第30話 焼き魚定食
バローで鱈の切り身を買ったのは、特に理由がなかった。
夕方五時過ぎ。鮮魚コーナーの冷蔵ケースに、白い切り身が三切れ並んでいた。一切れ百九十円。手に取って、カゴに入れた。それから卵と、長ネギと、豆腐と、味噌。白飯は炊飯器に残っている。
レジで合計を見た。八百円くらいだった。
帰りの坂道を上りながら、スマホを出した。YouTubeのホーム画面を開いた。昨日上げた「7品と乾杯」の再生数を見ようとして、やめた。閉じた。ポケットに入れた。
なんとなく、今日は数字を見たくなかった。
別に体調が悪いわけじゃなかった。熱もない。食欲もある。ただ、一日中少しだけ重かった。何が重いのかはわからなかった。講義の後、サークル棟にも寄らず、誰とも喋らずに帰ってきた。それだけのことだった。昨日あれだけ騒いだ反動かもしれない。三人でいた後に一人になると、静けさの輪郭が少しだけ鮮明になる。
アパートの外階段を上って、鍵を開けた。
六畳のキッチン付きワンルーム。築古。壁が薄い。外廊下を誰かが通ると足音が聞こえる。隣の部屋のテレビの音が壁越しにかすかに漏れている。キッチンはコンロが二口。シンクの横に小さな作業台。冷蔵庫の上に電子レンジ。調味料は棚に並べてある。醤油、みりん、酒、塩、白だし、ごま油。晃の台所にあるものは、それくらいだった。
窓を開けた。夕方の空気が入ってきた。少し冷えていた。向かいのアパートの屋根が見える。空がオレンジ色だった。
バローの袋をキッチンの台に置いた。
昨日のレンタルキッチンを思い出した。あの白い作業台には、アヒージョと姿造りと豚キムチが並んでいた。さつきの笑い声が大きくなって、澪が静かに日本酒を飲んでいた。ワインのボトルと四合瓶と空き缶がテーブルの上にあった。
今、目の前にあるのは、鱈の切り身と卵と長ネギだった。コンロ二口、作業台一つ。一人分。
*
父親が鱈の照り焼きを作っていたのを覚えている。
日曜の夕方。台所に立つ父親の背中。フライパンに鱈を並べて、酒と醤油とみりんを合わせたタレを入れる。蓋をして蒸し焼きにする。焦げないように火を見る。それだけだった。特別な料理じゃない。白飯と味噌汁とだし巻きと焼き魚。定食。
何歳の時だったか。小学校の高学年くらいだったと思う。母親が遅い日に、父親が作った。「俺が作れるのはこれくらいだから」と言っていた。晃はそれを食べて、うまいと思った。うまいとは言わなかったかもしれない。覚えていない。
鱈の切り身をキッチンペーパーで押さえた。水気を取る。父親がやっていたのと同じだ。切り身の表面を指で触った。ぬめりは取れている。塩は振らない。照り焼きにするから、塩は要らない。
フライパンに薄く油を引いた。鱈を並べた。中火。皮目を下にして、動かさない。白い身の端が、少しずつ不透明に変わっていく。透明だった部分が白く濁る。火が通っている証拠。隣の部屋のテレビの音が、壁越しに聞こえていた。
その間に、だし巻きを焼いた。卵を三つ割って、白だしを少し入れて混ぜた。泡立てない。箸で切るように混ぜる。卵焼き器を温めて、油を塗った。キッチンペーパーで丁寧に。薄く流した。端が固まってきたら、箸で奥から手前に巻いた。巻いた卵を奥に寄せて、また薄く流した。もう一度巻いた。三回繰り返した。
だし巻きの焼き加減は、晃の中では決まっていた。表面に焼き色がつかないくらい。ふわっとした、黄色い巻き。父親のだし巻きもそうだった。焦がしたことはなかったと思う。少なくとも、晃が食べた記憶の中では。
だし巻きをまな板に乗せて、四切れに切った。断面から湯気が立った。出汁を含んだ卵の層が見えた。
味噌汁を作った。鍋に水を入れて、豆腐を手の上でさいの目に切って入れた。ネギを刻んだ。沸いたら火を弱めて、味噌を溶いた。出汁はとらなかった。顆粒だし。澪が見たら何か言うかもしれない。でも、父親の味噌汁はこれだった。顆粒だしと豆腐とネギ。たまにわかめ。今日はわかめがなかった。
