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第37話 お姉さん、どこの店?

 オフ会の前日だった。


 午前四時。晃のスマホのアラームが鳴った。


 暗かった。カーテンの隙間から街灯の光が細く入っていた。隣の部屋のテレビの音はさすがに聞こえなかった。この時間に起きている人間は、このアパートには晃だけだった。


 顔を洗った。着替えた。パーカーとジーンズ。十一月の朝は冷える。マフラーを巻いた。


 四時二十分にアパートを出た。外は真っ暗だった。息が白かった。住宅街の街灯が等間隔で点いていて、その下だけが丸く明るかった。昭和区の朝四時は、昼間よりもさらに静かだった。車の音もない。犬の散歩をしている人もいない。自分の靴音だけが聞こえていた。


 はなれの前に着いた。引き戸の前にプロボックスが停まっていた。


 白い商用バン。トヨタのプロボックス。澪が二日間レンタルした車だった。荷室に発泡スチロールの箱が三つ積んであった。空の箱だ。帰りにはここに氷と魚が入る。


 エンジンがかかっていた。運転席に澪がいた。


 助手席のドアが開いた。さつきが顔を出した。


「おはよ。遅い」


「四時半って言ったじゃん」


「澪が四時に来てた」


「なんで」


「暖機」


「暖機って、車の?」


「エンジンとか、暖めるらしい。知らないけど」


 晃は後部座席に乗り込んだ。座席にブランケットが一枚置いてあった。さつきが持ってきたのだろう。車内はエンジンの暖機で少しだけ暖かかった。


「行くよ」


 澪が言った。サイドブレーキを下ろした。プロボックスが静かに動き出した。


 旧飯田街道を北に向かった。住宅街の中を走る。信号はほとんど赤にならなかった。この時間帯は車がいない。はなれの前を通り過ぎた。窓の向こうに、瓦屋根と白壁が一瞬だけ見えた。暗かった。


 山手通りに出た。キャンパスの前を通り過ぎた。「HOKUZAN UNIVERSITY」のサインボードが街灯に照らされていた。正門は閉まっていた。


 名古屋高速に乗った。


「敦賀まで何時間?」と晃が聞いた。


「二時間半くらい。北陸道で」


「着くの何時」


「七時前。市場は七時に開く」


「市場って、何て名前のところ」


「日本海さかな街のそばにある個人の鮮魚店。父親が昔から知ってるところ」


「澪のお父さんが」


「うん」


「伊勢から敦賀って、遠くない?」


「遠い。でも鮮度は産地に近い方がいい。伊勢の魚は伊勢で買う。北陸の魚は北陸で買う」


「それ、お父さんの教え?」


「教えっていうか、普通」


「普通って、鮮魚店の普通でしょ」


「まあ」


 さつきが助手席で体をひねって、晃の方を向いた。


「晃、寝ていいよ」


「寝ないよ」


「寝ていい。着いたら起こす。高速に乗ったら景色もないし」


「さつきは寝ないの」


「私は澪と話してるから。運転手が寝たら困るし」


「澪は大丈夫なの。四時から起きてるんでしょ」


「三時半」と澪が言った。


「三時半?」


「身支度と車の確認」


「何時に寝たの」


「十一時」


「四時間半じゃん」


「足りてる」


 さつきが一瞬だけ黙った。この「足りてる」を、さつきは前に聞いたことがある。朝五時のはなれで。あの時も澪は「足りてる」と言った。


「……澪」


「大丈夫。今日は運転だけだから」


「運転だけじゃないでしょ。帰ってからおろすんでしょ」


「おろすのは体力じゃない。集中力」


「集中力は睡眠で回復するものなんだけど」


「した。四時間半」


 さつきがため息をついた。小さなため息だった。晃にも聞こえた。


「寝な、晃」


「……うん」


 晃はブランケットを肩にかけて、窓にもたれた。目を閉じた。


 エンジンの振動が低く伝わってきた。プロボックスのエンジンは商用車のそれで、乗用車より少しだけ粗かった。でもそれが不思議と心地よかった。一定のリズムで振動して、体が揺れて、意識が薄くなっていった。


