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第31話 翌朝

 朝、目が覚めてスマホを見た。


 画面を上にした瞬間、通知が溢れていた。


 ロック画面が埋まっていた。YouTubeの通知が何十件も並んでいて、下までスクロールしても終わらなかった。LINEのトークにも未読が溜まっていた。Xの通知バッジが三桁になっていた。


 布団の中で、まだ横になったまま、画面をスクロールした。指先が冷たかった。暖房は切って寝ていた。窓の外は明るかった。


 時計を見た。午前七時十二分。昨日の夜、寝たのは十一時前だった。八時間も経っていない。


 YouTubeを開いた。


 昨日の動画のサムネイルが表示された。鱈の照り焼きと、だし巻きと、味噌汁。タイトルは「焼き魚定食」。昨日の夜、自分でつけた。


 再生数が表示された。


 十九万。


 桁を数え直した。190,000。十九万だった。昨日の夜、三百四十だったものが。


 チャンネルの登録者数を見た。五万一千人。昨日は六千二百人だった。夜のあいだに四万四千八百人増えていた。


 体を起こした。布団の上であぐらをかいて、スマホを両手で持った。指が少しだけ震えていた。



   *



 コメント欄を開いた。


 上から順に読んだ。


 「深夜に一人で見ると泣ける」


 それが一番上にあった。いいねの数が四桁だった。投稿時間は深夜一時四十三分。俺が寝てから三時間も経っていなかった。


 その下に返信がぶら下がっていた。「わかる」「同じこと思ってた」「深夜二時に見て号泣した」。同じようなことを、違う言葉で、何十人もが書いていた。返信が多すぎて折りたたまれていた。展開した。まだ続いていた。


 スクロールした。


 「お父さんの顔が浮かんだ」


 「うちのお父さんもこういうの作ってた。味噌汁の具がうちと同じ」


 「一人暮らし三年目、初めて実家に帰りたくなった」


 「だし巻き卵って、こうやって焼くんだ。週末やってみます」


 「最後の一言で泣いた」


 最後の一言。昨日、編集の最後に入れたもの。何を言ったのか、自分でもうまく思い出せない。編集画面で波形を見ながら、カットしようかどうか迷って、そのまま残した。それだけだった。


 覚えていないものが、知らない人の夜に届いていた。


 コメントは止まらなかった。スクロールしても、スクロールしても、新しいコメントが読み込まれた。日本語じゃないものも混ざり始めていた。英語。韓国語。中国語。読めない文字もあった。


 俺が言語化しなかったものを、コメント欄が言語化していた。


 父親のこと。一人で食べる定食のこと。夜のキッチンで窓の外が暗くなっていく時間のこと。豆腐を手の上で切っていたこと。


 それを知らない人たちが、自分の言葉で書いていた。自分の父親や、自分の一人暮らしに重ねて。俺の動画なのに、コメント欄には俺の知らない記憶が並んでいた。


 少し泣きそうだった。


 目の奥が熱かった。鼻の奥が詰まるような感覚があった。


 スマホを布団の上に置いた。仰向けになった。天井を見た。いつもの天井だった。染みが一つある。いつからあるのか知らない。


 しばらく、そのまま天井を見ていた。



   *



 顔を洗った。歯を磨いた。冷蔵庫を開けて、昨日の残りの麦茶を飲んだ。コップをシンクに置いて、テーブルに戻った。


 どこから広がったのか、調べた。


 Xで動画のURLを検索した。深夜一時過ぎのポストが最初だった。フォロワーが数万人いるアカウント。「深夜に一人で見ると泣ける」——コメント欄の一番上と同じ文面だった。


 そのポストに千以上のリポストがついていた。引用ポストも並んでいた。「見た」「泣いた」「なんでこんな再生数少ないの」「もっと早く見つけたかった」。深夜のうちに、知らない場所で、知らない速度で回っていた。


 「焼き魚定食」がXのトレンドに入っていた。


 画面から目を離した。窓の外を見た。向かいのアパートの外壁と、電線と、朝の空。何も変わっていなかった。


 昨日の夜、俺はスマホを画面ごと下にして、枕元に置いて寝た。通知音を切っていたから、何も聞こえなかった。その裏側で、画面の向こう側で、知らない人たちが俺の鱈と味噌汁を見ていた。


 十九万回。


 父親の焼き魚定食が、十九万回再生されていた。父親はそのことを知らない。



   *



 しばらくして、LINEを開いた。


 三人のグループトークに未読が溜まっていた。スクロールして遡った。


 6:12 さつき

  これ

  (URL)


 6:14 澪

  見た


 6:31 さつき

  今3.8万


 6:42 澪

  5万超えた


 6:43 さつき

  まだ増えてる


 それだけだった。感想は一行もなかった。


 俺へのメンションもなかった。


 グループトークを閉じて、さつきとの個別トークを開いた。


 通知が一件あった。


 文字じゃなかった。


 スタンプでもなかった。


 トークの最後のやり取りに、リアクションのアイコンが一つだけ押してあった。


 それだけだった。


 スマホをテーブルの上に置いた。画面を下にして、伏せた。


 昨日の夜、枕元に伏せたのと同じだった。


 窓の外は晴れていた。何も変わっていなかった。変わっていないことだけが、少しおかしかった。


 三分くらいして、スマホを取った。今度は澪との個別トークを開いた。


 「コメント欄が別の言語になってる」


 一行だけ。それだけだった。


 既読をつけた。返す言葉が見つからなかった。見つからないまま画面を閉じた。



   *



 講義に行った。


 二限の教室に座って、ノートを開いた。板書を写した。写しながら、ポケットの中でスマホが震えるのを感じていた。通知音は切ってある。バイブだけが断続的に鳴っていた。太ももに当たる振動を、一時間半、感じ続けていた。


