第二章 暗号と扉
序章に続く魔界への大坂シリーズ
老人の正体、子犬との関係、武が老人と出会う運命。
何のために二人は出会うことになったのか。
第二章 暗号と扉
一 浮かび上がる言葉
梅雨の走りが来た五月の末、武の紙に三行目が現れた。
「門は水に沈む。節刀を以て三度、叩け」
武はその文字を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。水道橋。神田川。あの橋のたもとに、老人がいた場所。全てが一本の線で繋がった。
二 老人の正体
翌朝、武が橋のたもとに立つと、老人がいた。
一ヶ月ぶりだった。しかし老人は変わっていなかった。雨の中、草履で、ただそこにいた。
「来たか」
「来ました」
老人は武の顔をしばらく見た。それから静かに言った。「本当のことを話す時が来た」
老人の輪郭が、朝の光の中でわずかに滲んだ。人間の皮膚とは少し違う、白すぎる光沢。そして背中の、あるはずのない高さへの広がり。
「あなたは」
「メタトロン」老人は言った。「大天使と呼ばれることもある」
武は言葉を失った。
「魂をお前に預けたのは私だ。子犬の姿で人の世に流れ着いたあの魂を、最初に拾ったのも私だ。しかし私が直接関わり続けることはできない。だから、お前を選んだ」
「なぜ私を」
「縁と言っただろう」メタトロンは微かに笑った。「嘘ではない。ただ、その縁を結んだのは私だ」
三 契約書の話
「ルシファーという存在がいる」メタトロンは続けた。「かつてケルベロスと契約を交わした者だ。契約書は今、魔界のどこかにある。あるいは、もうこちらへ流れ出ているかもしれない」
「その契約の内容は」
「ケルベロスに、魔界と人の世の境界を、内側から開けさせること」
武は息を呑んだ。
「ルシファーは人の世を欲している。直接は入れない。だから番犬を使おうとした。番犬自身に、扉を開けさせる契約を」
「魂は、そのことを知っているんですか」
「本能では覚えている。だから探している。契約書を見つけ、その内容を確認したがっている」メタトロンは言った。「しかし契約書を見つけた瞬間が危ない。ルシファーの意志が、再びケルベロスに流れ込む可能性がある」
「それを防ぐために、節刀が」
「そうだ」
四 水門
武は紙を取り出した。「門は水に沈む、とはここのことですか」
「神田川の底に、扉がある」メタトロンは言った。「普段は水に封じられている。節刀で三度叩くことで、一時的に開く」
「その先が魔界ですか」
「魔界への通路だ。入れば戻れないわけではない。ただ、一人では行くな」
「弟を連れていくべきですか」
「弟の紙には鳳招来と書かれていた。鳳は来るものを導く。弟はお前の道標になる」メタトロンは言った。「それから、魂を連れていくな。まだ力が戻りきっていない。入口で待たせなさい」
武はうなずいた。それから一つ聞いた。
「ルシファーは、なぜケルベロスと契約したんですか」
メタトロンは少し間を置いた。
「ルシファーは境界の外に追われた存在だ。人の世を欲するのは、力への欲望ではなく、戻りたいという渇望に近い。契約はその渇望から生まれた」
「同情すべき理由がある、ということですか」
「理解はできる」メタトロンは静かに言った。「しかし許容はできない。境界は守られなければならない。それが神々の時間を動かす鍵でもある」
朝の光が川面に落ちた。
メタトロンの姿が、また少し滲んだ。
「行く準備をしなさい」
武が目を瞬かせた瞬間、老人の姿は消えていた。
神田川だけが、変わらず流れていた。
第二章 了
節刀の本来の意味、征伐する魔物たち。
武はまだ気づいてはいない。