 うとうとしながら、前の座席の会話が断片的に聞こえていた。


「……高速降りたら左だよね」


「うん。敦賀インターで降りて、八号線を——」


「八号線って海沿い?」


「少し内陸。海が見えるのはもうちょっと先」


「澪、道覚えてるの?」


「ナビ入れてる。でもだいたいわかる」


「前にも来たことあるの」


「子供の頃に。父親の仕入れについて行った」


「お父さんと二人で?」


「うん。トラックで」


「プロボックスじゃなくて?」


「あの頃はトラック。一トン半のやつ。助手席に座って、ずっと外見てた」


「何歳くらい?」


「小学校の低学年。夏休みとか」


「それ、すごくいい思い出じゃない?」


「思い出っていうか——普通だった。父親の仕事だから」


「普通かなあ。小学生が早朝に起きてトラックで北陸まで行くの、普通じゃないと思うけど」


「うちでは普通だった」


 さつきが少しだけ笑った。晃は半分寝ていたが、その笑い声は聞こえた。


 車は北陸自動車道に入っていた。名神を経由して、米原ジャンクションから北陸道へ。窓の外は暗かった。たまにトンネルの光が通り過ぎた。トンネルを抜けるたびに、外の暗さが変わっていた。少しずつ明るくなっていた。


 晃は眠った。





 目が覚めたのは、車が止まった振動だった。


 目を開けた。窓の外が明るかった。空が白かった。雲が低く垂れ込めていた。名古屋の空とは違う色だった。日本海側の、冬が近い空の色だった。


「着いた?」


「着いた」


 さつきが振り返った。「おはよ。六時四十五分」


 晃は車を降りた。


 冷たかった。名古屋より確実に三度は低い。風があった。湿った風だった。海が近い匂いがした。潮の匂いではなく、もっと生臭い——魚の匂いだった。港が近いのだ。


 駐車場の向こうに、低い建物が並んでいた。鮮魚店が何軒か入った小さな市場だった。シャッターが半分開いているところと、もう全開になっているところがあった。軽トラックが二台停まっていた。発泡スチロールの箱を台車に載せて運んでいる人がいた。


 澪が先に歩き始めた。迷わなかった。


「どこ?」とさつきが聞いた。


「二軒目」


 二軒目の鮮魚店は、シャッターが全開になっていた。店の前に発泡スチロールの箱が積んであった。氷の上に魚が並んでいた。鯛、平目、甘鯛、蟹——そして、大きな魚が三本、別の箱に入っていた。


 ぶりだった。


 晃は魚に詳しくない。でも、大きいことはわかった。腕を広げたくらいの長さがあった。銀色の体に、薄い黄色の線が走っていた。目が澄んでいた。


 澪が箱の前にしゃがんだ。


 三本のぶりを順番に見ていた。目を見た。エラを持ち上げた。エラの内側の色を確認した。赤黒い色と、鮮やかな赤の違いがあった。体側を指で押した。弾力を確認していた。腹のあたりの脂の乗りを見ていた。


