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第32話 余波

 バズから一週間が経っていた。


 登録者は六万二千人になっていた。増え方は最初の三日ほどではないが、まだ止まっていなかった。毎朝スマホを開くと、昨日より数百人増えている。それが一週間続いた。


 生活はほとんど変わっていなかった。講義に出て、ノートを取って、食堂で昼を食べて、帰って、飯を作って、寝る。変わったのはスマホの中だけだった。通知が鳴り続けて、コメントが増え続けて、数字が上がり続けている。現実の方は、まだ同じだった。


 コメントの質も変わっていた。最初の三日間は「深夜に見ると泣ける」系が大半だった。一週間も経つと、過去の動画を遡る人が出てきた。「他の動画も見た」「アマトリチャーナの人?」「出汁の動画、静かすぎて逆にいい」。焼き魚定食から入った人が、チャンネル全体を回り始めていた。


 さつきの動画の再生数も上がっていた。澪の出汁の動画も。俺のバズが、三人の動画全部に流れ込んでいた。



   *



 水曜日の昼休み、メインストリートの自販機の前で三人が集まった。


 十一月の光がコンクリートにそのまま落ちていた。空気は冷たかったが、日差しはまだ強かった。留学生が二人、向こうから歩いてきてすれ違った。英語で何か話していた。


 同じ場所だった。文化祭の三日後、缶を一本ずつ買って立っていた場所。あの時は三千四百人だった。さつきがココアで、澪がブラックで、俺がコーンポタージュだった。澪が「チャンネル名、変えた方がいいと思う」と言って、さつきが「なんで」と返して、俺は何も言わずに缶を開けた。一ヶ月半前のことだった。


 今は六万二千人。自販機も、値段表示も変わっていなかった。


 さつきがブラックを押した。澪がカフェオレを押した。俺は微糖を押した。あの時と、三人とも違うものを選んでいた。


 缶を開ける音が三つ重なった。


「コメント、どうしてる?」


 さつきが聞いた。俺と澪に向かっていたが、目線は缶のプルタブに落ちたままだった。


「……読まない日もある」


 俺が答えた。一拍遅れた。


「コメントを開く日は十五分って決めた。毎日は見ない」


 澪が言った。


 さつきが顔を上げた。


「十五分?」


「それ以上は意味がないでしょ。読んでも、返しても、次が来る」


「数字は?」


「見る。コメントとは別」


「私は全部読む」


 さつきが言った。少し強かった。


「全部?」


「全部。返せるやつには返す。返せないやつも、読む。読んだことは覚えてる」


 さつきの目は少し赤かった。寝不足なのかもしれなかった。


「昨日『アマトリチャーナ三回作りました』ってコメント来て——って待って、三回だよ? パンチェッタの脂の出し方も毎回変えてるって書いてあって、それ読んだら返さないわけにいかなくない?」


 さつきはそこまで一気に言って、ようやく息を継いだ。


 澪は何も言わなかった。缶を傾けて、一口飲んだ。


 俺は二人を見ていた。三千四百人の時は、コメントの話なんかしなかった。コメントが二件の夜があった。「お大事に」と「作ってみます」。それが、もうずっと前みたいだった。



