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第29話 どこにもないテーブル

 レンタルキッチンの鍵を開けたのは、さつきだった。


 晃が着いた時にはもう買い出しが済んでいた。白い作業台の上にオリーブオイルの瓶、にんにく、トマト缶、モッツァレラ。その横にバジルの束と冷凍のピザ生地が並んでいる。窓から入る午後の光が、作業台の上に四角く落ちていた。


 「早いな」


 「オーブン予熱あるから」とさつきが言った。カメラの三脚を窓際に寄せて、ファインダーを覗いた。五センチ動かして、二センチ戻した。


 晃はバローの袋を台に置いた。鶏皮のパック、豚バラ薄切り、キムチ、ポン酢、ネギ。それからビールの六缶パックとハイボールの缶を二本。冷蔵庫を開けたら、さつきが先に入れたワインのボトルとカシオレと氷結が冷えていた。


 「酒だけで冷蔵庫半分埋まるんだけど」


 「ワインはアヒージョに使うかもしれないから」


 「使うの?」


 「わかんない。飲むかも」


 さつきがスマホを見せた。トーク画面に澪のメッセージがあった。「魚がある。重い」とだけ書いてあった。


 「魚?」


 「知らない。もうすぐ着くって」


 三分後、ドアが開いた。澪が入ってきた。発泡スチロールの箱を抱えていた。重そうだった。もう片方の手に紙袋を二つ下げていた。


 「何それ」


 澪が箱の蓋を開けた。


 氷の上に、真鯛が一尾、横たわっていた。四十センチくらい。鱗が銀色に光っていた。目が澄んでいた。尾びれの先まで傷がなかった。


 「……どこで」


 「魚太郎」


 澪が紙袋の一つから筑前煮のタッパーを出して、作業台の端に置いた。もう一つの紙袋から四合瓶が出てきた。ラベルに蔵の名前が小さく入っている。


 「日本酒まで」


 「帰りに寄った」


 さつきが発泡スチロールの中の真鯛を覗き込んだ。「これ活〆?」


 「うん」


 「お刺身にするの?」


 「そのつもり」


 さつきが晃を見た。晃はビールを冷蔵庫に入れながら、真鯛を見ていた。四十センチの天然真鯛がレンタルキッチンの台に乗っている。その横に豚キムチの材料が並んでいる。冷蔵庫の中にはワインとカシオレと氷結が冷えていて、台の上には四合瓶がある。


 なんとなく、この取り合わせが自炊研究会だな、と思った。





 「回すよ」とさつきが言った。カメラの録画ボタンを押した。赤いランプが点いた。


 澪がシンクの前に立った。真鯛を水で洗い、鱗を引き始めた。包丁の背でこすると、細かい鱗が飛び散った。銀色の欠片がシンクの壁に貼りつき、何枚かは作業台の上まで飛んだ。


 「飛んでる飛んでる」とさつきがコンロの前から言った。自分のスキレットにオリーブオイルを注ぎながら、鱗を目で追っていた。


 「……ごめん」


 澪が言ったが手は止めなかった。残りの鱗を引ききった。出刃を取った。頭を落とした。刃が骨に当たる硬い音が一度だけ鳴って、それで終わった。ごとん、と頭が落ちた。


 晃は鶏皮を広げていた。パックから出した鶏皮の余分な脂をそぎ落として、フライパンに皮目を下にして並べた。油は引かない。弱火。出刃の音で一瞬手が止まったが、すぐに火加減を確認した。


 さつきのスキレットで、にんにくが泡を立て始めた。四片を包丁の腹で潰して入れている。弱火のはずだったが、色づきが早い。「ちょっと火強い」とつぶやいて、コンロのつまみを下げた。


 澪が内臓を抜いて、腹の中の血合いを指でこそげた。流水で丁寧に洗った。水音が大きくなった。タオルで水気を押さえて、まな板に乗せた。


 三枚おろしに入った。


 出刃の刃先を中骨に沿わせた。尾の方から刃を入れて、背骨の上を滑らせていく。力はほとんど入れていなかった。刃の重さだけで骨と身が分かれていく。ほとんど音がしなかった。包丁が正しい角度で入っている時、音は出ない。骨に身がほとんど残っていなかった。


