表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/8

第28話 出汁と静けさ

 サムネイルを変えてから、二日が経っていた。


 料理の写真から、箸を持つ自分の手元のカットに差し替えた。理由は自分でもわからない。ただ、なんとなくそうした方がいい気がして、深夜のベッドの上でスマホを触って、三十秒で終わった。


 再生数は変わらない。9,300のまま止まっている。コメントも増えていない。


 何かが変わるとも思っていなかった。変えたかったわけでもない。ただ、元の画像が自分のものではない気がした。それだけだ。


 澪からトークが来たのは、その翌日の夜だった。


 いつも通り、短かった。


「明日、撮る。来れる?」


 スマホを持ったまま、少し止まった。さつきのアマトリチャーナ。俺の居酒屋飯。次は澪の番だった。三人がそれぞれソロで一本ずつ上げる、という話は誰が決めたわけでもない。さつきが最初に動いて、俺が次に動いて、順番が回ってきた。それだけのことだ。


「何作る?」


「出汁」


 出汁。料理というより、その手前だった。


「出汁だけ?」


「出汁だけ」


 間が空いた。


「カメラ、持ってく?」


「持ってきて。あと、午前中がいい。光が入るから」


 用件が終わった。澪のトークはいつもこうだ。必要なことだけが、必要な分だけ並ぶ。



        *



 翌朝、バローで待ち合わせた。


 十月の午前十時。開店直後の店内はまだ空いている。カートを押す主婦が二人と、総菜コーナーで弁当を選んでいるスーツ姿の男が一人。BGMだけが静かに流れている。


 澪は乾物の棚の前にいた。


 昆布が三種類並んでいる。日高、利尻、羅臼。パッケージの裏を見ている。産地、内容量、値段。澪の視線はそこを往復していた。


「どれにする?」


「羅臼」


 一番高いやつだ。大学生が自分の動画のために買う出汁用の昆布としては、少し気合が入っている。でも澪は迷っていなかった。最初から決まっていて、棚の前で確認しただけだ。


