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第36話 やりたかった

 オフ会まで五日だった。


 はなれに集まったのは十七時。撮影日ではなかった。今日は試作をする日だった。さつきが「オフ会メニュー試作会」と呼んでいた。動画にもする。


 さつきがカメラをセットした。三脚はようやく届いていた。アマゾンで三千円の、三段伸縮のやつ。料理の本を積む必要はもうなかった。


 画角の中に、ホワイトボードが入るようにした。二枚になったホワイトボード。一枚目にはメニュー。三列に分かれた品目リスト。晃のところには唐揚げ、もつ鍋、豚キムチ、白飯、味噌汁。さつきのところにはアヒージョ、カルパッチョ、シーザーサラダ、ペペロンチーノ、アマトリチャーナ。澪のところにはおまかせ刺身盛り、天然ぶりしゃぶしゃぶ、ぶり大根、鰯の梅しそフライ、ほっけ塩焼き。二枚目にはタイムラインと仕入れ先と、右上に「22:00」。


「これ映っていいの」とさつきが聞いた。


「いいでしょ」と晃が言った。「隠す意味ない」


「ホワイトボード汚くない? ペンの跡とか消した跡とかある」


「汚いのがいいんじゃん。計画してる感じが出る」


「……わかった。そのまま撮る」


 澪がキッチンに入った。エプロンをつけた。白いエプロン。普段は使わない。


「なんでエプロン」と晃が聞いた。


「油が跳ねる」


「いつも跳ねてるじゃん」


「いつもは自分の服。今日はさつきのアヒージョの油が跳ねる。オリーブオイルは落ちにくい」


「澪って、そういうとこだけ妙に気を遣うよね」


 澪は答えなかった。シンクの水を出した。





 今日の試作メニュー。全品は無理だから、核になるものだけ。


 さつきはアヒージョとカルパッチョ。晃は唐揚げともつ鍋のスープ。澪はカウンターで刺身を引く。本番は天然ものを使うが、試作はバローの鯛のサクで。


 三人が同時に動き始めた。


 十二坪の空間に、三つの料理が同時に走る。さつきのコンロの右口でスキレットが温まっている。晃のコンロの左口でもつ鍋のスープが煮え始めている。澪はカウンターの端で、まな板を据えて鯛のサクを出した。


「晃、火つけていい?」とさつきが聞いた。


「右はさつきの。左は俺の。同時にいける」


「油の温度、先に上げていい?」


「いいよ。俺のはまだ沸かないから」


 さつきがスキレットにオリーブオイルを注いだ。にんにくを一片、包丁の腹で潰して入れた。弱火。にんにくの香りが立ち始めるまで待つ。


「にんにく、もう一片入れたい」


「入れれば」


「でも本番は二十五人分だから、一片で味を見ておきたい」


「さつき、試作なんだから自由にやればいいじゃん」


「試作だからこそ本番の条件で試すんでしょ。二十五人前をスキレットで回すのと、四人前をスキレットで回すのは違う」


「四人前? 三人じゃなくて?」


「カメラの分」


「カメラは食べないけど」


「カメラの前で盛り付ける分。見栄えの確認」


 さつきは本気だった。試作のアヒージョの一皿に、本番の二十五人分の条件を落とし込もうとしていた。にんにくの量。オイルの量。海老の大きさ。火入れの時間。全部を試作の中で確かめて、本番に持っていく。


 晃はもつ鍋のスープを仕込んでいた。鍋に水を張った。昆布を入れた。コンロの左口に置いた。火はまだつけない。水出しの時間を取る。


「晃、そのスープ何ベース?」


「鶏ガラ。あと昆布と干し椎茸の戻し汁」


「干し椎茸の戻し汁、いつ取ったの」


「昨日の夜。水につけて冷蔵庫に入れといた」


 晃がバッグから保存容器を出した。蓋を開けると、薄い琥珀色の液体が入っていた。干し椎茸の戻し汁。匂いを嗅いだ。いい匂いだった。


「鶏ガラは」


「バローで買ってきた。下茹でする」


 晃が鶏ガラをシンクで洗った。血合いを流した。別の鍋で沸騰させた湯に入れて、三十秒。引き上げて、もう一度水で洗った。アクが浮いていた。それをきれいに流して、スープ用の鍋に入れた。