 さつきの手が止まっていた。海老を持ったまま、澪の手元を見ていた。


 「……すごくない?」


 澪は答えなかった。反対側も同じようにおろした。二枚の身がまな板の上に並んだ。透き通るような白に、薄く桜色が差している。


 腹骨をすいた。柳刃の刃先を骨に沿わせて、薄く、そぎ取るように引いていく。骨だけが外れて、身が崩れない。そのまま血合い骨に指を走らせた。一本ずつ、骨の位置を確認して、骨抜きで引いていく。頭の方から尾に向かって、順番に。十二本。指が骨の端を見つけるたびに、骨抜きの先が正確にそこに入った。


 晃はフライパンの前にいたが、目は澪の手元にあった。鶏皮は弱火で放置していい段階だった。触らない方がいい。だから見ていた。


 澪の指が身の表面を一度なぞった。骨が残っていないことを確認している。


 皮引きに入った。柳刃の先端を、尾の端の皮と身のあいだに入れた。左手で皮の端をつまんで引きながら、右手の柳刃を小刻みに動かす。刃が皮と身のあいだの膜の上を滑っていく。皮が一枚でめくれていった。途中で切れない。身に皮が残らない。引き終わった身の表面は、脂で薄く光っていた。


 さつきが小さく息を吐いた。


 造りに切り始めた。柳刃の根元を身の端に当てて、手前に引く。一回で切る。刃を身に押し込まない。押し切りをすると断面の繊維が潰れる。引き切りにすれば、断面が滑らかに光る。切り身の厚さが揃っていた。七ミリ。感覚で切っているのに、揃っている。


 大皿に並べていった。扇形に、少しずつずらして。薄いピンクの断面が重なっていく。尾頭を皿の端に立てかけた。大葉と菊花を添えた。わさびを小さく盛った。


 晃は思った。この人、大学生なんだよな。


 アヒージョの匂いがキッチンに広がっていたことに、澪が包丁を置いてから気づいた。さつきがいつの間にか海老を入れていた。殻がオイルの中で赤く変わっている。マッシュルーム、鷹の爪。ぐつぐつとオイルが泡立っていた。


 「いい匂い」と晃が言って、鶏皮を裏返した。皮の面がきつね色に焼けていた。脂がフライパンの底に溜まっている。皿に上げた。余熱でじゅわじゅわ言っている。ポン酢をかけた。脂の上をポン酢が走って、酸味のある湯気が立った。刻みネギとおろし生姜。


 鶏皮の脂が残ったフライパンで、そのまま豚キムチに取りかかった。豚バラを一口大に切って入れた。強火。肉の色が変わった。キムチを汁ごと。ごま油をひと回し。甘辛い匂いが、にんにくと海老の匂いに重なった。


 さつきがカプレーゼを並べた。トマトとモッツァレラを交互に。オリーブオイルと塩と黒胡椒。バジルを散らした。三十秒。


 レンタルキッチンの白い台に、アヒージョとカプレーゼと鶏皮ポン酢と豚キムチと姿造りが並んだ。筑前煮のタッパーの蓋を澪が開けた。里芋とごぼうとこんにゃくと鶏肉が、醤油色の煮汁に浸かっていた。


 イタリアンの隣に姿造り。姿造りの隣に豚キムチ。豚キムチの隣にカプレーゼ。居酒屋でもビストロでも割烹でもない。どこにも存在しないテーブルだった。その隅に四合瓶が立っていて、冷蔵庫にはワインとカシオレが冷えている。


 さつきがオーブンを確認した。「マルゲリータ、あと八分」


 「先に始めていい?」と晃が聞いた。


 「乾杯はビール?」


 澪がビールの缶を三つ冷蔵庫から出した。乾杯はビールでいい、という顔だった。


 赤いランプが点いている。三人が缶を持った。


 「乾杯」





 晃がまず自分の鶏皮ポン酢を食べた。パリパリに焼けた皮を噛むと、中からじゅわっと脂が出た。ポン酢の酸味が脂を切って、ネギの辛味が追いかけてくる。ビールを飲んだ。うまかった。


