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第27話 なんとくなく、アジフライ

 再生数は9,300だった。


 それを確認してから、晃はスマホを裏返した。

    *

 動画を上げたのは四日前だった。


 別に計画していたわけじゃない。


 バロー滝川店に寄ったのは夕方五時過ぎだった。坂を下りきったあたりで、もう空が暗くなりかけていた。住宅街だから、この時間になると静かになる。飲み屋もなく、派手な看板もなく、ただ家の灯りがぽつぽつと窓から漏れ始める。乾いた風が吹いていた。誰かが夕飯を作っているのか、どこかの換気扇から油の匂いがした。腹が鳴った。


 自動ドアを抜けると、急に明るくなった。蛍光灯の白い光が天井から均等に降りていた。鮮魚コーナーに入ったとき、冷気と一緒に磯の匂いがした。アジフライ用の切り身が並んでいた。四枚入りのパックが百三十円だった。トレーの中で、切り身がやや赤みを帯びていた。新鮮だった。


 手が伸びた。


 隣に一尾丸ごとのアジもあった。澪なら迷わずそっちを取るんだろうなと思った。でも捌き方を知らなかった。切り身で十分だった。


 卵と白だしと炭酸水も取った。レジで合計を見た。六百円台だった。ウィスキーは家にあった。


 帰りの坂道を上りながら、スマホを開いた。さつきのアマトリチャーナが4,862だった。前に自分が上げた動画が2,134で止まっていた。閉じた。


 特に何も思わなかった。

    *

 アパートに帰って、買ってきたものをとりあえず床に置いた。コートを脱いで、椅子の背に引っかけた。着替えた。


 充電ケーブルを引っ張ってスマホをつないだ。Xを流した。流しながら、さつきのトークにバッジがついているのが見えた。読まなかった。澪からも何か来ていた。読まなかった。


 シンクの横に、前回の撮影で使ったままのまな板が立てかけてあった。まだ少し湿っていた。


 腹が減っていた。床に置いたままの袋が目に入った。立ち上がった。


 袋をシンクに持っていって、中身を並べた。アジのフライ用切り身が四枚。卵、白だし、パン粉、薄力粉。炭酸水。


 カメラを出したのは、だし巻きを巻き始める前だった。回した。理由は考えなかった。


 先にだし巻きを作った。卵を三個割った。黄身が丸かった。白だしを少し入れて、箸で混ぜた。泡が立って、すぐ消えた。卵液は均一な黄色になった。フライパンを温めて、薄く油を引いた。卵液を流すと、じわっと広がった。端から菜箸で寄せて、手前に引いた。形が崩れた。巻き簾で押さえた。卵の匂いがした。温かかった。少し直した。完璧じゃなかったが、まあいいと思った。バットに乗せて冷ました。


 だし巻きを巻く映像は撮れていた。でも形が崩れた後だった。


 油を鍋に入れて火にかけた。じわじわ温度が上がるのが、鍋の縁を見ているとわかった。薄力粉、卵液、パン粉の順にアジをくぐらせた。父親がいつもそうしていた。なぜその順番なのかは知らない。聞いたことがなかった。卵液をくぐらせた後のアジは、少しだけ重くなった。パン粉をつけると、表面がざらっとした。


 油の温度を確認した。菜箸を入れると細かい泡がついた。アジを入れた。


 ジュッという音がした。油の匂いが広がった。


 同じ音だと思った。実家のキッチンで父親が揚げ物をする時、廊下まで聞こえてきたのと同じ音だった。特に何も考えなかった。ただ、少し止まった。


 衣が白から狐色に変わっていった。泡が細かくなった。引き上げた。バットに置くと、油が落ちる音がした。湯気が顔に当たった。熱かった。衣の端がかりっと反り返っていた。アジフライを揚げている映像は撮れていなかった。油に入れる前に間に合わなかった。


 だし巻きを切った。断面が出た。層になっていた。冷めていたが、形は保っていた。アジフライと並べて皿に盛った。朝炊いて保温しておいたご飯をよそった。しゃもじで押さえると、少し抵抗があった。


 ハイボールを作った。グラスに氷を入れると、乾いた音がした。ウィスキーを注いで、炭酸水を注いだ。氷が沈んで、また浮いた。泡が細かかった。


 洗い物をしてから、食卓に持っていった。


 撮れたのは完成してからだった。だし巻きを切る映像。アジフライに箸を入れる映像。ハイボールを作る映像。

    *

 一口食べた。


 アジフライは衣がさくっとして、中の身がほろっと崩れた。アジの脂が衣ごと口の中に入ってきた。甘かった。噛むたびに、脂が滲んだ。


 うまかった。


 だし巻きを食べた。白だしが少し強かった。でも出汁の味はちゃんとあった。まあいいと思った。ハイボールを一口飲んだ。炭酸が喉を落ちていった。冷たかった。飯を食った。それだけでよかった。