   *



「名前の話、もう一回していい?」


 澪が言った。唐突だった。


 一ヶ月半前と同じだった。同じ自販機の前で、澪が「チャンネル名、変えた方がいいと思う」と言った。あの時は三千四百人だった。


「『続けていく器じゃない』って言ったの、覚えてる?」


 さつきが言った。澪に向かって。


「覚えてる」


「今もそう思ってる?」


 澪は少し間を置いた。俺の知っている澪は即答する。間を置く澪は、何かを測っている。


「意味が変わった」


「どういうこと?」


「三千人の時の『続けていく器じゃない』と、六万人の時のそれは、別の話でしょ」


 さつきが黙った。俺も黙った。


「三千人の時は、名前が弱いって意味だった。今は、チャンネルが名前を追い越したって意味。——まあ」


 そこで止まった。


「変える?」


 俺が聞いた。


「変えない」


 澪が言った。


「なんで」


「器の話じゃなかった。中身の話だった。気づくのが遅かった」


 さつきが少しだけ笑った。


「澪がそういうこと言うの、珍しい」


「別に珍しくない」


「珍しいよ。『気づくのが遅かった』って、澪の口から出ると思わなかった」


 澪は缶を傾けて飲んだ。返事はしなかった。


 さつきは笑ったままだった。俺は二人の間の空気を見ていた。さつきが笑っている時の澪は、少しだけ肩の力が抜ける。いつも見ている。いつもそうだった。


 缶コーヒーの底が見えた。俺のが一番先になくなっていた。



   *



 三人で歩き出した。メインストリートの庇の下。図書館の方へ向かっていた。


 俺のスマホが鳴った。ポケットの中で、短い通知音が鳴った。


 さつきが足を止めた。


「晃、その音——」


「うん」


「変えた?」


「……うん」


 変えていた。バズの翌朝は全部切っていた。でも三日目に、YouTubeだけ戻した。切ったままだと、今度は何度も自分から画面を見てしまったからだった。戻した音は、デフォルトじゃない別の音にした。前の音が鳴るたびに、指が勝手にスマホに伸びたからだった。音を変えれば反射が切れると思った。切れたかどうかはわからない。別の反射に置き換わっただけかもしれなかった。


 さつきはそれ以上聞かなかった。澪は何も言わなかった。


 三人でまた歩き出した。庇の影が、三人分の足元に縞で落ちていた。



   *



 その週末、澪のアパートに集まった。次の動画の試作をすることになっていた。バズのあと、最初の新しい動画。何を撮るかを三人で決めなければならなかった。


 澪のアパートは大学から歩いて十五分のところにあった。山里町の住宅街。静かな通りに面した築古の二階建て。外階段を上がって、奥の角部屋。俺のアパートより少し広かった。


 キッチンは狭かった。二口コンロ。シンクの横に小さな作業台。調理器具は最小限だったが、鍋だけは三つあった。出汁用の雪平鍋が二つと、煮物用の鋳物の鍋が一つ。全部、澪が自分で選んだものだった。


 棚の上には昆布が三種類あった。利尻と羅臼と日高。俺には違いがわからなかった。澪は何も説明しなかった。


 さつきが食材を広げていた。バローで買ってきた鶏もも肉と、長ネギと、舞茸。動画の構成案は、もうスマホのメモに書かれていた。


「今回は三人で鍋にしない? シンプルなやつ。鶏の水炊き。出汁を澪が引いて、具材のカットを晃がやって、盛り付けとカメラを私がやる」


 さつきが言った。


「水炊きの出汁、鶏ガラ?」


 澪が聞いた。


「昆布と鶏ガラの合わせ。鶏ガラは朝から仕込んでおいて、昆布出汁と合わせるタイミングを撮る。工程が見えるから動画になる」


 さつきの口から出てくる構成案は、いつも具体的だった。映像として何が成立するかを、料理の工程の中から選び出している。


「いいと思う」


 俺が言った。澪も頷いた。


 澪がコンロの前に立った。雪平鍋に水を張って、昆布を入れた。利尻だった。


「これは試作だから、鶏ガラなしで。昆布だけ」


 火をつけた。弱火。水面がかすかに揺れるまで待つ。出汁を引いている時の澪は、いつもこうだった。背中が一枚の壁みたいに動かない。


 俺は長ネギを切っていた。斜め薄切り。澪のキッチンの包丁はよく切れた。砥石で研いでいるのを見たことがある。


 舞茸を手でほぐした。包丁は使わない。手でやると繊維が潰れにくくて、香りが出やすい。澪がやっているのを見て覚えた。


 さつきはスマホでカメラの角度を確認していた。今日は撮影じゃない。でも、さつきは角度を見ている。コンロの位置から光がどう回るか、シンクからカメラまでの動線はどうか。たぶん癖だった。