 店のおっちゃんが奥から出てきた。六十代くらい。前掛けをしていた。ゴム長靴を履いていた。手が大きかった。


 澪を見た。エラを確認している手つきを見た。


「お姉さん、どこの店?」


 澪が顔を上げた。


「大学生です」


 おっちゃんの表情が変わった。驚いたのか、面白がっているのか、晃にはわからなかった。少なくとも、信じていない顔ではなかった。


「大学生が朝七時前に敦賀まで来て、ぶりのエラ見てるの」


「はい」


「どこで覚えたの、それ」


「父親が鮮魚店やってます。伊勢で」


「伊勢か。どこの」


 澪が店名を言った。おっちゃんが「ああ」と言った。知っているようだった。


「志摩さんとこの娘さんか」


「はい」


「お父さん元気?」


「元気です」


「そうか。いい目利きするわ、あの人は」


 澪は何も答えなかった。三本のぶりのうち、真ん中の一本を見ていた。


「これ」


「それか。一番脂乗ってるやつだな」


「エラの色がいい。目も澄んでる。身の張りも一番ある」


「さすがだね。うちのも同じの選ぶわ」


 さつきが晃の腕を掴んだ。小さな声で言った。


「ねえ、澪がすごいことになってるんだけど」


「うん」


「おっちゃんと対等に話してるんだけど」


「うん」


「大学生だよ?」


「知ってる」


 澪が値段を聞いた。おっちゃんが答えた。澪が頷いた。財布を出した。


「氷、多めにもらっていいですか」


「いいよ。発泡スチロールは?」


「車にあります」


「取ってきな。俺が詰めてやるから」


 晃がプロボックスの荷室から発泡スチロールを持ってきた。おっちゃんが手際よく氷を詰めた。ぶりを新聞紙で包んで、氷の上に寝かせた。蓋を閉めた。


「何に使うの」


「オフ会です。YouTubeの」


「YouTube?」


「はい。料理チャンネルやってて、ファンの人に食べてもらいます」


「ぶりを」


「はい。刺身と、しゃぶしゃぶと、ぶり大根」


 おっちゃんが澪を見た。


「お姉さんがおろすの」


「はい」


「一人で」


「はい」


 おっちゃんが笑った。


「お父さんに似てるわ」


 澪は何も答えなかった。でも、発泡スチロールの蓋を閉める手が、一瞬だけ止まった。


 さつきがそれを見ていた。晃も見ていた。澪は気づいていなかった。





 発泡スチロールをプロボックスの荷室に積んだ。氷が重かった。晃とさつきで持ち上げて、荷室の奥に押し込んだ。澪が荷室の中で箱の位置を調整した。動かないように、毛布で固定した。


「帰る?」とさつきが聞いた。


「帰る」


「ちょっと待って。あそこ、見ていい?」


 さつきが指さしたのは、市場の隣にある土産物屋だった。まだシャッターが半開きだったが、中に明かりがついていた。


「五分」


「五分でいい」


 さつきが走っていった。澪は運転席に座ってエンジンをかけた。晃は助手席に座った。


「助手席でいいの」とさつきの背中に向かって言ったが、もう聞こえていなかった。


 澪がハンドルの上で指を組んでいた。じっとしていた。


「疲れた?」


「別に」


「おっちゃん、澪のお父さんのこと知ってたね」


「業界は狭いから」


「澪のお父さんって、有名なの?」


「有名じゃない。普通の鮮魚店。でも仕入れ先は覚える。商売だから」


「お父さんに似てるって言われてたけど」


 澪が窓の外を見た。駐車場の向こうに、低い空が広がっていた。日本海側の冬の空。名古屋とは違う灰色だった。


「父親は、朝三時に起きて市場に行く。毎日。休みの日も。休みの日は行かなくていいのに行く。母親が怒ってた」


「澪も朝早いもんね」


「似てるのかもしれない」


 澪がそれだけ言って、ハンドルを握り直した。エンジンの音が低く響いていた。


 さつきが袋を抱えて走ってきた。


「何買ったの」


「北陸の塩。あと、昆布。ここの昆布、安い」


「昆布はセンターで買うって言ってたじゃん」


「これはお土産。自分用」


 さつきが後部座席に乗り込んだ。袋をガサガサさせていた。


「はい、晃にもお土産」


 小さな袋が飛んできた。中身は塩飴だった。


「ありがとう。……塩飴?」


「敦賀の塩で作った飴。美味しいらしいよ」


 澪がバックミラーを確認して、プロボックスを発進させた。


 帰り道。北陸道を南に向かう。行きよりも空が明るかった。雲は低かったが、切れ間から光が差していた。田んぼが広がっていた。稲刈りが終わった後の、短い切り株だけが残った田んぼ。冬が近い景色だった。


 さつきは後部座席で北陸土産の袋を膝に抱えていた。塩と昆布と、あと何か小さなものをいくつか買っていた。「晃、羽二重餅食べる?」「食べる」「澪は?」「運転中」「着いたら食べて」「いい」「食べなよ。美味しいよ」「……後で」


 晃は助手席で窓の外を見ていた。高速道路の防音壁の向こうに、山が見えた。紅葉はもう終わりかけていた。茶色と灰色が混じった山肌。それでもところどころに赤が残っていた。


