第35話 オフ会やります
八万人。
誰も確認しなかった。
撮影が終わった火曜の夜だった。二十一時五十分。片付けはほぼ終わっていた。澪がシンクを拭いていた。さつきがカメラのデータを移していた。
晃はカウンターに肘をついて、スマホを見ていた。
「ねえ」
「何」
「読んでくれない?」
さつきが手を止めた。澪は拭く手を止めなかった。
晃がスマホをカウンターに置いた。画面には、メモアプリの文章が表示されていた。
「何これ」とさつきが覗き込んだ。
「告知文」
「何の」
「オフ会」
さつきがスマホを手に取った。澪がシンクの前から動かないまま、「読んで」と言った。
さつきが声に出して読み始めた。
自炊研究会、初のオフ会やります。
三人でそれぞれ好きなもの作ります。何が出るかは当日の気分と
冷蔵庫の在庫次第です。
メニュー表はありません。聞かれても「たぶん美味しいやつ」と
しか答えられません。
会場内へのアルコールの持ち込み大歓迎。飲酒した状態での入場は
発覚次第即乾杯。泥酔はちょっと待って、せめてうちの飯食べてから
潰れて。
飲めない人も来てください。ソフトドリンクは死ぬほどあります。
飲める人は飲めない人に優しくしてください。できなかったら
俺が唐揚げ揚げるの止めます。
予約とか席順とかないです。来たい人が来て、食べたいもの食べて、
帰りたい時に帰ってください。
あと澪が朝から市場回って仕入れてきた天然ぶりがあるので、
どこかのタイミングで目の前で捌き始めます。たぶん無言です。
見たい人はカウンター前へ。邪魔すると出刃が止まるので
静かにお願いします。
では。
さつきが読み終えた。しばらく黙っていた。
「……晃、これ告知文?」
「告知文」
「いや、わかるけど。ていうか、いつ書いたの」
「今日の撮影中に、ちょっと思いついて」
「撮影中に?」
「待ち時間に。澪が出汁引いてる間」
さつきがもう一度画面を見た。上から下まで読み直した。
「直すところある?」とさつきが聞いた。澪に向かって。
澪がシンクの前から歩いてきた。さつきの手元のスマホを覗き込んだ。上から読んだ。途中で止まらなかった。最後まで読んだ。
一呼吸。
「"飲めない人にも優しくしてください"、は残して」
「それだけ?」
「それだけ」
さつきが晃を見た。
「私も直すところない」
「……まじで?」
「まじで。これ、晃の声がそのまま入ってる。直したら晃じゃなくなる」
晃は少しだけ驚いた。自分では、ただ思いついたことを順番に書いただけだった。構成とか、導線とか、さつきがいつも考えているようなことは何も考えていなかった。
「"泥酔はちょっと待って"のところ」とさつきが言った。「ここ、普通の告知文だったら絶対書かないじゃん。でもこれがあるから、読んでる人が『あ、この人たち本当に来てほしいんだな』って思う」
「そこまで考えてない」
「考えてないから伝わるんでしょ」
澪がカウンターに戻った。布巾を畳んでいた。
「"たぶん無言です"」
「何?」
「私のこと。"たぶん無言です"って書いてある」
「事実でしょ」
「事実」
澪はそれ以上何も言わなかった。布巾をシンクの横に掛けた。
「じゃあ、これで出す?」とさつきが聞いた。
「出す」
「いつ」
「今でいい」
さつきが晃のスマホを持ったまま、自分のスマホも出した。コミュニティ投稿の画面を開いた。晃のメモの文章をコピーして、貼り付けた。
「画像は?」
「要らない」
「テキストだけ?」
「テキストだけ」
さつきは少しだけ迷った。普段のさつきなら、画像を付けたがる。サムネイルの色温度にこだわって、フォントの種類を三十分悩むさつきだ。でも今回は、晃の文章が画像を必要としていなかった。
「……そうだね。テキストだけの方がいい」
さつきが投稿ボタンの上で指を止めた。
「押すよ」
「押して」
「澪は?」
「いい」
さつきが押した。
三秒。五秒。十秒。
晃のスマホに通知が来た。さつきのスマホにも。澪のスマホは音が鳴らなかった。マナーモードだ。
一分後、通知が連続で来始めた。
さつきが画面をスクロールした。
「"マジか"。"行く"。"待ってた"。"飲酒状態での入場は即乾杯www"。"唐揚げ止めないでwww"」
「伸びてる」
「伸びてる。ていうか、もう百件超えてる」
晃はスマホを裏返した。通知の振動が、カウンターの木目に小さく響いていた。
「……百件」
「晃。これ、来るよ」
「来るって」
「人が。たくさん」
澪がスマホをポケットから出した。画面を見た。三秒。戻した。
「会場のキャパ」
「何」
「ここ、何人入る」
三人が同時にはなれの空間を見回した。十二坪。カウンターの前のスペース。キッチンとの仕切りはない。椅子もテーブルもない。立食なら——
「二十人がいいところでしょ」とさつきが言った。
「三十はきつい」と晃が言った。
「人数制限かける?」
「かけた方がいい」と澪が言った。「食材の量が計算できない」