    *

 三十分くらい編集した。


 テロップは入れなかった。入れようとして、やめた。BGMも探した。合うものが見つからなかった。結局、音だけにした。油の音、卵を混ぜる音、炭酸水を注ぐ音。


 サムネを選んだ。皿を窓際に持っていって撮った。それにした。


 タイトルを入れた。説明欄に何か書こうとして、何も書かなかった。


 投稿ボタンの前で、少し止まった。理由はわからなかった。


 上げた。


 スマホを置いた。三十秒くらいして、また開いた。再生数は1だった。自分だった。閉じた。


 その夜、さつきから「おつかれ」とだけ来た。晃は「うん」と返した。澪からは何も来なかった。


 寝る前にもう一度開いた。17だった。閉じた。


 翌日の昼に、再生数が三百を超えた。インサイトを開いた。視聴者維持率が六十二パーセントだった。前の動画より高い。視聴者層のグラフを見た。二十代が多かった。


 悪くない数字だと思った。特別でもないとも思った。

    *

 三日後に、スマホを開いたら通知が溢れていた。


 再生数が9,300だった。登録者が5,200人になっていた。前の日まで4,100人だった。


 コメント欄を開いた。


「疲れた時に見る動画」


 一件目がそれだった。晃はその一行を読んで、もう一度読んだ。


「なんか落ち着く」


「夜中に一人で見てたら泣きそうになった。なんでだろ」


「音が好き」


 スクロールした。「美味しそう」が多かった。「作ってみます」も何件かあった。「このチャンネル好き」が一件。


 晃はスマホを置いた。


 全部が、という感じがした。自分がアジを手に取ったのも、カメラを回したのも、上げたのも——それを9,300人が見た。


 さつきの動画は4,891再生だった。


 少し申し訳ないと思った。理由はうまく言えなかった。さつきは計画して、考えて、作り直して、あの動画を出した。晃は、腹が減ったからアジを買った。


 でも数字は、晃の方が多かった。


 「なんか落ち着く」の意味を考えた。考えたが、わからなかった。料理系の動画でそのコメントが来る理由がよくわからなかった。アジフライを揚げる映像に、何が入っていたのか。ハイボールの氷の音に、何があったのか。


 もう一度コメントを開いた。「疲れた時に見る」。「また明日も頑張れる気がした」。「なんか実家思い出した」。


 晃は実家のことを書いていなかった。父親のことも書いていなかった。油の音だけ入れた。それだけだった。


 なのに、誰かの実家に届いていた。


 気持ち悪い、とは思わなかった。でも落ち着かなかった。自分が意図していないものが伝わっている。それが何なのか、晃にはわからなかった。わからないまま、スクロールが止まらなかった。


 他のチャンネルのサムネを開いた。どれも綺麗だった。光の当て方が計算されていた。テロップのフォントが揃っていた。晃の動画のサムネは、皿を窓際に持っていって撮っただけだった。


 わからないまま、飯を食った。

    *

 さつきからLINEが来たのは夜だった。


「すごいじゃん」


 晃は少し止まった。


「うん」


「ちょっと悔しいけど」


「そうだよな」


「なんで悔しいって言ったのに共感してくんの」


「え、慰めた方がよかった?」


「慰めてほしかったわけじゃないけど」


「じゃあよかった」


「よくない」


 しばらく間があった。


「アジフライ、百三十円のやつ?」


「そう」


「バロー?」


「うん」


「……悔しい」


 それきり、さつきからは来なかった。


 澪からは別のトークで「サムネ、飯の写真か」とだけ来た。


「そう」


「——まあ」


 それで終わった。


 澪が何か続けを言いかけたのはわかった。でも聞かなかった。


 少ししてから、三人のグループに澪が何か送ってきた。


「次、何作る」


 さつきがすぐ返した。


「私はもう決めてる」


「晃は」


 晃はしばらく考えた。考えて、特に何も浮かばなかった。


「腹減ったら考える」


「それ毎回同じこと言ってる」とさつきが返した。


「毎回腹減るから」


「草」


 澪からは何も来なかった。既読だけついた。

    *

 投稿から二日後、晃はサムネイルを変えた。


 料理の写真から、飯を食っている自分の手元のカットに。


 そっちの方が正しい気がした。


 アジフライとだし巻きと飯が綺麗に並んだ写真より、箸で崩しかけたアジフライの方が、あの「なんか落ち着く」に近い気がした。それだけだった。


 変えた後、誰にも言わなかった。


 さつきには言わなかった。澪にも言わなかった。チャンネルを誰かが確認しない限り、気づかれることはない。


 しばらく画面を眺めていた。


 手元のカットには、箸の先にアジフライが刺さっていた。衣が少し崩れていた。揚げすぎてもなく、生でもなかった。ただ、食べかけの飯だった。


 なんとなく、これでいいと思った。


 なぜそう思ったのかは、わからなかった。

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