表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/8

第26話 引き算

 再生数は4,891だった。


 さつきはその数字を、三秒だけ見た。それから画面を閉じた。


 でもそれは、まだ先の話。



    *



 深夜二時に、さつきは澪に電話した。



 コールが三回鳴った。四回目の途中で繋がった。



「聞いていい?」



 澪は何も言わなかった。いいよとも言わなかった。ただ、回線が繋がっている気配があった。



「前の動画、観てくれた?」



「観た」



「どうだった」



「きれいだった」



 さつきは窓の外を見た。暗かった。向かいのアパートの灯りが一つだけ点いていた。



「きれいだった、って、それだけ?」



「それだけ」



 澪の「それだけ」には、いつも続きがある。さつきはそれを知っていた。だから待った。



 さつきは布団の上で体勢を変えた。仰向けになった。天井のシミが暗がりの中でかすかに見えた。



「コメント、見た?」



「見てない」



「勉強になりましたって」



「うん」



「三回」



「うん」



「美味しそうって言われなかった」



 澪は黙った。さつきにはその沈黙の理由がわからなかった。考えているのか、興味がないのか、それとも何か別のものを探しているのか。



「ねえ、澪」



「うん」



「動画の何がだめだったのかな」



「だめじゃないでしょ」



「だめじゃないのはわかってる。でもさ、なんか——」



 言葉が止まった。なんか、の先が出てこなかった。



 さつきは目を閉じた。まぶたの裏が暗かった。考えがうまくまとまらなかった。工程は正しかった。カット割りも悪くなかった。テロップも丁寧に入れた。火加減も味も、完成形だった。



「テロップがさ」



 澪が言った。さつきは目を開けた。



「多くなかった?」



「……多かった?」



「弱火でじっくりとか、水分を飛ばしながらとか。全部書いてあった」



「書いてあった方がわかりやすいかと思って」



「わかりやすかった」



「じゃあいいんじゃないの」



「それでいいなら電話してこないでしょ」



 さつきは口を閉じた。澪の声は静かだった。怒っていない。冷たくもない。ただ、正確だった。



「さつきのは、観ていてさ」



 澪が続けた。さつきは少し驚いた。澪が二文以上続けて話すことは多くない。



「工程が全部見えるから、安心する。でも、その分——」



 少し間があった。



「想像しなくていい」



 さつきは天井を見た。



「想像しなくていい?」



「テロップに全部書いてあるから。観てる人は、自分で考えなくていい」



「それはいいことじゃないの?」



「いいことだと思う。でも、美味しそう、は、そこから出てこないんじゃない」



 さつきは呼吸をした。吸って、止めて、吐いた。



「美味しそう、ってさ」



 澪の声が少しだけ柔らかくなった。



「自分で味を想像した時に出てくる言葉でしょ」



 さつきは何も言えなかった。



「説明より余白じゃない?」



 その一言が、暗い天井に落ちた。



 しばらく、二人とも何も言わなかった。回線の向こうで、澪が何かを飲む音がした。コップを置く音。



「……余白」



「うん」



「余白かあ」



「出汁もそう」



 さつきはまばたきした。



「出汁?」



「引いてる途中は何もしない。昆布が開くの、待つだけ。でも、その時間がないと出汁にならない」



 澪にしては長かった。さつきは少し笑った。声には出さなかったけど、口の端が動いた。



「澪って料理の話になると饒舌だよね」



「……別に」



「ありがと」



「寝なよ」



「うん」



 電話を切った。画面が暗くなった。時刻が表示された。二時十七分。



 さつきはスマホを枕の横に置いた。目を閉じた。



 余白。



 あの動画に、余白はなかった。テロップで工程を説明し、カット割りで手順を見せ、音声で補足した。隙間がなかった。見る人が想像する隙間が、どこにもなかった。



 文化祭の日を思い出した。あの日は何も説明していなかった。カレーを出して、食べてもらって、それだけだった。テロップもなかった。カット割りもなかった。ただ、湯気と匂いと、目の前の人の顔があった。



