第25話 アマトリチャーナ
煙の場面をカットした。三秒で決めた。
これくらいは、みんなやってると思った。みんなやってるかどうかは、実際にはわからない。でも、そう思わないと投稿できない気がした。だから、そう思った。
自販機の前で澪が言ったのは、三日前だった。
「続けていく器じゃない」
さつきは何も言わなかった。正確には、何も言えなかった。澪の言葉はいつも構造として来る。感情じゃなくて診断として来る。反論の入口がない。
帰りのバスの中で、さつきはスマホを開いた。八事のバス停を過ぎて、隼人池のあたりで信号に引っかかった。バスが止まるたびに窓の外の街灯が揺れた。何かを送ろうとして、三回消した。四回目に送ったのはこれだった。「場所、借りられそうなとこ、一個だけ見つけた」
晃から既読がついた。返信はなかった。
澪からは何も来なかった。
それだけだった。でも、さつきは翌朝また調べた。翌々朝も調べた。見に行った。予約した。一人で全部やった。澪が何も返さなかったことと、自分が動き続けたことは、たぶん別の話だった。少なくともさつきの中では。
*
レンタルキッチンはいりなか駅から坂を下ったところにあった。地下鉄の出口を出て、杁中商店街のアーケードを抜けて、隼人池の手前で右に折れる。昭和区はどこへ行っても坂がある。上るか下るか、どちらかしかない。
キッチンのある建物は古い雑居ビルで、一階に花屋が入っていた。バケツに刺さったスプレーマムとカーネーションの束が歩道にはみ出していて、花の冷たい水のにおいが階段に漂っていた。階段のタイルは一段ごとに色が違った。白と灰色の交互。手すりの塗装がところどころ剥げていた。
二階に上がると、エプロン姿の中年の女性がカウンターにいた。カウンターの後ろに業務用の冷蔵庫が見えた。予約確認をしながら、さつきの顔を見た。
「お名前は?」
「春野さつきです」
女性がリストに目を落として、顔を上げた。
「北山大学自炊研究会さん!?」
「あ、はい」
「インスタ、フォローしてますよ〜!!」
「ほんとですか、ありがとうございます!!」
「文化祭の神V、私も食べましたよ! 並びましたもん」
「え、ほんとですか!? 嬉しい!!」
「YouTubeも始められるんですね〜!」
「そうなんですよ〜! 今日が初撮影で」
「いや〜、楽しみにしてます!」
「ありがとうございます、頑張ります!!」
気づいたら二人でカウンター越しに前のめりになっていた。使い方の説明が始まったのは、それから五分後だった。
キッチンに入った。白いタイル張りの壁、ステンレスの調理台、三口コンロ。窓が二面あって、片方は杁中商店街のアーケードの屋根が見える。もう片方は隣のマンションの壁だったが、午前中は光が差し込む角度だった。さつきが内見で確認済みの光だった。天井の蛍光灯は消した。窓からの自然光だけにした。その方が皿の色が出る。
iPhoneをラックに立てかけながら、さつきはまだ少し興奮していた。数字の向こうに、人がいた。並んでくれた人が、ここにいた。
グループにそのまま送った。
「数字の向こうに人がいた——って待って、オーナーさんが神V食べてくれてたんだけど。並んで。インスタもフォローしてくれてて。なんかこう——ほら!! 絶対やる意味あるじゃん!!」
晃から来た。
「いそうだとは思ってた」
澪からは既読だけついた。
*
フライパンにパンチェッタを入れる前に、さつきはiPhoneの位置を三回直した。
ラックに立てかけて、角度つけて、確認。コンロの手前しか映ってない。ずらす。今度は手が邪魔。引く。暗くなった。窓からの光がiPhoneの背面に当たって、レンズに逆光が入っていた。
「撮影環境むず!!! 光どうしたらいい」
晃から既読がついた。返信はなかった。
澪から来た。
「自分が動けばいい」
五文字だった。さつきはキッチンを見回した。確かにそうだった。iPhoneを固定して自分が光の方に動けばいい。窓を背にするんじゃなくて、窓に向かって立つ。調理台のステンレスが光を反射して、手元がちゃんと明るくなった。
iPhone固定、さつきが動く作戦にした。
パンチェッタを入れた。油はひかない。弱火。
じわ、という小さな音が鳴って、白かった脂がじわじわと溶け始める。パンチェッタの表面に細かい泡が立った。豚の脂の、甘くておだやかなにおいがしてきた。キッチンの空気が少し重くなる。
さつきはすかさずスマホを取った。
「パンチェッタいい感じ!!」
写真を撮って送った。脂がじんわり滲んでいる。ステンレスの台に乗ったフライパンの縁が、窓の光で白く光っていた。