「さつき」


「何」


「あのぶり、何キロくらいあった?」


「知らない。重かった」


「七キロくらい」と澪が言った。「たぶん」


「七キロを一人でおろすの」


「おろすのに重さは関係ない。長さが関係する。七キロだと七十センチくらい。柳刃の長さがあれば一引きでいける」


「一引きって」


「刺身を引く時に、一回で刃を通すこと。途中で止めると断面が崩れる。だから魚の長さに対して、包丁の刃渡りが足りてないといけない」


「澪の柳刃、何センチ」


「三十。刺身用には足りる。おろすのは出刃。出刃は二十一センチ」


「足りるの」


「足りる」


 晃は窓の外を見た。防音壁が途切れて、一瞬だけ遠くの景色が見えた。平野が広がっていた。どこかの町の屋根が小さく見えた。


 荷室の発泡スチロールの中に、七キロの天然ぶりが氷の上で眠っている。あと二時間で名古屋に着く。はなれに着く。あのカウンターの上に置かれる。澪がおろす。


 晃は荷室の方を振り返った。発泡スチロールの白い箱が、毛布に固定されて静かに揺れていた。





 午前十時半。はなれに着いた。


 晃とさつきで発泡スチロールを荷室から降ろした。重かった。氷と魚の重さだった。引き戸を開けて、中に運び入れた。


 カウンターの上に発泡スチロールを置いた。


 澪が蓋を開けた。


 氷の中に、天然ぶりが横たわっていた。新聞紙を剥がした。銀色の体が現れた。黄色い線が一本、体側を走っていた。目は澄んだままだった。エラの下に、溶けた氷の水が少しだけ溜まっていた。


 七キロ。七十センチくらい。カウンターの上に横たえると、カウンターの幅のちょうど半分くらいだった。澪が内見の日に測った奥行き。あの時計った寸法が、今この魚を受け止めている。


 さつきが写真を撮ろうとした。スマホを出しかけた。


「……やめとく」


 スマホをポケットに戻した。


 晃は不思議に思わなかった。さつき自身も、なぜやめたのか考えなかったのだろう。ただ、今この瞬間に画面を挟む気にならなかった。


 澪がシンクで手を洗った。エプロンをつけた。白いエプロン。出刃包丁をケースから出した。布から刃を出して、光にかざした。刃先を確認した。


 まな板をカウンターの端に据えた。濡れた布巾でまな板を固定した。ぶりをまな板の上に移した。両手で持ち上げた。重い。でも澪の手は震えなかった。まな板の上に、どすん、と音がして魚が横たわった。


 澪が出刃を握った。


 空気が変わった。


 さっきまでの澪と違う澪がいた。運転席でハンドルを握っていた澪とも、おっちゃんと値段を交渉していた澪とも違う。目の焦点が変わっていた。魚だけを見ていた。


「頭、落とすよ」


 澪がそう言った。さつきと晃に向かって。でも目は魚を見ていた。


 出刃がぶりの頭の後ろに入った。


 硬い音がした。骨に刃が当たる音。澪が刃の角度を少し変えた。力の入れ方を調整した。ゴキ、と骨が切れた。頭が落ちた。断面から血が滲んだ。


「血抜き。シンクで」


 晃が頭を受け取った。重かった。頭だけでも一キロ以上はある感じだった。シンクに持っていった。水を流した。血が薄い赤になって、排水口に消えていった。


 澪は止まらなかった。


 腹を開いた。内臓を取り出した。手際よく、迷いなく。内臓を新聞紙の上に置いた。肝を別にした。「肝は使える」とだけ言った。


 三枚におろし始めた。背骨に沿って出刃を入れた。


「ここの血合い、見える?」


 さつきに向かって言った。


「この線で入れると身が崩れない」


「見える。すごい、骨に沿ってる」


「骨から離しすぎると身が残る。寄りすぎると骨を削る。ちょうどの角度がある」


「ちょうどって、何度くらい?」


「角度じゃない。感覚。骨の硬さが刃に伝わるから、それで調整する」


 澪の声が変わっていた。普段の澪は最小限の言葉で完結させる。主語を省く。断言する。沈黙を使う。でも今の澪は喋っていた。技術的な説明が止まらなかった。包丁を動かしながら、手と同じ速度で言葉が出ていた。