 鰹節も選んだ。削り節のパック。本当は別のものが欲しかったのかもしれないが、バローにはそれがない。澪はパックを二つ手に取って、裏の原材料を読んで、片方を戻した。


「これでいい」


 妥協ではなかった。使えるもので最善を選ぶ、という判断だった。澪の料理はいつもそうだ。理想と現実の間を、黙って埋める。



        *



 澪の部屋は、俺の部屋より少しだけ新しくて、少しだけ広い。キッチンの作業台が一つ多い。それだけの違いだが、料理をする人間にとってはたぶん大きい。


 カメラを据える。三脚を立てて、画角を確認する。澪のキッチンは窓が東向きで、午前の光が入る。白い壁に柔らかい影が落ちている。


「ここでいい?」


 澪は画角を確認せずに頷いた。


 準備は静かだった。澪が流しで手を洗い、まな板を拭き、鍋を出す。俺はカメラの設定を調整しながら、マイクを置いた。環境音を拾えるように、感度を少し上げた。


 澪がバローの袋から昆布を取り出した。


 羅臼昆布。パッケージを開けると、乾いた磯の匂いがした。表面に白い粉が吹いている。旨味の結晶だと澪が前に言っていた。洗わない。拭きもしない。


 鍋に水を張る。澪は計量カップを使わなかった。鍋の内側の、自分にしかわからない線で止める。


 昆布を沈めた。


「どのくらい置く?」


「三十分」


 三十分。待つ、ということだ。加熱もしない。何もしない。昆布が水を吸って、ゆっくりと開いていくのを、ただ待つ。


 澪はカメラの前から離れなかった。


 鍋の横に立って、腕を組む。窓からの光が鍋の水面に細い線を引いている。澪の影が壁に落ちて、動かない。


 三十分を、澪は待てる。


 俺は五分で手持ち無沙汰になった。スマホを出しかけて、やめた。ここでスマホを触るのは、なんとなく違う気がした。


 澪が鍋を見ていた。


 正確に言えば、鍋の水面を見ていた。昆布が少しずつ水を吸って、色が変わっていく。乾いた茶色から、濡れた深緑へ。表面の皺が伸び、厚みが増す。


 澪の視線は、そこにだけあった。


 普段の澪は、一段先を見ている。次の動画の構成、チャンネルの数字、来月のメニュー。常に「今」ではなく「この先」に視線が向いている。


 でも出汁を引いている時の澪は、違った。


 先を見ていない。次の工程のことも考えていない。昆布が水を吸う速度を見ている。鍋の温度を手のひらで感じている。


 出汁は急げない。沸騰させたら終わりだ。強火にすれば昆布のえぐみが出る。鰹節を入れるタイミングも、待ちすぎれば濁る。


 先を計算して済む工程が、ほとんどない。


 澪は鍋を見ていた。たぶん、ずっと今だけを見ていた。



        *



 三十分が経った。


 澪が火をつける。弱火。鍋底に、小さな泡が並び始める。水温がゆっくりと上がっていく。


 俺はカメラを回した。


 澪の横顔が映っている。鍋の蒸気が薄く立ち始めて、澪の輪郭がわずかにぼやける。手は動かない。火加減を変えない。待っている。


 水面が揺れ始める。小さな波紋が鍋の縁から内側へ向かう。昆布の表面に、微細な気泡がつく。


「もうすぐ」


 澪がそう言った。俺に向けてではない。鍋に向かって言っている。


 水面の揺れが大きくなる。泡が底から上がってくる。沸騰の手前。この瞬間を逃すと、すべてが変わる。


 澪が火を止めた。


 迷いがなかった。判断に一秒もかからない。水面がまだ揺れている。泡が最後の一つ二つ、ゆっくりと浮かんで消える。


 昆布を引き上げる。箸ではなく、手で。熱い。でも澪は顔色を変えない。水を切って、バットの上に置く。


 鍋の中には、薄い金色の液体が残っている。昆布出汁。まだ完成ではない。ここに鰹節を入れる。


 削り節のパックを開ける。澪はそのことに何も言わない。パックの鰹節を手のひらに出して、量を確認する。


 鍋に入れる。


 火はつけない。余熱だけ。鰹節が湯の表面に触れた瞬間、香りが立った。海と煙と、かすかな酸味。出汁の匂いだ。部屋の空気が変わる。


 澪は鍋を覗き込む。鰹節が沈んでいくのを見ている。一枚一枚が、ゆっくりと回転しながら底へ向かう。


 二分。


 澪はそれ以上待たない。


 ザルに布巾を敷いて、鍋を傾ける。金色の液体が、布巾を通って下のボウルに落ちていく。


 布巾の上に残った鰹節を、澪は触らなかった。最後の一滴が落ちるまで、ただ見ていた。



        *



 出来上がった出汁を、澪が小さな器に注いだ。二つ。


 一つを俺に渡す。


「飲んで」


 透明に近い金色。湯気が細く立っている。口をつけると、最初に来るのは旨味ではなく、香りだった。鰹の香りが鼻を抜ける。遅れて、昆布の甘みが舌の奥に広がる。塩は入っていない。砂糖も入っていない。


 うまい、と思った。


 でも、何がうまいのかは、うまく言えなかった。


「なんか、静かな味がする」


 言ってから、自分でも意味がわからなかった。味に音量はない。でも他に言葉が出てこなかった。


 澪は自分の器を口に運んで、飲んだ。


 目を閉じなかった。壁の時計を見ていた。


「……うん」


 それだけ言って、鍋を洗い始めた。


 カメラはまだ回っていた。俺は止めなかった。澪が鍋を洗う音、水が流れる音、布巾を絞る音。その一つ一つが、出汁を引く工程と同じリズムで聞こえた。



        *



 撮影は昼前に終わった。


 澪の部屋を出て、アパートの階段を下りる。澪は「編集は自分でやる」と言った。俺は頷いた。さつきの時もそうだったし、俺の時もそうした。ソロの動画は、一人で仕上げる。そういうことになっている。


 玄関先で手を上げて、別れた。


「じゃ」


「うん」



        *



 自分の部屋に戻って、ベッドに座る。


 スマホを開いた。チャンネルの管理画面。登録者5,600人。俺の居酒屋飯が伸びた分で、少し上がっている。さつきの引き算の動画も、じわじわと再生が積まれている。


 澪の動画は、まだ上がっていない。当たり前だ。今日撮ったばかりだ。


 なんとなく、コメント欄を開いた。俺の動画のコメント。「疲れた時に見る」「なんか落ち着く」。同じ言葉がまだ並んでいる。「なんか」の意味は、まだわからない。


 スマホを伏せて、天井を見た。


 澪が出汁を引いている時の顔を思い出す。あの三十分、澪はどこにもいなかった。チャンネルの数字も、次の動画の構成も、あの鍋の外には何もなかった。


 俺にはそういう時間がない。居酒屋飯を作っている時も、頭のどこかで「これは撮れてるか」「この画角でいいのか」と考えている。さつきもたぶんそうだ。完成形を見ながら作っている。



        *



 澪の動画が上がったのは、三日後だった。


 サムネイルは鍋の水面だった。昆布が沈んだ金色の水面に、窓からの光が一本の線を引いている。タイトルは「出汁」。それだけ。


 動画を開いた。


 出汁を引く工程だけが、静かに並んでいる。昆布を水に入れる。火をつける。水面を見る。火を止める。鰹節を入れる。待つ。漉す。


 BGMはない。


 環境音だけ。水の音、火の音。澪の息遣いが、ごくたまに入る。


 テロップは最小限だった。「水出し 三十分」「加熱 沸騰の手前で止める」「鰹節 二分」。工程の説明というより、時間の刻みだ。


 最後のカットは、出汁を器に注ぐ手元。金色の液体が器を満たして、湯気が立つ。それで終わる。


 八分四十秒。さつきの動画より短い。俺のより短い。


 投稿から一日。再生数は1,200。


 二日後、2,800。


 一週間で、3,700。


 コメントは少なかった。「綺麗」「丁寧な暮らしですね」「音が好きです」。さつきの動画につく「勉強になりました」とも、俺の動画につく「なんか落ち着く」とも違う種類の言葉が並んでいた。


 3,700。さつきの引き算の動画より少ない。俺の居酒屋飯よりもずっと少ない。


 でも澪はコメント欄を開かなかった。


 あとでトークで聞いてみた。


「コメント見た?」


「見てない」


「3,700再生だよ」


「知ってる」


「見てないのに?」


「再生数は見た。コメントは見てない」


 間が空いた。それ以上聞いていいのかわからなかった。


「見ないの?」


「今は別にいい」


 澪にとって、コメントは「見ないもの」ではなく「今は見なくていいもの」だった。数字は確認する。でもそこに書かれた言葉は、今の自分には必要ない。


 さつきなら全部読む。俺は読んだり読まなかったりする。澪は数字だけ見て、言葉は閉じる。


 三人とも、同じ画面を違うやり方で見ている。



        *



 登録者5,600人。


 さつきのアマトリチャーナ、俺の居酒屋飯、澪の出汁。三本のソロが出揃った。次は何をするのか、誰も決めていない。


 窓の外で、バイクの音がした。遠くなって、消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