鱈を裏返した。皮がきつね色に焼けていた。身の表面も白く固まっている。合わせ調味料を入れた。酒、醤油、みりん。同量ずつ。小さい計量カップで量った。父親は目分量だった。晃はまだ量る。フライパンの中でタレが泡立った。蓋をした。弱火にして、三分。
換気扇を回した。甘い醤油の匂いがキッチンに充満していた。
三分経って、蓋を開けた。タレが煮詰まって、鱈の表面に照りがついていた。飴色の光沢。スプーンでタレをすくって、身の上に回しかけた。もう一度。照りが強くなった。
子供の頃の台所の匂いだった。夕方の、窓から西日が差す台所。父親の背中。同じ匂い。
皿に盛った。鱈の照り焼きを平皿の真ん中に置いた。タレをスプーンで回しかけた。だし巻きを四切れ、小皿に並べた。味噌汁を椀に注いだ。白飯を茶碗によそった。しゃもじで軽く丸く整えた。
テーブルの上に並べた。箸を置いた。
一人分。四つの皿と椀と茶碗。テーブルが少し狭かった。
定食だった。どこにでもある、何でもない定食だった。
*
なんとなく、カメラを回した。
三脚は立てなかった。スマホを調味料の瓶に立てかけた。角度は適当だった。テーブルの上の定食が映っている。それだけ確認して、録画ボタンを押した。
食べた。
鱈の照り焼きを箸で割った。身がほろっと崩れた。タレが染みている。口に入れた。甘じょっぱい。身は柔らかくて、噛むとほどけるように崩れた。タレの甘さの奥に、鱈の淡白な味がある。派手じゃない。でも、口の中に残る。白飯を食べた。タレが白飯に合った。当たり前の組み合わせだった。
だし巻きを一切れ食べた。箸で持ち上げると、少し揺れた。口に入れると、出汁がじわっと出た。卵の甘さと出汁の塩気。噛むたびに出汁が出る。ふわふわしている。焼き色がついていないから、舌触りが柔らかい。
味噌汁を飲んだ。豆腐がやわらかかった。ネギが浮いている。顆粒だしの味がした。澪の出汁とは全然違う。でも、これでよかった。
うまかった。
でも、うまいかどうかを考えながら食べているわけじゃなかった。ただ食べていた。テレビもつけなかった。スマホも見なかった。箸を動かして、噛んで、飲み込んで、また箸を動かした。窓の外の空が少しずつ暗くなっていた。
カメラが回っていることを、途中で忘れていた。
窓の外が暗くなっていた。食べ終わった皿がテーブルに残っている。味噌汁の椀の底に、ネギが一本沈んでいた。鱈の皿にはタレが薄く残っていた。だし巻きは全部食べた。白飯も空になっていた。
しばらく、そのままテーブルの前に座っていた。何も考えていなかった。ただ、食べ終わった定食を見ていた。
スマホの録画を止めた。十四分も回っていた。
*
なんとなく、編集した。
ベッドに横になって、スマホの編集アプリを開いた。十四分の素材を見返した。
調理の映像は撮っていなかった。食べているところしかない。最初の数秒、テーブルの上に定食が並んでいる。そこから晃が箸を取る。食べる。窓の外の空が変わっていく。それだけの映像だった。
カメラの角度が少し傾いていた。調味料の瓶に立てかけただけだから、水平が取れていない。直そうかと思った。直さなかった。三脚で撮ったまっすぐな映像より、傾いたままの方が、なんとなく、この動画には合っている気がした。
十四分を七分に切った。盛り付けのカットと、食べているところと、食べ終わったテーブル。BGMは入れなかった。入れる気にならなかった。鱈を割る音と、箸が皿に当たる音と、味噌汁をすする音。それだけが七分間続く。
食べている自分の映像を見返した。無表情だった。箸を動かしている。噛んでいる。たまに味噌汁を飲んでいる。それだけだった。画面の隅に、窓の外の空が映っていた。オレンジ色から、紺色に変わっていく。食べ始めた時と食べ終わった時で、窓の色が違った。
編集の最後に、一言だけ入れた。
