第26話 引き算
再生数は4,891だった。
さつきはその数字を、三秒だけ見た。それから画面を閉じた。
でもそれは、まだ先の話。
*
深夜二時に、さつきは澪に電話した。
コールが三回鳴った。四回目の途中で繋がった。
「聞いていい?」
澪は何も言わなかった。いいよとも言わなかった。ただ、回線が繋がっている気配があった。
「前の動画、観てくれた?」
「観た」
「どうだった」
「きれいだった」
さつきは窓の外を見た。暗かった。向かいのアパートの灯りが一つだけ点いていた。
「きれいだった、って、それだけ?」
「それだけ」
澪の「それだけ」には、いつも続きがある。さつきはそれを知っていた。だから待った。
さつきは布団の上で体勢を変えた。仰向けになった。天井のシミが暗がりの中でかすかに見えた。
「コメント、見た?」
「見てない」
「勉強になりましたって」
「うん」
「三回」
「うん」
「美味しそうって言われなかった」
澪は黙った。さつきにはその沈黙の理由がわからなかった。考えているのか、興味がないのか、それとも何か別のものを探しているのか。
「ねえ、澪」
「うん」
「動画の何がだめだったのかな」
「だめじゃないでしょ」
「だめじゃないのはわかってる。でもさ、なんか——」
言葉が止まった。なんか、の先が出てこなかった。
さつきは目を閉じた。まぶたの裏が暗かった。考えがうまくまとまらなかった。工程は正しかった。カット割りも悪くなかった。テロップも丁寧に入れた。火加減も味も、完成形だった。
「テロップがさ」
澪が言った。さつきは目を開けた。
「多くなかった?」
「……多かった?」
「弱火でじっくりとか、水分を飛ばしながらとか。全部書いてあった」
「書いてあった方がわかりやすいかと思って」
「わかりやすかった」
「じゃあいいんじゃないの」
「それでいいなら電話してこないでしょ」
さつきは口を閉じた。澪の声は静かだった。怒っていない。冷たくもない。ただ、正確だった。
「さつきのは、観ていてさ」
澪が続けた。さつきは少し驚いた。澪が二文以上続けて話すことは多くない。
「工程が全部見えるから、安心する。でも、その分——」
少し間があった。
「想像しなくていい」
さつきは天井を見た。
「想像しなくていい?」
「テロップに全部書いてあるから。観てる人は、自分で考えなくていい」
「それはいいことじゃないの?」
「いいことだと思う。でも、美味しそう、は、そこから出てこないんじゃない」
さつきは呼吸をした。吸って、止めて、吐いた。
「美味しそう、ってさ」
澪の声が少しだけ柔らかくなった。
「自分で味を想像した時に出てくる言葉でしょ」
さつきは何も言えなかった。
「説明より余白じゃない?」
その一言が、暗い天井に落ちた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。回線の向こうで、澪が何かを飲む音がした。コップを置く音。
「……余白」
「うん」
「余白かあ」
「出汁もそう」
さつきはまばたきした。
「出汁?」
「引いてる途中は何もしない。昆布が開くの、待つだけ。でも、その時間がないと出汁にならない」
澪にしては長かった。さつきは少し笑った。声には出さなかったけど、口の端が動いた。
「澪って料理の話になると饒舌だよね」
「……別に」
「ありがと」
「寝なよ」
「うん」
電話を切った。画面が暗くなった。時刻が表示された。二時十七分。
さつきはスマホを枕の横に置いた。目を閉じた。
余白。
あの動画に、余白はなかった。テロップで工程を説明し、カット割りで手順を見せ、音声で補足した。隙間がなかった。見る人が想像する隙間が、どこにもなかった。
文化祭の日を思い出した。あの日は何も説明していなかった。カレーを出して、食べてもらって、それだけだった。テロップもなかった。カット割りもなかった。ただ、湯気と匂いと、目の前の人の顔があった。
あの人は「美味しい」と言った。
説明しなかったから、あの人は自分で味を想像した。口に入れる前に、匂いで。見た目で。湯気で。
さつきの動画には、匂いも湯気もなかった。正確に言えば、映っていた。でも、それ以上に、テロップが正確だった。正確なテロップが、匂いや湯気を上書きしていた。
目を閉じたまま、さつきは考えた。
削ればいい。
テロップを減らす。説明を抜く。工程を全部見せない。観ている人が自分で埋められる空間を残す。
それは怖いことだった。
工程を省けば、不正確になる。不正確な情報を出すことが、さつきには怖かった。正しくないものを出して、それで「美味しそう」と言われたとして、それは本当に届いたことになるのか。
でも、正しいものを出して「勉強になりました」と言われた夜のことを思い出すと、胸の奥がざらついた。
眠れなかった。
三時を過ぎた頃に、さつきはスマホを開いて、自分の動画を再生した。音を消して、映像だけ見た。
テロップが次々に流れていった。「弱火でじっくり脂を引き出します」「トマトの水分を飛ばしながら煮込みます」「ペコリーノ・ロマーノをたっぷりと」。
正確だった。
正確で、きれいで、隙がなかった。
さつきはアプリを閉じた。枕に顔をうずめた。何かを言いかけて、やめた。誰もいなかった。
*
三日後、さつきは同じレンタルキッチンにいた。
同じアマトリチャーナを作る。材料も同じ。パンチェッタ、タマネギ、ホールトマト、白ワイン、ペコリーノ。工程も同じ。変えるのは、撮り方だけ。
iPhoneを同じ場所に固定した。録画ボタンを押した。
パンチェッタを入れた。弱火。