「腹側、見て」


 さつきがカウンターの向こう側に回り込んだ。澪の手元を覗き込んだ。


「この脂の入り方。養殖だとここが均一になるけど、天然は部位で違う。腹側が一番脂がある。ここからサクを取る。しゃぶしゃぶ用は薄めに引く。刺身用は腹と背で厚みを変える」


「厚みを変えるって、試作の時にも言ってたよね」


「言った。今やる」


 三枚おろしが終わった。中骨を外した。背側と腹側に分けた。皮を引いた。柳刃に持ち替えた。皮と身の間に刃を入れて、手前に引いた。皮が剥がれた。身が現れた。


 ピンク色だった。脂が白い筋になって入っていた。養殖とは違う。均一ではない。部位によって脂の入り方が違う。天然の証拠だった。


「……きれい」とさつきが言った。


「腹側、触ってみて」


 さつきが指先で身に触れた。


「柔らかい」


「脂があるから。背側も触って」


 背側に指を移した。


「こっちは硬い」


「身が締まってる。背側は筋肉が多い。だから歯応えがある」


「これを、腹は薄く、背は厚くするんだ」


「そう。口の中で脂の溶け方が揃うように」


 さつきが目を見開いていた。澪は手を止めなかった。サクに切り分けていた。腹側と背側で柵の大きさを変えていた。手が動くたびに、説明が出てきた。仲間に見せたいから。見せて、触らせて、共有したいから。


 晃はカウンターの向こう側に立っていた。いつもの立ち位置。さつきと澪の間。


 澪の手を見ていた。出刃から柳刃に持ち替えた手。三枚におろして、皮を引いて、サクに分けた手。その手が七キロの魚を、食べられる形に変えていく。朝四時に敦賀に向かって車を走らせた手と、同じ手だった。


 晃は動いた。


 キッチンの端に行った。冷蔵庫を開けた。昨日バローで買っておいた大根を取り出した。大きな大根だった。ぶり大根用に、澪が「太くて重いやつ」と指定していた。


 まな板を出した。澪が使っているカウンターの端ではなく、キッチンの調理台の上に。包丁を取った。大根を輪切りにした。三センチ幅。面取りをした。角を薄く削った。煮崩れを防ぐため。


 米のとぎ汁を鍋に入れた。輪切りにした大根を入れた。火をつけた。


 誰にも言わなかった。


 さつきと澪はカウンターでぶりのサクに集中していた。二人の会話が続いていた。脂の入り方、柵の取り方、しゃぶしゃぶ用の厚み。晃はその会話の外にいた。でも外にいることが、この場から離れていることを意味していなかった。


 大根の下茹で。ぶり大根に必要な工程。澪の仕入れノートには「ぶり大根 前々日仕込み」と書いてあった。前々日は昨日だ。昨日は試作で使い切った。今日やるしかない。


 でも澪は今、ぶりをおろしている。大根の下茹でまで手が回らない。さつきはカウンターで澪の手元を見ている。


 だから晃がやった。


 誰にも言わずに。考える前に手が動いていた。大根を取り出して、切って、面取りして、鍋に入れた。必要だから。必要なことが目の前にあって、それをやれる人間が自分だったから。