 あの人は「美味しい」と言った。



 説明しなかったから、あの人は自分で味を想像した。口に入れる前に、匂いで。見た目で。湯気で。



 さつきの動画には、匂いも湯気もなかった。正確に言えば、映っていた。でも、それ以上に、テロップが正確だった。正確なテロップが、匂いや湯気を上書きしていた。



 目を閉じたまま、さつきは考えた。



 削ればいい。



 テロップを減らす。説明を抜く。工程を全部見せない。観ている人が自分で埋められる空間を残す。



 それは怖いことだった。



 工程を省けば、不正確になる。不正確な情報を出すことが、さつきには怖かった。正しくないものを出して、それで「美味しそう」と言われたとして、それは本当に届いたことになるのか。



 でも、正しいものを出して「勉強になりました」と言われた夜のことを思い出すと、胸の奥がざらついた。



 眠れなかった。



 三時を過ぎた頃に、さつきはスマホを開いて、自分の動画を再生した。音を消して、映像だけ見た。



 テロップが次々に流れていった。「弱火でじっくり脂を引き出します」「トマトの水分を飛ばしながら煮込みます」「ペコリーノ・ロマーノをたっぷりと」。



 正確だった。



 正確で、きれいで、隙がなかった。



 さつきはアプリを閉じた。枕に顔をうずめた。何かを言いかけて、やめた。誰もいなかった。



    *



 三日後、さつきは同じレンタルキッチンにいた。



 同じアマトリチャーナを作る。材料も同じ。パンチェッタ、タマネギ、ホールトマト、白ワイン、ペコリーノ。工程も同じ。変えるのは、撮り方だけ。



 iPhoneを同じ場所に固定した。録画ボタンを押した。



 パンチェッタを入れた。弱火。



 前回は、ここでテロップを入れた。「弱火でじっくり脂を引き出します」。今回は入れない。パンチェッタが縮んでいく映像だけを撮る。脂が出てくる。色が変わる。それだけ。



 タマネギを入れた。前回は「透明になるまで炒めます」と入れた。今回は入れない。タマネギが透き通っていく映像を、そのまま撮った。ヘラで動かす音が入っていた。前回はその音を気にした。今回は気にしなかった。



 白ワインを入れた。湯気が立った。アルコールが飛ぶ匂いがした。前回は「アルコールをしっかり飛ばします」と入れた。今回は入れない。



 テロップを入れないだけで、手持ち無沙汰になった。前回は説明を考えることで頭が埋まっていた。今回は、ただパンチェッタを焼いて、タマネギを炒めて、トマトを煮込んでいるだけだった。



 それが少し怖かった。何も説明していない自分が、カメラの前で料理をしているだけの人間になっている気がした。



 ホールトマトを潰して加えた。煮込む。



 ソースが赤く煮詰まっていく。さつきはフライパンの中を見ていた。泡が立って、はじけて、表面が少しずつ変わっていく。色が深くなる。匂いが変わる。トマトの酸味が飛んで、甘みが前に出てくる。



 前回はこの変化をテロップで説明した。今回は、ただ見ていた。



 パスタを茹でた。茹で汁を少し取っておいた。ソースと和えた。



 ペコリーノを削った。白い粉がソースの赤に落ちていった。



 皿に盛った。



 窓際に持っていった。光が当たった。赤いソースと白いチーズが映っていた。前回と同じ構図だった。



 前回との違いは、テロップがないこと。カット数が少ないこと。工程の途中を端折っていること。



 それだけのはずだった。



 でも、さつきには、前回と何かが違うように見えた。何が違うのかはうまく言えなかった。ただ、皿の上の一皿が、前回より少しだけ近く見えた。



 食べた。うまかった。前回と同じ味だった。



    *



 編集は短かった。



 テロップを入れる工程がないから。



 映像を通しで見た。手ぶれは相変わらずだった。暗い場面もあった。でも、テロップがない分、音が聞こえた。パンチェッタが焼ける音。タマネギを炒めるヘラの音。白ワインの湯気。トマトが煮える泡の音。