「丁寧だね」とさつきが言った。


「いつもやってる」


「いつもこんなに丁寧にやってるの?」


「やってる。鶏ガラの下処理雑にすると臭みが出るから」


「晃って、こういうところだけ妙に丁寧だよね」


「こういうところだけって何」


「普段はなんとなくなのに、下処理だけちゃんとしてるってこと」


「下処理はなんとなくじゃできないから」


 さつきが「ほら」と言った。「なんとなくじゃできないこと、ちゃんとわかってるじゃん」


 晃は答えなかった。鶏ガラの鍋に火をつけた。弱火。ゆっくり温度を上げる。


 澪はカウンターの端で、鯛のサクに向かっていた。


 まな板の上にサクを置いた。指先で表面に触れた。身の弾力を確かめている。バローの養殖鯛。本番は天然ものを使う。天然と養殖では脂の入り方が違う。身の繊維が違う。包丁の入れ方を変えなければならない。でもまず、この養殖の鯛で刃の角度を確かめる。


 柳刃包丁を持った。


 澪の柳刃は、自分で研いでいた。研ぎ石は二種類持っていた。中砥と仕上げ砥。研ぐのは撮影のない日の朝にやる。はなれのシンクの端に研ぎ石を置いて、水をかけながら研ぐ。その音が好きだった——とは澪は言わない。ただ、研ぐ日は少しだけ早く来る。


 柳刃をサクにあてた。手前に引いた。一引き。身が切れた。断面が滑らかだった。


 もう一切れ。もう一切れ。等間隔で、同じ厚みで、同じ速度で切っていく。澪の手が動いている間、他の音が少しだけ遠くなった。さつきのスキレットの油の音。晃の鍋が煮え始める音。換気扇の音。全部が、澪の包丁の音の後ろに回った。


 刺身を皿に並べた。扇形に。重なりが均一になるように。バローの鯛でも、並べ方で見え方が変わる。


「できた」


 澪が皿をカウンターの上に置いた。


 さつきが手を止めた。晃がコンロから離れた。


 皿の上に、鯛の刺身が並んでいた。薄造り。透き通るような白さ。断面の繊維が光を受けて、少しだけ光っていた。


「……きれい」とさつきが言った。


「バローの鯛で」と澪が言った。


「バローの鯛でこれなの」


「本番は天然。もっと脂が入る。もっと綺麗になる」


「もっと綺麗って、これ以上?」


 澪は答えなかった。柳刃を拭いていた。



 


 さつきのアヒージョが出来上がった。


 スキレットの中で、海老が赤くなっていた。オリーブオイルにニンニクの香りが移って、小さな泡が静かに立っていた。マッシュルームが油を吸って、少し色が変わっていた。鷹の爪の赤が、オイルの中でゆっくり沈んでいた。


「味見」


 さつきが小皿に取り分けた。海老を一尾と、マッシュルームを一個と、オイルを少し。澪の前に置いた。


 澪が箸で海老を取った。口に入れた。


 噛んだ。


 一瞬だけ、箸が止まった。


「……うまいな」


 さつきが目を見開いた。晃もスープの鍋から顔を上げた。


「え、澪がそれ言う?」


「何」


「澪が『うまいな』って。初めて聞いたかもしれない」


「言ったことあるでしょ」


「ないよ。澪って普段『悪くない』か『問題ない』しか言わないじゃん」


「……そう?」


「そう。晃もそう思うでしょ」


「思う」と晃が言った。


 澪は何も答えなかった。もう次の品に箸を伸ばしていた。カルパッチョの皿。鯛の薄造りにオリーブオイルとレモンとピンクペッパー。口に入れた。


「オイル、もう少し控えた方がいい。鯛が負ける」


「え、さっきの『うまいな』は?」


「海老の話。これは鯛の話」


「切り替え早くない?」


「別の料理なんだから、別の評価でしょ」


 さつきが「なんなの」と言いながら笑った。でもメモは取っていた。ノートパソコンの画面に「カルパッチョ:オイル減」と打っていた。さつきは笑いながらも、指摘を受け取る人間だった。