録画を止める直前、十四分の素材のいちばん最後。食べ終わった皿を前にして、晃が何かを言った。何を言ったかは、ここには書かない。
その部分を、カットしなかった。
サムネイルは定食の写真にした。鱈の照り焼き、だし巻き、味噌汁、白飯。上から撮った。何の変哲もない定食だった。
タイトルは「焼き魚定食」にした。
*
なんとなく、上げた。
投稿ボタンを押したのは、夜の九時過ぎだった。登録者は6,200人だった。
皿を洗った。フライパンを洗った。タレが焦げついたところをスポンジでこすった。だし巻きに使った卵焼き器を洗った。味噌汁の鍋を洗った。全部洗い終わって、シンクの水を止めて、台を拭いた。
キッチンが静かになった。換気扇を止めた。さっきまで充満していた醤油の匂いが、少しずつ薄くなっていく。
スマホを見た。投稿から四十分。再生数は86。コメントはまだなかった。
昨日の「7品と乾杯」は、投稿四十分で300を超えていた。比べるつもりはなかった。でも数字は目に入った。
風呂に入った。湯船に浸かって、天井を見た。湯気が上がっていた。水道管の音がした。上の階の誰かが水を使っている。
なんとなく、父親のことを思い出していた。あの定食を食べていた頃のことを。
父親は料理が得意ではなかった。作れるものは限られていた。焼き魚定食、カレー、焼きそば。そのくらいだった。でも焼き魚定食だけは、何度食べてもうまかった。母親の料理とは違う味がした。上手いとか下手とかじゃなくて、父親の味がした。
味噌汁の味が同じだったかどうかは、わからなかった。たぶん違う。でも、顆粒だしを使っていたことだけは同じだった。豆腐を手の上で切っていたことも同じだった。あれは父親がやっていたから、晃もそうしている。誰かに教わったわけじゃない。見ていただけだ。
風呂から上がって、もう一度スマホを見た。再生数は220。コメントが二件入っていた。
「お大事に」
「作ってみます」
二件。それだけだった。
「お大事に」の意味を考えた。体調は悪くない。動画の中で体調のことは何も言っていない。ただ、黙って一人で定食を食べているだけの動画だ。カメラの角度は傾いていた。BGMもない。七分間、箸を動かして、噛んで、飲み込んで、窓の外が暗くなっていく。最後に一言だけ何か言った。
それを見て「お大事に」と書いた人がいる。
何が伝わったんだろう。自分では、何も伝えようとしていなかった。ただ食べただけだった。でも、画面の向こうの誰かは、何かを受け取った。それが何なのか、晃にはわからなかった。
考えて、やめた。わからなかった。
スマホを枕元に置いた。画面を下にして、伏せた。
早めに寝た。
*
翌朝、目が覚めた。
七時半。いつもと同じ時間だった。
スマホを見た。
再生数は340だった。コメントは増えていなかった。さつきからも澪からもトークは来ていなかった。
何も変わっていなかった。
布団の中でスマホを伏せて、もう少しだけ横になっていた。窓の外が明るかった。カーテンの隙間から、朝の光が細く入っていた。昨日の夕方、同じ窓からオレンジ色の光が差していた。あの光の中で定食を食べた。
昨日の夜、一人で食べた定食のことを思い出した。鱈の照り焼きの、甘じょっぱい匂い。だし巻きの黄色。味噌汁の湯気。白飯。
うまかった。それは確かだった。
でも、なんとなく——カメラの前で食べた定食は、父親が作ってくれた定食とは少し違った。何が違うのかは言えなかった。味は同じだったかもしれない。でも何かが違った。
起き上がって、顔を洗った。
講義に行く準備をした。鍵を持って、外に出た。外階段を降りた。
坂を下りながら、スマホを出した。登録者は6,200人のままだった。再生数は340のままだった。
閉じた。
坂の途中で、立ち止まらなかった。そのまま下りた。今日は講義が二つある。昼は学食で食べる。夕方には帰ってくる。それだけの一日になるはずだった。