 なんとなく、ではなかった。


 鍋の中で大根がとぎ汁の中に沈んでいた。火にかけて、ゆっくり温度が上がっていく。大根の下茹でには二十分かかる。竹串が通るまで。


 コンロの前に立って、鍋を見ていた。


 澪の声が聞こえていた。


「ここから柵取る。しゃぶしゃぶ用は薄めに。三ミリくらい。透けるくらい」


「透けるくらい? そんなに薄いの?」


「薄い方が出汁にくぐらせた時に火が通りやすい。厚いと中まで火が通らないうちに引き上げることになる」


「澪って、包丁持つと喋るよね」


「……そう?」


「そう。普段の三倍は喋ってる」


 澪は答えなかった。でも手は止まらなかった。柳刃がサクの上を滑っていた。薄く、均一に、しゃぶしゃぶ用の切り身を引いていた。


「晃」


 さつきの声だった。振り返った。


「大根茹でてるの?」


「うん」


「いつから」


「さっきから」


「……言ってよ」


「言う必要あった?」


 さつきが少しだけ止まった。それから笑った。


「ないか。ありがとう」


「ぶり大根の下茹でだよね」と晃が言った。


「うん。面取りもした?」


「した」


「米のとぎ汁?」


「入れた」


「完璧じゃん」


「普通だよ」


「普通じゃないよ。誰にも言わずに勝手にやるの、晃っぽいけど」


 澪がカウンターから顔を上げた。晃の方を見た。鍋を見た。大根の下茹で。米のとぎ汁。面取り済み。


「……ありがとう」


 澪がそう言った。短く。小さく。でも聞こえた。


 晃は頷いただけだった。


 鍋に戻った。大根がとぎ汁の中で少しだけ踊り始めていた。温度が上がっている。あと十五分くらい。竹串が通るまで。


 その十五分の間に、澪はしゃぶしゃぶ用の切り身を引き終えた。刺身用のサクをラップで包んで冷蔵庫に入れた。ぶりのアラを別にした。カマは焼き用。中骨はあら汁用。頭は半分に割った。


「あら汁、作る?」とさつきが聞いた。


「余裕があれば。なければカマ焼きだけでいい」


「カマ焼き、メニューに入ってなかったよね」


「入ってない。余った部位で作る。居酒屋ってそういうもの」


「居酒屋形式がどんどん本物になっていくんだけど」


 澪は答えなかった。アラに塩を振っていた。


 竹串を刺した。大根に通った。抵抗なく。下茹で完了。


 晃が鍋を火から下ろした。大根をざるに上げた。とぎ汁を捨てた。大根を水で洗った。ぬめりが落ちた。透き通った色になった。


「これ、このまま煮る?」


「まだ。ぶりのアラと一緒に煮る。今日は下茹でだけでいい」


「じゃあ冷ます」


「うん。冷めたら冷蔵庫に入れて」


 晃は下茹でした大根をバットに並べた。ラップをかけた。冷めるのを待つ。


 ふと気づいた。


 この会話の中に「なんとなく」が一度も出てこなかった。大根を取り出した時も、面取りをした時も、とぎ汁を入れた時も、「なんとなく」とは思わなかった。必要だったからやった。それだけだった。


 でも、それに気づいたこと自体を、晃は言葉にしなかった。気づいただけだった。





 ぶりの処理が全て終わった。


 カウンターの上に並んでいた。しゃぶしゃぶ用の薄切り。刺身用のサク(冷蔵庫の中)。カマ。アラ。中骨。頭の半割り。下茹で済みの大根。全部が、明日の二十五人のために準備された部位だった。


 一本の魚が、これだけの数に分かれる。七キロが、二十五人分の料理に変わる。


 澪が柳刃を拭いていた。布で刃先を包んで、ケースに戻した。出刃も同じように拭いて、しまった。まな板を洗った。シンクを洗った。カウンターを拭いた。


 丁寧に。一つずつ。


 三人がカウンターの前に立っていた。並んでいた。


 窓から午後の光が差していた。斜めの光。いつもの角度。でもいつもより少しだけ暖かい色をしていた。十一月の午後の光は、低い角度で入ってくるから、カウンターの木目をより深く照らした。


 さつきがカウンターの上を見ていた。並べられたアラとカマと、サクのラップの端と、大根のバット。全部が一本のぶりから出てきたものだった。


「すごいね」


 さつきが言った。


「何が」


「一本だったのが、こんなに分かれるんだなって」


 澪は何も言わなかった。


 晃も何も言わなかった。


 しばらく、三人が立っていた。カウンターの前に。それぞれの手が、それぞれの仕事をした後の手が、カウンターの縁に触れていた。澪の手は包丁を握っていた手。さつきの手は澪の手元を見ていた手。晃の手は大根を切った手。


 窓の外で、鳥が鳴いた。


 住宅街の、午後の音だった。


 静かだった。


 誰もスマホを出さなかった。出す人間がいなかった。出す理由がなかった。登録者数の確認も、コメントのチェックも、通知の確認も、この時間には入り込めなかった。カウンターの上には魚と大根と包丁の跡と、三人の手だけがあった。