 さつきがアヒージョから海老を取った。オイルが指についた。海老の殻を剥いて、身を口に入れた。「……にんにく、もうちょっと入れればよかった」


 「充分だよ」と晃が言った。


 「充分と最高は違うの」


 澪が箸で真鯛を一切れ取った。何もつけずにそのまま食べた。噛んだ。飲み込んだ。醤油の小皿に手を伸ばさなかった。


 「つけないの」とさつきが聞いた。


 「一切れ目はそのまま」


 晃も真鯛を取った。澪に倣って、何もつけずに口に入れた。


 弾力があった。歯が身に入ると、ほんのわずかに甘い。脂の甘さじゃなくて、身そのものの甘さだった。噛むたびに旨味が出てくる。白身なのに、味が濃い。


 「……うまい」


 澪が四合瓶の封を切った。グラスに注いだ。一口飲んだ。それから二切れ目の真鯛を醤油に少しだけつけて食べた。


 さつきがビールを飲み干して、カシオレを開けた。真鯛を取ってカプレーゼのオリーブオイルに浸して食べた。「合う」と言った。澪が一瞬だけさつきの手元を見たが、何も言わなかった。


 晃は豚キムチを食べてからアヒージョのマッシュルームを取った。キムチの辛さの後にオリーブオイルの甘さが来た。めちゃくちゃな順番なのに、口の中が忙しくて楽しかった。


 さつきが筑前煮の里芋を食べた。「これ、味しみてるね。いつ作ったの」


 「昨日」


 「知多行って、魚買って、酒屋寄って、筑前煮仕込んで。一人で?」


 「一人で」


 さつきがカシオレを飲んだ。「なんかさ、澪のソロ回みたいだね」


 澪が箸を止めた。


 「動画のほう。出汁の動画、再生数あんまり伸びなかったじゃん。でもあれ、いい動画だった。コメントにも書いてあった。静かだけど、ちゃんとしてるって」


 「コメント読んでないけど」


 「読みなよ。たまには」


 澪は日本酒を一口飲んだ。


 オーブンが鳴った。さつきが立ち上がった。扉を開けると、焼けたチーズとトマトの匂いが広がった。マルゲリータを取り出した。生地の縁が膨らんで、焦げ目がついていた。モッツァレラが溶けて、トマトソースの上で泡立っていた。バジルを散らして、ピザカッターで六等分にした。持ち上げるとチーズが伸びた。


 「マルゲリータと姿造りが同じテーブルにある」と晃が言った。


 「そこに豚キムチもある」とさつきが笑った。笑い方が少し大きくなっていた。カシオレが効いてきている。


 澪がマルゲリータを一切れ取った。食べた。「生地、もう少し薄い方がいい」


 「冷凍だからね。次は自分で伸ばす」


 さつきが冷蔵庫からワインを出した。「開けていい? アヒージョにはこっちでしょ」


 誰も止めなかった。コルクを抜いて、グラスに注いだ。一口飲んで、アヒージョのマッシュルームを食べた。「——やっぱこっちだわ。ビールもいいけど、オイルにはワインなんだよね。ていうか晃、マッシュルーム全部食べないでよ」