 隣の席の知らない奴が、スマホでYouTubeを開いているのが見えた。画面をちらっと見て、すぐ目を逸らした。自分のチャンネルかどうかは確認しなかった。確認したくなかった。


 昼休みにスマホを開いた。数字がまた増えていた。


 食堂できつねうどんを食べた。四百円。食べながら、コメント欄をスクロールした。朝読んだコメントの下に、新しいコメントが何百件も増えていた。


 「作ってみます」が、昨日の二件目のコメントだった。あの時は二件しかなかった。今は三千件を超えていた。その中に「作ってみました」が何件も混ざっていた。写真つきのものもあった。鱈の照り焼きが、知らないキッチンの知らない皿に盛られていた。テーブルクロスが赤かったり、木目だったり、白い皿だったり、青い皿だったり。全部違う場所で、同じ料理が作られていた。


 俺がバローで百九十円で買った鱈の切り身から始まったものが、知らない場所で再現されていた。


 うどんの汁が冷めていた。箸を置いた。食べ終わっていなかった。


 午後の講義も出た。何を聞いたか覚えていない。黒板の文字をノートに写して、次の行に移って、また写した。それだけの午後だった。


 帰り道、正門前の横断歩道で信号を待った。赤だった。スマホを出した。まだ増えていた。閉じた。


 信号が変わった。渡った。


 坂道を下った。いつもの坂だった。左にフェンス、右にマンション。荷物は軽かった。足も重くなかった。ただ、いつもより坂が長かった。下り坂なのに。


 アパートに着いた。外階段を上って、鍵を開けて、靴を脱いだ。テーブルの前に座った。


 昨日の夕食の皿は、朝のうちに洗って乾かしてあった。テーブルの上には何もなかった。スマホだけがあった。


 画面が光った。通知だった。もう数えるのをやめていた。


 夕飯を作る気にならなかった。冷蔵庫にあった食パンを一枚焼いて、バターを塗って食べた。昨日は鱈を焼いた。だし巻きを巻いた。味噌汁を作った。今日はトーストだけだった。それでよかった。腹が膨れればよかった。


 食べ終わって、皿を洗って、テーブルを拭いた。バターの匂いが指に残っていた。


 それからスマホを開いた。再生数が二十六万を超えていた。コメントはまだ増えていた。全部、知らない人からだった。


 さつきからも澪からも、あの朝以降、何も来ていなかった。三人とも、黙っていた。


 目の奥が、まだ熱かった。朝からずっとだった。



   *



 その夜、暗い部屋の中で、春野さつきの顔だけがスマホの光に照らされていた。


 黒川のマンション。十一階。ベッドの上であぐらをかいて、スマホを両手で持っている。デスクの上のスタンドライトだけが点いていた。ノートパソコンが開いたまま置いてあったが、三時間前から一行も進んでいなかった。


 晃の動画のコメント欄を、朝から何度も開いていた。


 朝、数字を見た瞬間に、何かが喉元まで上がってきた。


 言葉にしなかった。


 個別トークを開いた。晃とのやり取りの最後を見た。アイコンを一つ押した。それ以上のことはしなかった。


 言葉にすると、晃が受け取れなくなる気がした。さつきはそれを、理屈ではなく手の感覚で知っていた。


 だからアイコンだけにした。


 一日中、何度もコメント欄を開いた。開いては閉じて、また開いた。自分の動画の編集画面を開いて、何も手がつかなくて、閉じて、また晃のコメント欄を開いた。


 さっきから、同じコメントの前で止まっている。


 「今日つらかったけど、これ見て、また明日も頑張れる気がした」


 その一行の前で、さつきは止まっていた。


 晃の一人の夜が、知らない誰かの明日を作っていた。


 昨日の夜、レンタルキッチンの鍵を返して、黒川まで名城線で帰った。ワインを二杯飲んでいたから、少しだけ頬が温かかった。帰って、シャワーを浴びて、ドライヤーをかけて、寝た。その裏側で、晃は一人で鱈を焼いていた。


 さつきは知らなかった。あの動画がどんな顔で撮られたのかを。編集の最後に何を残したのかを。三百四十再生の夜に、晃が何を思って寝たのかを。


 でも、コメント欄が全部教えてくれた。


 晃が言葉にしなかったものが、言葉にならないまま、十九万回再生されていた。


 さつきは自分の動画のことを考えた。二千百三十四再生のアマトリチャーナ。四千八百九十一再生の二本目。「勉強になりました」のコメント。「美味しそう」が二回の朝。


 悔しいとは違った。嫉妬とも違った。


 自分の動画は構成を練って、光を調整して、カット割りを考えて、テキストの精度を上げて、完璧に仕上げた。「勉強になりました」が届いた。正しさが正しく届いた。


 晃の動画は、傾いたカメラで、BGMなしで、一人で鱈を焼いただけだった。それが十九万回再生された。


 晃の動画が届いたのは、晃が届けようとしなかったからだ。さつきにはそれがわかった。わかったことが、一番苦しかった。


 さつきはスマホの画面を閉じた。


 暗くなった画面に、自分の顔がうっすら映った。一秒だけ見て、目を逸らした。


 Safariを開いた。検索窓に「名古屋 レンタルキッチン 賃貸 物件」と打った。


 理由は、まだ言葉にしなかった。


 スタンドライトの光が、画面に反射していた。



   *



 晃はその夜、スマホを枕元に置いた。


 通知音は切らなかった。画面を、上にしたまま寝た。

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