「明日だね」


 さつきが言った。


「うん」


 晃が答えた。


 澪は小さく頷いただけだった。


 蛍光灯を消した。ちかちかと二回瞬いてから消えた。窓からの午後の光だけが残った。カウンターの木目が、その光をうっすらと反射していた。


 三人がはなれを出た。


 鍵をかけた。晃がかけた。鍵を回す音が、夜ではない午後の空気の中で、少しだけ違って聞こえた。


 プロボックスはまだはなれの前に停まっていた。明日も使う。


 さつきが伸びをした。大きく。腕を上げて、背中を反らせて。


「疲れた」


「うん」


「いい疲れだけど」


「いい疲れって何」


「なんか——全部やりきった感じ。まだ明日あるのに」


 澪が運転席に座った。エンジンをかけた。


「乗って。帰りにバロー寄る。明日の朝の分、買い足す」


「澪、まだ買い物するの」


「足りないものがある」


「何が」


「生姜。ぶり大根の生姜が足りない」


 さつきが笑った。晃も笑った。澪は笑わなかったが、バックミラーを確認して、プロボックスを発進させた。


 旧飯田街道を走った。いつもの道。でもいつもは歩く道を、今日は車で走っていた。プロボックスの車窓から見る住宅街は、歩く時とは少しだけ速度が違った。柿の木が一瞬で通り過ぎた。コスモスが流れていった。


 バローの駐車場にプロボックスを停めた。商用車が停まっている場所に、大学生三人が降りてきた。買い物袋を持って店に入っていった。


 生姜と、ついでに卵と、ついでに牛乳と、ついでにさつきがカフェオレの缶を三本買った。


 レジで並んだ。前に主婦が二人いた。普通の土曜の午後だった。


 普通の土曜の午後に、七キロの天然ぶりをおろした後の三人が、バローで生姜を買っている。


 レジを通って、駐車場に出た。プロボックスの荷室はまだ空の発泡スチロールが残っていた。氷は溶けていた。中に水が溜まっていた。


「これ、捨てないと」


「明日の朝やる。今日はもういい」


 三人が車に乗った。澪がはなれの前まで戻った。さつきを降ろした。さつきはいりなか駅まで歩く。


「おつかれ」


「おつかれ。明日、何時集合?」


「七時。澪が市場に行く日だから」


「私たちも七時?」


「九時でいい。仕込みの準備だけしといて」


「了解」


 さつきが歩いていった。手を振った。北陸土産の袋と、バローの袋を両手に持って。


 澪がプロボックスを走らせた。晃のアパートの前で止まった。


「ここでいい?」


「いい。ありがとう」


「明日、九時」


「九時」


 晃が車を降りた。ドアを閉めた。


 プロボックスが走っていった。赤いテールランプが住宅街の角を曲がって消えた。


 晃はアパートの前に立っていた。


 手を見た。大根を切った手。面取りをした手。竹串を刺した手。


 今日、一度もスマホを見なかった。


 車の中でも。はなれでも。バローでも。今この瞬間まで。一度も画面を開かなかった。通知を確認しなかった。登録者数を見なかった。


 八万人。


 その数字が、今日は一度も晃の視界に入らなかった。


 代わりに入ったもの。七キロの天然ぶり。澪の出刃。三枚おろしの音。脂の入り方。大根の面取り。竹串の感触。さつきの北陸土産。おっちゃんの「お姉さん、どこの店?」。プロボックスのエンジン音。バローの生姜。


 全部が手の中にあった。画面の中ではなく。


 晃はアパートの階段を上った。部屋の鍵を開けた。電気をつけた。低い天井。白い壁。隣の部屋のテレビの音が微かに聞こえた。


 テーブルの上にスマホを置いた。


 画面を見た。通知が来ていた。いくつか。数えなかった。


 画面を消した。


 明日、二十五人が来る。


 冷蔵庫の中に、ぶりのサクと、下茹でした大根がある。はなれのカウンターの上には、カマとアラが塩を振られて寝ている。


 晃はテーブルの上のスマホの横に座った。


 手のひらを見た。大根を切った感触がまだ残っていた。


 明日。

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