 「まだある」


 「二個しかない」


 澪が真鯛の残りに醤油をつけて、日本酒と交互にやっていた。静かだった。


 晃はビールの缶を持ち上げた。軽い。もうほとんど残っていなかった。これ一本でいい。二本目は開けない。顔が少し赤くなっている気がしたが、鏡がないからわからなかった。


 さつきがワインの二杯目を注ぎながら言った。「あのさ、次の合流動画、何作る?」


 「もう次の話してる」


 「だって——待って待って、今日のこれ撮れてるじゃん? 次も考えたくない? ていうか、今日のテーブル見て。このジャンルの振れ幅、他のチャンネルにないでしょ」


 さっきまでなら「次も考えたいじゃん」で止まっていた。ワインが入って、分析がほどけている。思いついたことが口からそのまま出ている。


 「今日のを先に上げてからでしょ」と澪が言った。


 「それはそう。それはそうなんだけど——」


 「そう。まず今日の」


 さつきが「はーい」と言って、ワインを飲んだ。


 澪が少しだけ口の端を動かした。笑ったかどうかは、わからなかった。





 さつきがカメラを一度止めた。「バッテリー替える」


 晃がスマホを見た。


 通知が一件入っていた。YouTube Studioではなく、銀行アプリだった。振込通知。摘要にYouTubeの文字が入っていた。


 指が止まった。


 「……なに」とさつきが晃の顔を見て言った。さっきまでの声の大きさが、一段落ちた。


 晃はスマホの画面を二人に見せた。


 さつきが覗き込んだ。澪がグラスを置いて、近づいてきた。


 三人で、小さな画面を見た。


 金額は——見た。三人とも見た。誰も声に出さなかった。


 五秒くらいの沈黙があった。アヒージョのオイルがスキレットの中でまだ小さく弾けている音だけが聞こえていた。


 さつきが先に口を開いた。「……入ってたんだ」


 声の温度が違った。さっきまでの、ワインで少しゆるんだ声じゃなかった。


 澪がテーブルに戻った。日本酒のグラスを持ち上げたが、飲まなかった。


 晃はスマホをポケットに入れた。


 誰も「いくら」とは言わなかった。誰も「すごい」とも「少ない」とも言わなかった。見た、という事実だけが三人のあいだに残った。


 晃は姿造りの大皿を見た。さっきまでと同じ真鯛だった。澪が朝一人で知多まで車を出して、魚太郎で選んで、帰りに酒屋に寄って、発泡スチロールと四合瓶を持ってきた。その隣にワインのボトルがある。さつきのアヒージョがある。自分の豚キムチの残りがある。何も変わっていない。


 でも、なんとなく——もう「趣味です」とは言えない気がした。趣味は振り込まれない。振り込まれた瞬間に、何かの線を越えている。その線がどこにあったのかは、越えてから気づいた。





 さつきがバッテリーを替えて、カメラを回し直した。


 三人がまた食べ始めた。さつきがマルゲリータの最後の一切れを取った。澪が姿造りの残りを小皿に移した。晃がアヒージョのオイルにマルゲリータの生地の端を浸して食べた。


 「それうまいの」とさつきが聞いた。声の大きさが戻りかけていた。


 「うまい」


 「なにそれ。邪道じゃん」


 「別の着地点」


 さつきが「何それ」と笑った。澪は何も言わなかった。日本酒のグラスを静かに傾けた。


 晃はカメラを見た。赤いランプが点いていた。


 「止めていい?」


 さつきと澪が手を止めた。


 「もう一回、乾杯のとこからやっていい?」


 さつきが晃を見た。澪が晃を見た。


 「なんで?」とさつきが聞いた。


 晃は少し考えた。一拍。いつもより短かった。「最初の乾杯、カメラ遠すぎた。もう少し寄った方がいい」


 さつきが「いいよ」と言った。缶はもう空だったが、カシオレの新しいのを開けた。「これで二回乾杯できる」


 澪は何も言わず、グラスに日本酒を足した。


 晃がカメラの三脚を近づけた。テーブルに座っている三人の距離に合わせた。食べ散らかした皿と空の缶とワインのボトルと四合瓶が映り込む高さ。きれいなテーブルじゃなくて、途中のテーブル。


 赤いランプが点いた。


 「乾杯」


 二回目の乾杯は、一回目とほとんど同じだった。でも三人がそれを「もう一回やる」と選んだことが違った。


 撮り直したのは、さっき見えた金額のせいじゃなかった。そう思いたかったし、たぶんそうだった。ただ、三人の距離がちゃんと映る画角が欲しかった。それだけだった。


 でも「それだけ」が、前は出てこなかった。





 編集は晃がやった。


 帰りの電車の中でスマホの編集アプリを開いて、カットを並べた。澪が真鯛をおろす手元。さつきがアヒージョに海老を入れる瞬間。晃自身が鶏皮をひっくり返すところ。テーブルに七品並んだ俯瞰カット。乾杯。食べる。笑う。さつきの声がだんだん大きくなっていく。


 一回目の乾杯と二回目の乾杯を並べてみた。画角が違う。一回目はキッチン全体が映っている。二回目は三人の手元と缶とグラスと皿だけ。二回目の方が、テーブルの「ごちゃごちゃしてるのに楽しそう」な感じが出ていた。迷わず二回目を使った。