 静かだった。換気扇の音と、水面が小さく震える音と、舞茸をほぐす乾いた音だけがあった。


 澪が動いた。


 コンロの前から一歩退いて、カウンターの上に置いてあったスマホを取った。


 画面を見た。


 三秒くらいだった。


 また閉じた。スマホをカウンターに戻して、鍋の前に立った。


 何を見たのかはわからない。通知か、数字か、コメントか。


 でも、出汁を引いている最中だった。


 澪が出汁の途中でスマホを見たのは、俺が知る限り初めてだった。市場の早朝も、撮影の時も、澪は出汁を引いているあいだはスマホを触らなかった。


 三秒。それだけのことだった。


 澪は何事もなかったように鍋の前に戻った。水面を見た。昆布がゆっくり開いていた。沸騰の手前。澪の指が火加減のダイヤルに触れた。少し絞った。いつも通りの動作だった。


 俺はネギを切り続けた。さつきはスマホの画面を見ていた。


 二人とも、澪の三秒には何も言わなかった。



   *



 試作は二時間で終わった。鶏の水炊き。昆布出汁だけのシンプルな鍋。ポン酢を作る余裕はなかったので、市販のポン酢で食べた。


 澪の出汁は、いつも通りだった。昆布だけなのに奥行きがある。鶏もも肉はやわらかく煮えていた。舞茸の香りが出汁に移っていた。長ネギは少し煮すぎた。俺が切った分だ。


「ネギ、もう少し厚めに切った方がいい。薄いと溶ける」


 澪が言った。俺に向かって。短く。


「……次、気をつける」


 さつきが鶏肉を一切れ取って、ポン酢につけて食べた。


「うん。これ、動画になる。出汁引くところをちゃんと撮れたら、絶対いい」


 食べ終わって、片付けをしていた。さつきが皿を洗って、俺がテーブルを拭いて、澪が鍋を洗っていた。


 さつきのスマホが鳴った。LINEの通知音。さつきは手を拭いて、スマホを取った。


「あ」


 さつきが声を上げた。


「不動産屋から来た。月借りできるキッチン物件の候補リスト」


 澪が鍋を洗う手を止めた。俺もテーブルを拭く手を止めた。


「物件?」


「今使ってる時間貸しとは別。月で借りられるやつ。撮影にも仕込みにも使える場所」


 さつきがスマホの画面をこっちに向けた。物件の写真が並んでいた。白い壁。ステンレスの調理台。業務用のコンロ。一枚目は広すぎた。二枚目は暗すぎた。三枚目は悪くなかった。


「晃のバズ見てから、毎回予約して回すの、そろそろ違う気がしてきた。前に澪が言ってたじゃん。自分たちの場所があればって」


 澪が鍋を洗う手を止めた。背中を向けたまま。


「収益で足りるの?」


「まだ計算してない。でも、見るだけならタダでしょ」


「月いくら」


「それも聞いてない」


「聞いてから考える話でしょ」


「聞くために内見に行くんだよ」


 澪が鍋をすすいで、伏せた。


「……行くとは言ってない」


「行かないとも言ってない」


 さつきが笑った。澪は笑わなかった。でも、否定もしなかった。


 俺はスマホの画面を見ていた。物件の写真。白い壁。ステンレス。知らない場所。でも、三人のキッチンになるかもしれない場所。


 なんとなく、何かが動き出している気がした。六万二千人の数字とは別の、もっと手触りのある何かが。


 さつきはグループトークに物件リストを転送していた。さつきのLINEは、いつも行動が先だった。


 帰り道、坂を上った。十一月の夕方。空気が冷たくなっていた。フェンスの向こうに住宅街の屋根が並んでいた。


 スマホが鳴った。変えたばかりの通知音だった。まだ耳が馴染んでいなかった。


 さつきからだった。グループトークに物件の間取り図が追加されていた。「ここ、コンロが三口ある」と書いてあった。その下に「IHじゃなくてガスだって」と続いていた。


 澪が既読をつけていた。返事はなかった。さつきがもう一件送っていた。「内見、いつにする?」。澪はそれにも既読だけつけていた。


 坂の途中で立ち止まった。


 澪が出汁の途中でスマホを見た三秒のことを、まだ考えていた。何を見たのかはわからない。何を思ったのかもわからない。澪に聞くつもりもなかった。聞いても澪は答えない。「別に」と言うか、黙るかのどちらかだった。


 ただ、あの三秒のあいだ、鍋の中では昆布がゆっくり開いていた。澪はそれを見ていなかった。

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