前回は、ここでテロップを入れた。「弱火でじっくり脂を引き出します」。今回は入れない。パンチェッタが縮んでいく映像だけを撮る。脂が出てくる。色が変わる。それだけ。
タマネギを入れた。前回は「透明になるまで炒めます」と入れた。今回は入れない。タマネギが透き通っていく映像を、そのまま撮った。ヘラで動かす音が入っていた。前回はその音を気にした。今回は気にしなかった。
白ワインを入れた。湯気が立った。アルコールが飛ぶ匂いがした。前回は「アルコールをしっかり飛ばします」と入れた。今回は入れない。
テロップを入れないだけで、手持ち無沙汰になった。前回は説明を考えることで頭が埋まっていた。今回は、ただパンチェッタを焼いて、タマネギを炒めて、トマトを煮込んでいるだけだった。
それが少し怖かった。何も説明していない自分が、カメラの前で料理をしているだけの人間になっている気がした。
ホールトマトを潰して加えた。煮込む。
ソースが赤く煮詰まっていく。さつきはフライパンの中を見ていた。泡が立って、はじけて、表面が少しずつ変わっていく。色が深くなる。匂いが変わる。トマトの酸味が飛んで、甘みが前に出てくる。
前回はこの変化をテロップで説明した。今回は、ただ見ていた。
パスタを茹でた。茹で汁を少し取っておいた。ソースと和えた。
ペコリーノを削った。白い粉がソースの赤に落ちていった。
皿に盛った。
窓際に持っていった。光が当たった。赤いソースと白いチーズが映っていた。前回と同じ構図だった。
前回との違いは、テロップがないこと。カット数が少ないこと。工程の途中を端折っていること。
それだけのはずだった。
でも、さつきには、前回と何かが違うように見えた。何が違うのかはうまく言えなかった。ただ、皿の上の一皿が、前回より少しだけ近く見えた。
食べた。うまかった。前回と同じ味だった。
*
編集は短かった。
テロップを入れる工程がないから。
映像を通しで見た。手ぶれは相変わらずだった。暗い場面もあった。でも、テロップがない分、音が聞こえた。パンチェッタが焼ける音。タマネギを炒めるヘラの音。白ワインの湯気。トマトが煮える泡の音。
前回はテロップに目が行って、音が後ろに回っていた。今回は音が前に来ていた。
煙の場面が来た。
ソースを煮込んでいる途中で、少し火が強かった。フライパンの縁から、薄い煙が上がった。さつきが一瞬止まって、火を落とす。ヘラが鍋肌に当たる。ソースをかき混ぜる。焦げていない。大丈夫だった。
前回は、この場面をカットした。
今回は、カーソルを煙の場面に合わせて、止めた。
三秒くらいの映像だった。煙が上がって、さつきの手が止まって、火を落として、混ぜ直す。それだけの映像。
前回、これを消した。消した理由は、失敗だったから。完璧な動画に、失敗が映っているのは違うと思ったから。
今回は——。
さつきはマウスから手を離した。
残す理由は、うまく言えなかった。ただ、消した時と、消さなかった時で、何かが違った。その「何か」に、さつきはまだ名前を知らなかった。
煙の場面を、残した。
前後をカットせず、そのまま繋いだ。三秒。煙が薄く上がって、消える。
通しで見た。動画は前回より荒かった。テロップがない分、説明が足りない。工程がわかりにくい場面がある。煙の場面では、さつきが一瞬慌てている。
でも、なんとなく、皿が近かった。
アプリで書き出した。投稿した。サムネイルは前回と同じ構図にした。
寝た。
*
翌朝、目が覚めて、スマホを開いた。
再生数は4,891だった。
前回は2,134だった。倍以上。数字だけ見れば伸びている。登録者も3,400から4,100に増えていた。
コメント欄を開いた。
「なんか美味しそう」
さつきはその一行を見た。
「料理系にしてはゆるくて好き」
もう一件。
それから少しスクロールした。「参考になりました」が一件。「チーズ多めが好みです」が一件。
さつきはスマホを置いた。
「なんか美味しそう」を、もう一度読んだ。
その「なんか」が何なのか、さつきにはまだわからなかった。澪だったらわかるかもしれないと思った。でも、聞かなかった。
前回は「勉強になりました」を三回読んだ。今回は「なんか美味しそう」を二回読んだ。でも、何かが変わった。
さつきはベッドの上で膝を抱えた。窓の外は明るかった。冬の朝の光が、カーテンの隙間から細く入っていた。
「なんか」がついている。
「美味しそう」ではなく「なんか美味しそう」。その「なんか」は、たぶん、テロップがなかったから出た言葉だった。説明されなかったから、自分で想像して、その想像が「なんか」になった。
澪が言っていた。美味しそう、は、自分で味を想像した時に出てくる言葉だと。
さつきはスマホを開いて、澪にLINEを送ろうとした。
やめた。
何を送ればいいのかわからなかった。「伸びた」とか「コメント変わった」とか、そういう報告ではない気がした。
代わりに、動画を開いた。自分の動画。テロップのない、荒い、煙が一瞬映っている、不完全な動画。
再生した。音を出した。
パンチェッタが焼ける音がした。タマネギを炒めるヘラの音がした。白ワインの湯気が立つ瞬間、小さなジュッという音がした。
前回は聞こえなかった音だった。テロップで塞いでいた音だった。
煙の場面が来た。三秒。薄い煙が上がって、さつきの手が止まって、火を落として、混ぜ直す。
消さなかった。
消さなかったことが、正しかったのかどうかはわからない。
でも、「なんか美味しそう」と書いた人は、たぶん、この煙を見た。見て、何かを想像した。それが何かは、さつきにはわからなかった。
さつきはスマホを閉じた。
次の動画のことは、まだ考えなかった。
でも、消さなかった三秒のことは、考えていた。