 前回はテロップに目が行って、音が後ろに回っていた。今回は音が前に来ていた。



 煙の場面が来た。



 ソースを煮込んでいる途中で、少し火が強かった。フライパンの縁から、薄い煙が上がった。さつきが一瞬止まって、火を落とす。ヘラが鍋肌に当たる。ソースをかき混ぜる。焦げていない。大丈夫だった。



 前回は、この場面をカットした。



 今回は、カーソルを煙の場面に合わせて、止めた。



 三秒くらいの映像だった。煙が上がって、さつきの手が止まって、火を落として、混ぜ直す。それだけの映像。



 前回、これを消した。消した理由は、失敗だったから。完璧な動画に、失敗が映っているのは違うと思ったから。



 今回は——。



 さつきはマウスから手を離した。



 残す理由は、うまく言えなかった。ただ、消した時と、消さなかった時で、何かが違った。その「何か」に、さつきはまだ名前を知らなかった。



 煙の場面を、残した。



 前後をカットせず、そのまま繋いだ。三秒。煙が薄く上がって、消える。



 通しで見た。動画は前回より荒かった。テロップがない分、説明が足りない。工程がわかりにくい場面がある。煙の場面では、さつきが一瞬慌てている。



 でも、なんとなく、皿が近かった。



 アプリで書き出した。投稿した。サムネイルは前回と同じ構図にした。



 寝た。



    *



 翌朝、目が覚めて、スマホを開いた。



 再生数は4,891だった。



 前回は2,134だった。倍以上。数字だけ見れば伸びている。登録者も3,400から4,100に増えていた。



 コメント欄を開いた。



「なんか美味しそう」



 さつきはその一行を見た。



「料理系にしてはゆるくて好き」



 もう一件。



 それから少しスクロールした。「参考になりました」が一件。「チーズ多めが好みです」が一件。



 さつきはスマホを置いた。



 「なんか美味しそう」を、もう一度読んだ。



 その「なんか」が何なのか、さつきにはまだわからなかった。澪だったらわかるかもしれないと思った。でも、聞かなかった。



 前回は「勉強になりました」を三回読んだ。今回は「なんか美味しそう」を二回読んだ。でも、何かが変わった。



 さつきはベッドの上で膝を抱えた。窓の外は明るかった。冬の朝の光が、カーテンの隙間から細く入っていた。



 「なんか」がついている。



 「美味しそう」ではなく「なんか美味しそう」。その「なんか」は、たぶん、テロップがなかったから出た言葉だった。説明されなかったから、自分で想像して、その想像が「なんか」になった。



 澪が言っていた。美味しそう、は、自分で味を想像した時に出てくる言葉だと。



 さつきはスマホを開いて、澪にLINEを送ろうとした。



 やめた。



 何を送ればいいのかわからなかった。「伸びた」とか「コメント変わった」とか、そういう報告ではない気がした。



 代わりに、動画を開いた。自分の動画。テロップのない、荒い、煙が一瞬映っている、不完全な動画。



 再生した。音を出した。



 パンチェッタが焼ける音がした。タマネギを炒めるヘラの音がした。白ワインの湯気が立つ瞬間、小さなジュッという音がした。



 前回は聞こえなかった音だった。テロップで塞いでいた音だった。



 煙の場面が来た。三秒。薄い煙が上がって、さつきの手が止まって、火を落として、混ぜ直す。



 消さなかった。



 消さなかったことが、正しかったのかどうかはわからない。



 でも、「なんか美味しそう」と書いた人は、たぶん、この煙を見た。見て、何かを想像した。それが何かは、さつきにはわからなかった。



 さつきはスマホを閉じた。



 次の動画のことは、まだ考えなかった。


 でも、消さなかった三秒のことは、考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