 

 晃がもつ鍋のスープを味見させた。


 小さな器に注いだ。琥珀色の透き通った液体。湯気が立っていた。鶏ガラと昆布と干し椎茸の戻し汁。弱火で二時間近く煮出していた。アクは丁寧に取った。


 さつきと澪の前に置いた。


 さつきが一口飲んだ。


「……待って」


「何」


「何で取ったの、これ」


「なんとなく、冷蔵庫にあったもので」


「『なんとなく』でこの味出る?」


「出たから出したんだけど」


「いや、そうなんだけど——これ、鶏ガラ?」


「鶏ガラと昆布。あと干し椎茸の戻し汁をちょっと」


「干し椎茸の戻し汁」


 さつきがスープをもう一口飲んだ。目を閉じた。舌の上で転がしている感じだった。


「グルタミン酸とイノシン酸とグアニル酸。全部入ってる」


「何の話?」


「うま味の話。昆布はグルタミン酸。鶏ガラはイノシン酸。干し椎茸はグアニル酸。三種類のうま味を全部入れてる」


「知らない。美味しかったから入れた」


「知らないのに三種全部入れてるんだけど」


 さつきが澪を見た。


「聞いた?」


「聞いた」


「『なんとなく』で三種のうま味全部入れてるんだけど、この人」


「晃はそういう人間でしょ」


「そういう人間って何」


「計算しないのに正解を引く人間」


 さつきが「厄介」と言った。


「厄介って何」と晃が言った。


「褒めてる。計算できないから再現性がないけど、出てきたものが正解なの。それが一番厄介」


 晃は何も言わなかった。自分のスープを一口飲んだ。美味しかった。なんとなく、美味しかった。


 澪もスープを飲んでいた。小さな器を両手で持って、静かに飲んでいた。何も言わなかった。でも、器を置いた後、もう一口注いだ。




 

 澪の刺身を晃が食べた。


 皿の端の一切れを箸で取った。鯛の薄造り。何もつけずに口に入れた。


 舌の上に乗せた。冷たかった。身がしっかりしていた。噛むと、脂が少しだけ溶けた。甘みがあった。養殖の鯛特有の、均一な脂の甘み。でもそれが嫌じゃなかった。切り方が良いのだと思った。断面が滑らかだから、舌触りが良い。繊維を壊していない。


「……うまい」


 「なんとなく」がつかなかった。


 いつもの晃なら「なんとなく、うまい」と言っただろう。「なんとなく」を挟むことで、味の評価に距離を置く。自分の感覚を信用しきれないから、「なんとなく」で保険をかける。


 でも今は、かけなかった。


「なんとなく?」と澪が聞いた。


「いや」


 晃は一拍置いた。


「うまい」


 澪が黙ってもう一切れ差し出した。


「ずるい、私も」


 さつきが手を伸ばした。三人がカウンターの上で箸を伸ばしていた。


 カメラは回っていた。このカウンターの上の、三人の箸と、三つの料理と、笑い声みたいなものが、全部映っていた。


「本番は天然だから」と澪が言った。


「天然だと何が変わるの」


「脂の入り方が違う。養殖は均一に入る。天然は部位によって変わる。だから切り方を変える」


「切り方って」


「腹側と背側で厚みを変える。脂が多い腹は薄く、背は少し厚く。そうすると口の中で脂の溶け方が揃う」


「……それ、やってるの?」


「やる。本番では」


「バローの鯛ではやらないの」


「養殖は均一だから、必要ない。でも天然は必要」


 さつきが晃を見た。晃もさつきを見た。同じことを思っていた。この人は、本番の天然ぶりのために、ここまで計算している。バローの鯛で試作しながら、頭の中では天然の脂の入り方を組み立てている。