晃から来た。
「おいしそう」
澪から来た。
「火、弱すぎない」
さつきはフライパンを見た。弱火だった。弱火でじっくり脂を引き出す工程だった。パンチェッタの脂は低温で時間をかけて溶かす。温度を上げると焼き目はつくが、脂の甘みが飛ぶ。そう習った。
でも澪が言うなら、少し上げた。
タマネギを入れた。ジュ、という音がして、パンチェッタの脂の上で薄切りのタマネギが透き通り始める。甘い匂いが一気に広がった。窓から入る光に、わずかに湯気が白く立ちのぼった。
「においが最高すぎる件」
澪から既読がついた。返信はなかった。でも見てた。それでいい。
白ワインを入れた。アルコールの鋭いにおいが立って、フライパンの中で一瞬泡立って、すぐ消えた。ホールトマトを手で潰して加えた。缶から出したトマトは冷たくて、手のひらの中で種ごと崩れた。冷たくて酸っぱいにおいが指につく。爪の間が赤くなった。
「トマト潰すやつ楽しい」
誰にも送らず下書きのまま消した。さすがにうるさいかと思って。
ソースが煮え始めた。トマトの水分が飛んで、表面にぽこぽこと小さな穴が開いては消える。空気が少し重くなる。換気扇が低く唸っている。においが壁のタイルに染み込むような、こもった熱さ。窓の外の商店街では、誰かが自転車を停める音がした。
iPhoneの画面を見ようとして、フライパンから少し離れた。
煙が出ていた。
フライパンの縁から、薄く、細く。ソースが煮詰まった端の方から、白い筋が一本。さつきはそれを見た瞬間、一秒くらい固まった。
「え、やば」
声が出た。誰もいないのに出た。キッチンに自分の声が反射して返ってきた。
火を落とした。ヘラを持ったけど、最初の二回は鍋肌をガリガリやっただけだった。ステンレスのヘラが鍋底に当たる嫌な音がした。三回目でやっとソースに当たった。底から剥がす。混ぜる。焦げた匂いは、しなかった。ギリギリだった。トマトの酸味の下に、ほんの少しだけ、香ばしいような苦いような気配があった。焦げではない。焦げの一歩手前。
さつきはしばらく、ヘラを持ったまま立っていた。恥ずかしかった。誰も見ていないのに恥ずかしかった。iPhoneは見ていた。換気扇の音だけが続いていた。手が、少し震えていた。
窓の外で、誰かが坂を上っていくのが見えた。紺色のコートの背中が、杁中の坂をゆっくりと上って、電柱の向こうに消えた。
気を取り直してスマホを取った。
「焦げかけた(無事)」
晃から即返信が来た。
「草」
澪からも来た。
「さっき火上げすぎた」
さつきは三秒固まった。
上げたの、澪に言われたからだった。
*
パスタを茹でた。鍋から白い湯気が上がる。ブカティーニが湯の中で少しずつ柔らかくなっていく。太い穴あきの麺が鍋の中でゆっくり回っている。茹で汁に塩の匂いはしない。塩は匂わない。でも、湯気の質が変わる。水だけの湯気と、塩を入れた後の湯気は、重さが違う。
ソースと和えた。トングでブカティーニを持ち上げて、フライパンの中に落とす。トマトの赤と脂の光沢が麺に絡んだ。茹で汁を少し足して、フライパンを揺すった。乳化する。ソースがとろりと麺にまとわりつく。
ペコリーノを削った。羊の乳の、鋭くてくさいにおいがした。鼻の奥に刺さるような、動物的なにおい。でもそれが良い。トマトの酸味とパンチェッタの脂の甘みの上に、このにおいが乗ると、味が一段階上がる。さつきはそれを知っていた。
皿に盛った。フォークとトングで麺を巻き上げて、皿の中央に高さを出す。ソースが皿の縁に少し垂れた。拭いた。もう一度ペコリーノを散らした。
iPhoneの画面を確認した。暗い。午後になって窓からの光の角度が変わっていた。皿を窓に近い方に移動した。今度は良かった。赤いソースと白いチーズが、ちゃんと映っていた。ステンレスの台の上で、皿だけが色を持っていた。
「できた!!!!」
写真を三枚撮って二枚送った。一枚は手がぶれてた。
晃から来た。
「うまそう」
澪から来た。
「盛り付け、前回より良くなってる」
さつきは止まった。「前回より」。澪が比較した。澪が前回を覚えていて、今回と比べた。それだけのことだった。それだけのことが、じわっと来た。
褒めてるのか指摘なのか、澪はいつもわからない。でも今回はわかった。澪は比較の結果だけを出す。良くなっているなら「良くなってる」と言う。良くなっていなければ、何も言わない。
撮った。食べた。