 BGMは入れなかった。包丁の音と、油が弾ける音と、缶を開ける音と、三人の声。さつきの「充分と最高は違うの」と、澪の「一切れ目はそのまま」と、晃自身の「うまい」。編集で聞き返すと、自分の声が一番短くて間抜けだった。


 サムネイルはテーブルの俯瞰にした。アヒージョと姿造りと豚キムチが同じフレームに収まっている。


 タイトルは「7品と乾杯」にした。


 投稿した。登録者は6,082人だった。


 翌朝、ベッドの中でスマホを持ち上げた。YouTube Studioを開いた。再生数は1,800。インプレッションのクリック率が5.1パーセント。前の動画より高い。コメントが九件入っていた。


 「マルゲリータと刺身が同じ画面にあるの最高」「料理のジャンルがバラバラすぎて笑った」「BGMなしが好き」。


 一件だけ、少し長いコメントがあった。


 「この三人の感じが好きです。誰が主役とかじゃなくて、三人ともちゃんといる感じ。ずっと見ていたい」


 晃はそのコメントを読んで、閉じた。もう一度開いて、もう一度読んだ。


 撮り直した乾杯のカットのことを思い出した。カメラを近づけただけだった。でもその距離に、空の缶と食べかけの皿とワインのボトルと四合瓶と三人の手が全部映っていた。「ちゃんといる」ってそういうことかもしれない、と思った。


 なんとなく——答えは出なかった。





 片付けの話は、撮影が終わってからだった。


 さつきが皿を洗い、澪が拭き、晃がゴミをまとめた。さつきの頬がまだ赤かった。ワインとカシオレが残っていた。澪の四合瓶は半分空いていた。晃のビールは一本で終わっていた。


 真鯛のアラを澪がビニール袋に入れた。「アラ汁にする」と言った。自分で持ち帰る気だった。


 さつきがアヒージョの残りのオイルを小瓶に移した。「パスタに使う」


 澪が時計を見た。「延長、かかる?」


 さつきが壁の料金表を確認した。「ギリ大丈夫」


 それから、少し間があった。


 「毎回ここ借りると、けっこうかかるんだよね」


 さつきの声は、愚痴でも提案でもなかった。酔いが少し引いて、さっきまでと違うトーンだった。窓の外を見ながら言った。


 「光がいいから使ってるんだけど。オーブンもあるし。でも毎月二回借りたら——」


 言いかけて、止めた。


 澪が鍵をカウンターに戻しながら言った。「自分たちの場所があれば、予約もいらない」


 少し長かった。いつもの澪なら「予約もいらない」だけで切る。「自分たちの場所があれば」がくっついている。四合瓶が半分空いていることと、関係があるのかどうかはわからなかった。


 さつきが振り向いた。「それ、考えたことある?」


 「ない。今思っただけ」


 晃は何も言わなかった。


 外に出た。三人で坂を下りた。夕方の空気が少し冷えていた。庇の影が地面に縞で落ちていた。


 八事日赤の駅の手前で、さつきが「じゃあ」と手を振った。手の振り方がいつもより大きかった。澪が頷いた。二人が地下鉄の階段を降りていった。さつきは黒川まで名城線で帰る。澪も同じ方向だった。


 晃は一人になった。いつものことだった。さつきと澪が先に駅に消えて、晃がアパートまで歩く。十五分くらいの距離。


 坂の途中で、一度立ち止まった。


 振り込まれた金額のことを、もう一度だけ思い出した。あの数字を三人で見た瞬間のことを。誰も何も言わなかったことを。さつきの声が一段落ちたことを。


 でもあの後、撮り直した。乾杯をもう一回やった。


 撮り直したのは、金の話じゃなかった。三人の距離が映る画角が欲しかった。それだけだった。


 でも「それだけ」の中に、さっきまでなかった何かが入り込んでいる気がした。


 坂を上りきって、角を曲がった。アパートの外階段が見えた。


 スマホを出した。登録者が6,100人になっていた。閉じた。


 冷蔵庫に、豚キムチの残りがタッパーに入っている。明日の昼に食べよう、と思った。一人で食べる豚キムチは、三人で食べた時と味が違うかもしれない。でも、たぶん作った時の匂いは同じだ。


 外階段を上りながら、父親の焼き魚定食のことを少しだけ思い出した。一人で食べる飯の味。理由はわからなかった。


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