 澪は皿を片付け始めていた。試作の刺身の残りを、ラップをかけて冷蔵庫に入れた。まな板を洗った。柳刃を拭いた。布で刃先を包んで、ケースに戻した。


 一つ一つの動作が丁寧で、迷いがなかった。





 試作が終わった。


 片付けをしながら、さつきがホワイトボードを更新していた。アヒージョのオイル量を減らすメモ。カルパッチョのオイル配分。もつ鍋スープの配合を記録。刺身の厚みは「澪任せ」と書いた。


 澪が仕入れの最終確認をしていた。ノートを広げて、品目と数量を一つずつ確認していた。字が小さくて、几帳面だった。


「鰹節、増やす」


「増やすって、どれくらい」


「二十五人分のスープ用と、当日の出汁用を分ける。足りなくなるより多い方がいい」


「昆布は」


「利尻。日高と迷ったけど、利尻の方が出汁が澄む。刺身と合わせるなら濁らない方がいい」


「利尻と日高で出汁の色が変わるの」


「変わる。日高は煮物向き。利尻は吸い物向き。今回は刺身があるから、利尻」


 さつきがノートパソコンに打ち込んでいた。仕入れリストのスプレッドシート。品目、数量、単価、仕入れ先、担当。澪の口から出る数字を、さつきが表に落としていく。


「えっと、利尻昆布、三百グラム。単価は——」


「グラムで買わない。一袋単位。業務用の一袋が五百グラム。一袋で足りる」


「業務用ってどこで買うの」


「センターにある。朝行けば買える」


「バローにはないの」


「ある。でも割高。センターの方が業務用パックがある」


 さつきの手が止まった。


 ノートパソコンの画面から目を離して、澪を見た。


「ねえ澪」


「何」


「なんでそこまでやるの」


 澪の手が止まった。ノートのペンを持ったまま。


「そこまでって」


「敦賀まで天然ぶりを買いに行って、朝七時から市場を三軒回って、利尻昆布は業務用パックでセンターで買って、カウンターの奥行きは内見の日に測ってあって。全部、最初から計算してたみたいじゃん」


 澪はさつきを見なかった。ノートの数字を見ていた。


「計算してたわけじゃない」


「じゃあ何」


 間があった。


 換気扇の音が回っていた。試作で使った油の匂いが、まだ少しだけ残っていた。カウンターの上には、さつきが更新したばかりのホワイトボードと、澪のノートと、晃のスマホが並んでいた。


「——やりたかった」


 澪が言った。


 さつきが動きを止めた。晃が顔を上げた。


「やりたかった?」


「こういうこと。ずっと」


 澪の声は静かだった。いつもと同じ声量で、いつもと同じ速度で言っていた。でも、構文が違っていた。いつもの澪なら「やるかどうかの条件の話でしょ」と返す。「必要だからやってる」と返す。主語を省いて、感情を論理に変換して、処理する。


 「やりたかった」は、変換されていなかった。主語は省かれていたが、感情がそのまま出ていた。


 直後だった。


 澪がスマホを出した。


 ロックを解除した。電卓アプリを開いた。


 指が動き始めた。何かを計算していた。仕入れの総額だろうか。一人あたりの食材費だろうか。何回分の動画に分けて回収できるかの計算だろうか。


 数字を打つ澪の指は、さっき柳刃を握っていた指と同じだった。同じ精度で、同じ迷いのなさで、数字を叩いていた。刺身を切る時の集中と、電卓を叩く時の集中が、同じ速度で動いていた。


 さつきが手を伸ばした。


 澪のスマホの上に、さつきの手が重なった。


 台詞はなかった。


 澪の指が止まった。電卓の画面が、さつきの手の下で見えなくなった。


 澪はさつきを見なかった。さつきの手を見ていた。自分のスマホの上に重なった手を。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 換気扇の音だけが回っていた。


 澪がスマホをポケットに入れた。さつきが手を引いた。


 何も言わなかった。二人とも。


 晃はカウンターの向こう側に立っていた。二人の間に割って入る場所ではなかった。ただ見ていた。さつきが澪の手を止めたこと。澪がそれを受け入れたこと。


 澪がノートを閉じた。


「片付ける」


 それだけ言って、キッチンに戻った。シンクの水を出した。皿を洗い始めた。


 さつきはノートパソコンの画面を見ていた。スプレッドシートの数字が並んでいた。仕入れリスト。品目と数量と単価。さっき澪が口にした数字が、全部表になっていた。


 さつきはスプレッドシートの右端に、新しい列を追加した。列名は入れなかった。空白の列だった。そこに何を入れるつもりなのかは、さつき自身にもわからなかったのかもしれない。