うまかった。パンチェッタの脂がトマトに溶け込んで、ペコリーノの塩気と羊臭さが最後に来る。ブカティーニの穴の中にもソースが入っていて、噛むとじゅわっと出てくる。重い。良い意味で重い。口の中に、さっきまでのにおいが全部戻ってくる感じがした。キッチンの窓から、杁中商店街の夕方の音が聞こえていた。シャッターを閉める音。自転車のブレーキ。
もう一皿食べた。
「二皿目食べてる」
晃から来た。
「それ報告する必要ある?」
「ある」
澪から来た。
「まあ、食べれば」
さつきは画面を見た。「食べれば」。澪が二皿目を許可した。たぶん。澪の「まあ」には許可以上の何かが入っていることがあるけど、今は考えない。二皿目はうまかった。一皿目より少しソースが馴染んでいて、ペコリーノの塩気が丸くなっていた。
*
夜に編集した。
さつきのアパートは大学からバスで三つ目、八事日赤の駅から坂を上ったところにあった。ワンルーム。ベッドとデスクと小さなキッチン。デスクの上にMacBookが一台。壁には百均で買ったワイヤーネットがあって、レシピのメモとレンタルキッチンの領収書がクリップで留めてあった。窓の外には八事の坂道が見えて、夜はマンションの灯りが斜面に並ぶ。昭和区の夜景は華やかではない。生活の明かりが坂の上から下まで、等間隔に続いているだけだった。
iPhoneをMacに繋いで、映像を読み込んだ。再生した。手ぶれがひどかった。iPhoneの画面を確認しに行くたびに映像が揺れる。暗い場面が多い。午後に光の角度が変わってからの映像は、全体的に青みがかっていた。落ち着きがなかった。
テキストを入れていった。工程ごとに、丁寧に。「弱火でじっくり脂を引き出します」「トマトの水分を飛ばしながら煮込みます」。正確な説明が並んでいった。フォントを選んで、サイズを揃えて、表示タイミングを調整した。テキストだけは、完璧にできた。
通しで見た。映像はぐらぐら揺れているのに、テキストだけが妙に整っていた。呼吸音が入っている場面があった。タマネギを切っている時の、少し荒い息。皿のカットだけ、なぜか安定していて、そこだけが別の動画みたいだった。テキストが丁寧であればあるほど、映像の雑さが際立つような気がした。
LINEを開いた。一分くらいの編集動画を書き出して、グループに送った。
「できてきた!! 見て!!」
既読が二つついた。すぐに晃から来た。
「いい気がする」
さつきは画面を見た。「いい気がする」。今は「いい気がする」じゃなくて「ちゃんといい」が欲しかった。「気がする」には肯定と不確定が同居していて、さつきが掴みたいのはどちらか片方だった。
澪から来たのは三分後だった。
「テキストと映像が喧嘩してる」
さつきは止まった。もう一度通しで見た。
喧嘩している。確かに喧嘩していた。映像がぐらぐら揺れているのに、テキストだけが落ち着き払っている。二つの声が、同じ画面の中でバラバラに主張している。テキストを丁寧にしたぶんだけ、映像の粗さが目立っていた。
テキストを削った。「弱火でじっくり」を消した。「トマトの水分を」も消した。映像だけにした区間を作った。揺れたままだった。でも、さっきより静かに見えた。映像が揺れている理由が、そのまま残っていた。さつきが動いているから揺れている。それだけのことが、テキストがない方がちゃんと見えた。
煙の場面が来た。さつきが固まって、声が漏れて、鍋肌をガリガリやって、やっとソースをかき混ぜる。その一連が全部映っていた。
残すか、カットするか。
さつきはそのままグループに送った。
「これ、どうする」
晃から即座に来た。
「残してもよかった気がするけど」
澪は少し遅れた。
「再生数と正しさは別でしょ」
さつきは二つの返信を交互に見た。晃は残す方に、澪はどちらともとれる言い方をしていた。「再生数と正しさは別」——それはカットしろということか、残せということか。澪が主語を省くと、判断の主体が消える。判断はさつきに戻される。
さつきはもう一度煙の場面を再生した。自分が固まっている。声が漏れている。鍋肌をガリガリやっている。
恥ずかしかった。見ていられなかった。Macの画面の中で、自分の手が震えているのが映っていた。
カットした。前後をつないだ。自然に繋がった。煙はなかったことになった。
書き出しが終わった。サムネイルを決めた。完成した皿の写真。赤いソースと白いペコリーノ。タイトルを入れた。「アマトリチャーナ」。説明文を書いた。タグを入れた。
投稿ボタンの手前で止まった。
「押していい?」
グループに送った。
晃から既読がついた。返信はなかった。
