャクシャになった短髪を整えることもせずに、ブリキのすぐ横のベッドの上に座っていた。
「私は一度。彼女を殺しているの……、貴方は知らなかったかしら? 彼女は一日に一回ネジを回さなければ、止まってしまうの」
視線を下へ向ける霧恵。彼女の目の周りが涙で赤くなっていた。
まるで子供の様に、彼女は悔しそうな表情で汚れた床を見ている。
「私は回さなかった……、病の父を救ってほしいと願って、そのかわり彼女のネジを回し続けると約束したのに……、父が治って一緒に暮らせるようになってから、私はブリキがどうでもよくなってしまったのよ」
言う彼女は再び泣いた。大粒の涙が頬伝って床に落ちていく。
どうしようか、俺はこんな時にかける言葉を知らなかった。
確かそう、ブリキと出会った時。彼女は願いと願いを交換する魔女だと言った。
得意に願いのなかった俺は、その頃幼かった俺からすれば、綺麗なお姉さんだったブリキに甘えていたんだ。
それから霧恵が父の病が治ると共に東京へと引っ越してしまい……、おかしいな、ここから先にブリキとの記憶がない。
「彼女はネジを回さなくては止まってしまう。一度止まってしまうと、止まる前の記憶は全てリセットされ、更に止まる前に関係を持っていた人間の記憶からも消えてしまうんだ……、つまり、そういうことさ」
部屋の入り口から聞こえるユークの声。
――一日一回。ネジを回さなければ止まってしまう、そんな事、初めて聞いたよ。
「ごめんなさいブリキ! 自分勝手に願いだけ叶えてもらって! 約束を破って……」
言葉を切って、霧恵は両の瞼を閉じた。ブリキに幾ら謝罪したところで、彼女は霧恵の記憶を失っている、霧恵の謝罪に返ってくる言葉は無い。
もう二度と許されない罪。
「霧恵女性……、謝罪はまた今度だ。今は急がなくてはいけない。それじゃ少年よ。ブリキに願いを言うんだ」
願い。
そうだった。俺は彼女に言わなければならないことがあったんだ。
「いや、でも……」
「いいから、僕達の目的は君を助けることにあるんだ。詳しい話は後でしっかりと話すから」
ユークはそう言うけれど、なんだか霧恵が可哀想だ。
思う俺に対して、霧恵の声が飛んできた。
「アンタに助かってもらわなくちゃ。ここに来た意味がないでしょうが! ……速く願いなさいよ」
鋭い視線。やっぱ怖いな。
俺は、その声に頷きで返してからブリキに向き直る。
「えっと、ブリキ。今の俺には君の力が必要なんだ……だから、俺を助けてくれないかな?」
「はい。私は魔女です。あなたの願いはなんですか?」
すぐに返答が飛んできた。
まるで用意されていたかのような台詞。霧恵も最初、こんな風に返されたのだろうか。
確かブリキを最初に見つけたのは霧恵だったな……、そんなことを思ってから俺は願いを告げた。
「俺の家族が……、いたはずの家族が消えてしまったんだ。それと、どうにも俺は変な世界に迷い込んでいるようで、だから助けて欲しい! この世界から出してくれ!」
渾身の懇願。
それから直ぐに、俺は次の言葉を聞いた。
「わかりました。願いを叶えましょう。そのかわり、私の願いを叶えてください」
「あぁ、わかった」
すぐに返答する。
「貴方の一生をかけて、一日一回。私のネジを回してください」
とても澄んだ声が響いた。
それに対して俺が頷き、了承する答えを返そうとしたときだ。
再び霧恵が会話に割り込んできた。
「ブリキ。貴方の願い。今度こそ私に託してくれないかしら? 大十の代わりに私がネジを回す。それじゃだめ?」
「おい霧恵、なんでお前が?」
心からそうする事を願う様に霧恵が言った。
「貴方の願いはそれですか?」
「そう! 十七年前果たせなかった約束を。今から果たそうと思うの」
ブリキの手を握って、霧恵が強張った表情で言う。
それから少しの間をおいて、ブリキが頷いた。
「わかりました。それでは願いを叶えましょう――」
叶えましょうというブリキの声が響いて、俺はこれから救われるのだろうか。
しかし――、突然と聞こえる声が止まった。
おかしい。何かがおかしい。
俺は部屋の中を見回した。
「そんな……」
まただ。
時が――止まっていた。
部屋の入口近くに立つユークの動きが笑顔で膠着している、ベッドに座る二人にも動きがなくなった。
何よりも音がしない。
――十八時。
そして頭の中に浮かび上がる文字。
「十八時?」
――十七時。
今度は十七時、間違えなく時間を現しているのであろう数字が、頭の中に刻まれていく。
――十六時。
――十五時。
――十四時。
「なんだこれ。視界が歪んで……、うっ」
身体がよろめく、両脚に力を入れるけれど入らない。
――十三時。
――十二時。
――十一時。
浮かぶ文字が十一時に達した時だ。
俺は気が付いてしまった。俺に現在起こっている現象。
「時間が……戻ってる?」
その言葉を最後に俺の意識が閉ざされた。
おつかれさま。