 晃はカウンターの木目を見ていた。


 さっき澪が刺身を並べた場所。もう皿は片付けられていた。でも、澪の指が触れた跡が、カウンターの上にまだあるような気がした。あるわけがない。木目に指の跡は残らない。でも、そう感じた。


 澪が皿を洗う音がしていた。水の音。皿が重なる音。蛇口を閉める音。


 さつきがノートパソコンを閉じた。


「帰ろうか」


「うん」


 蛍光灯を消した。ちかちかと二回瞬いてから消えた。


 二十二時十分。少しだけ過ぎていた。晃がスマホで時間を確認した。さつきも確認した。澪は確認しなかった。


 三人がはなれを出た。晃が鍵をかけた。


 旧飯田街道は暗かった。街灯の下だけが丸く明るかった。


「おつかれ」とさつきが言った。


「おつかれ」と晃が言った。


 澪は小さく頷いただけだった。


 三人がそれぞれの方向に歩き始めた。


 晃は坂の方に歩いた。


 澪の背中が見えた。反対方向に歩いていく澪の背中。パーカーのフードが少しだけ浮いていた。第11話のさつきが見た朝五時の背中と、同じパーカーだった——と、晃は知らない。晃はあの朝のことを知らない。


 でも、今夜の澪の「やりたかった」は聞いた。


 さつきが澪のスマホに手を重ねたのも見た。


 澪がそれを受け入れたのも。


 坂を上り始めた。フェンスの向こうの暗い緑。住宅の壁。坂は上に向かって続いていて、先が見えなかった。


 ポケットの中でスマホが振動していた。告知のコメントだ。まだ来ている。参加フォームの申し込みも増えているだろう。四十人を超えたかもしれない。


 晃はスマホを出さなかった。


 もつ鍋のスープのことを考えていた。鶏ガラと昆布と干し椎茸の戻し汁。なんとなく、冷蔵庫にあったもので作った。三種のうま味が全部入っていたらしい。知らなかった。知らないのに、入れていた。


 さつきは「計算しないのに正解を引く人間」と言った。


 でも澪は計算する人間だった。カウンターの奥行きを測り、利尻昆布を選び、仕入れ先を三軒並べ、プロボックスを借りた。全部計算して、全部積み上げて、その上で「やりたかった」と言った。


 計算の果てに感情が漏れた。


 晃は計算しない。だから感情が先に来る。「なんとなく」が先に来る。でも今夜、澪の刺身を食べた時、「なんとなく」は来なかった。「うまい」だけが来た。


 それは、計算しなくても出てくる正解だったのか。それとも、「なんとなく」で済ませることをやめた瞬間だったのか。


 わからなかった。


 坂の途中で立ち止まらなかった。今日は立ち止まらなかった。そのまま上りきった。


 アパートに着いた。鍵を開けた。靴を脱いだ。電気をつけた。低い天井。白い壁。隣の部屋のテレビの音が微かに聞こえていた。


 テーブルの上にスマホを置いた。裏返さなかった。画面が光っていた。通知が三件来ていた。


 晃はスマホの横に座って、しばらく画面を見ていた。


 通知の内容は見なかった。数字も見なかった。ただ、画面が光っていることだけを見ていた。


 明日は大学で、講義が二つあって、その後バローに寄って、はなれに行く。撮影の日だ。いつもと同じ一日だ。


 でも、いつもと同じ一日の中に、「やりたかった」という声が入っていた。澪の声。いつもと同じ声量で、いつもと同じ速度で言った、変換されていない声。


 晃はスマホの画面を消した。


 電気を消した。


 天井を見ていた。暗い天井。はなれの板張りの天井とは違う。低くて、何の表情もない天井。


 なんとなく、寝つけなかった。

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