澪から来た。
「押せば」
さつきは笑った。「押せば」。二文字。それだけだった。でも澪がそう言うなら、押せる気がした。澪は「やめろ」と思ったら「やめろ」と言う。「押せば」は、止める理由がないという意味だった。
晃からも来た。
「大丈夫だと思う」
投稿した。
しばらく画面を見ていた。数字はまだゼロだった。再生数ゼロ、高評価ゼロ、コメントゼロ。ゼロが三つ並んでいた。
窓の外の坂道に、タクシーのテールランプが赤く揺れて消えた。
スマホを伏せた。寝た。
*
翌朝、数字を確認した。
再生数は2,134。前回より三百ちょっと少ない。登録者は3,400のまま。高評価率は悪くない。
伸びていないわけではない。でも、伸びているとも言えなかった。
さつきは差分を、もう一度見た。三百。前回より三百少ない。その数字がうまく着地しなかった。前回より良くなったと思っていた。構成も、光も、説明も。前回より、ちゃんとしていた。テキストは澪の指摘で削った。映像の揺れも、むしろ味になっていると思った。それなのに、三百少ない。
グループに送った。
「2134再生。前回より-300くらい」
晃から返ってきた。
「まあ、最初はこんなもんじゃない」
さつきは「まあ」を見た。「まあ」。慰めのつもりで言っているのはわかった。でも「まあ」と言われると、三百という数字が「まあ」の大きさに縮んだ気がした。三百は「まあ」じゃなかった。少なくともさつきにとっては。
澪から来たのは五分後だった。
「2000超えてる。絶対数でしょ、重要なのは。——まあ」
さつきは画面を見た。正しかった。澪の言っていることは正しかった。絶対数で見れば2,134は悪くない。論理としては完全に正しい。
でも、「——まあ」の後が来なかった。澪が何かを言いかけて止めた。その先に何があったのか、さつきには届かなかった。
コメントを開いた。
「勉強になりました」
「丁寧な説明でわかりやすかったです」
「勉強になりました」
「参考にします」
「勉強になりました」
全部読んだ。五つ。五つとも、正しい感想だった。
スマホを置いた。指が、少し冷たかった。十一月の朝、ワンルームの暖房はまだつけていなかった。窓際のデスクに座ったまま、足先が冷えていた。
「美味しそう」がなかった。「食べたい」もなかった。
晃の「まあ」も、澪の「絶対数」も、間違っていなかった。全部正しかった。でも、どれも今欲しいものではなかった。何が欲しいのかは、自分でもわからなかった。
「勉強になりました」は褒め言葉だ。正しく届いた。でも何かが届いていなかった。情報は届いた。正確さは届いた。でも自分は届いていない。それだけはわかった。
グループを閉じた。澪のトーク画面を開いた。何かを送ろうとして、何も送らなかった。何を聞けばいいのかわからなかった。「何が足りないの」と聞きたかった。でもそれは澪に聞くことじゃない気がした。澪なら答えられるかもしれない。でも、答えをもらうことと、自分でわかることは違う。
アプリを閉じた。
窓の外は曇っていた。八事の坂の向こうに、灰色の空が広がっている。昭和区の冬の空は低い。名古屋の冬は曇りが多くて、日照時間が少ない。それを知ったのは大学に入ってからだった。
文化祭の最終日のことを思い出した。知らない客が、食べながら振り返って「美味しい」と言った。あの人は目の前にいた。紙皿を両手で持って、口の端にカレーのソースがついていた。あの人の「美味しい」は、情報じゃなかった。あの人の体から出た言葉だった。今日は、数字しかいない。
それだけのことだった。それだけのことが、うまく処理できなかった。
次の動画のことを考えた。何を作ろうか。何を届けようか。
「届ける」という言葉が出てきて、さつきは少し止まった。文化祭の前は、そういう言葉を使わなかった。ただ作って、ただ食べてもらっていた。
構造を考えて、光を計算して、テキストを丁寧に入れて。それでも三百少ない。カットした煙のことが、一瞬だけ頭をよぎった。あの三秒を残していたら、何か変わっていただろうか。
何が足りないのか、わからなかった。でも、足りないことだけはわかった。
もう一度コメントを開いた。
「勉強になりました」
さつきはその八文字を、もう少しだけ見た。褒め言葉だ。そう思っている。そう思うことにしている。
スマホを伏せた。
しばらくして、また持った。澪のトーク画面だった。グループじゃなくて、澪だけに。
聞いていいことと、聞いてもわからないことがある。どっちかはわからなかった。
でも、かけた。