「何人にする?」
「二十五。それ以上は断る」
「断るって、どうやって」
「先着」
「先着って、もう百件来てるんだけど」
「参加フォーム作って、先着二十五名。それ以上はキャンセル待ち」
澪はもう計算を始めていた。二十五人分の食材。メニューの品数。一人あたりの量。頭の中で電卓を叩いているのが、晃にはわかった。
「あのさ」
晃が言った。二人が振り返った。
「まだ、何作るかも決めてないよね」
少しの沈黙。
さつきが笑った。
「確かに」
澪も、ほんの少しだけ口の端を動かした。笑ったのかどうかはわからなかった。
翌日の夜。はなれに集まった。撮影日ではなかったが、三人ともバローの袋を持っていなかった。今日は料理をしに来たんじゃない。計画を立てに来た。
カウンターの上にさつきがノートパソコンを広げた。澪がホワイトボードのペンを取った。晃はカウンターの向こう側——キッチン側に立っていた。無意識に、いつもの撮影の立ち位置にいた。
「メニュー」とさつきが言った。「それぞれ作りたいもの、出して」
「居酒屋形式でしょ」と晃が言った。
「うん。三人がそれぞれ好きなもの作る。前に三人で飲んだ時と同じ。ただし今回は客がいる」
「客って言うな」と晃が言った。
「じゃあ何て言うの」
「来る人」
「同じじゃん」
「客って言うと店みたいじゃん」
「店みたいなものでしょ。はなれ使って、料理作って、人に出すんだから」
「店じゃない。オフ会」
「オフ会って、つまり何」
「……わからない」
澪がホワイトボードにペンを走らせた。
「メニュー」
その下に三つの名前。
「晃」「さつき」「澪」
「はい、出して」
「澪、仕切るの早くない?」
「早い方がいい。品数が決まらないと仕入れが計算できない」
さつきが先に口を開いた。
「私はアヒージョと、カルパッチョと、シーザーサラダ。あとパスタ。ペペロンチーノとアマトリチャーナ。〆で出す」
澪がホワイトボードに書いていった。
「晃は」
「唐揚げ。もつ鍋。豚キムチ。あと——」
晃は少し考えた。
「——白飯と味噌汁」
「味噌汁?」
「自炊研究会といえばの味噌汁。オフ会で出さないわけにいかないでしょ」
さつきが「それはそう」と頷いた。
「澪は」
澪がペンを止めた。ホワイトボードから一歩離れた。
「メインは天然ぶりでいい」
「天然ぶり」とさつきが繰り返した。「一本?」
「一本」
「どこから?」
「敦賀」
「敦賀って——福井の?」
「寒ぶりの時期に入る。敦賀の鮮魚店なら、品質で選べる」
さつきが目を丸くした。晃もだった。
「ちょっと待って。敦賀まで買いに行くの?」
「行く」
「名古屋からどれくらい?」
「車で二時間半くらい。北陸道で」
「車って——」
「あと、おまかせの刺身盛り。天然鯛とか平目とか、その日の入荷次第。それと鰯の梅しそフライ。ほっけ塩焼き。ぶり大根は前日から仕込む」
さつきがノートパソコンの画面を見ていた。澪の品数を数えていた。
「澪。それ、居酒屋のグランドメニューじゃん」
「居酒屋形式って言ったでしょ」
「形式の話であって、本当に居酒屋開けって言ってないじゃん」
澪はホワイトボードに自分のメニューを書き終えていた。品目数は晃より多かった。さつきより多かった。
「カウンターの奥行き、測った」
さつきが動きを止めた。晃も止まった。
「……いつ」
「内見の時」
あの日、澪はカウンターの前に立って、両手を広げて端から端まで測っていた。何を測っているのか聞かれて、「奥行き」とだけ答えた。あの時からもう、澪はここで魚をおろすことを考えていた。
「あのカウンターの奥行きなら、天然ぶり一本おろせる。シンクの水量も確認した。血抜きもできる」
「内見の時に、そこまで考えてたの」
澪は答えなかった。ホワイトボードのペンのキャップを閉めた。
「仕入れの段取り。聞いてくれる?」
さつきと晃が顔を見合わせた。晃がカウンターの向こう側から少し身を乗り出した。
「前日。敦賀の鮮魚店で天然ぶりを一本。氷を詰めて発泡スチロールに入れる。車で持ち帰る」
「車」とさつきが言った。「車、どうするの」
「借りた」
「レンタカー?」
「プロボックス」
「……なにそれ」
「トヨタの商用車。荷室が広い。発泡スチロールが二個入る」
「なんでそんなの知ってるの」
「父親に聞いた」
さつきが「父親」と繰り返した。
「うちの父親、伊勢で鮮魚店やってる。荷物を運ぶならプロボックスがいいって」
晃はさつきの顔を見た。さつきも晃を見た。
「……鮮魚店」
「うん」
「澪のお父さん、魚屋さん」
「そう」
「だから澪、魚のこと詳しいんだ」
「詳しいっていうか、普通」
「普通じゃないよ。内見でシンクの水圧確かめて、排水口にグリストラップがあるか見て、カウンターの奥行き測って天然ぶりおろせるか計算する人、普通じゃないよ」
「父親はもっとやる」
「それは鮮魚店の人でしょ」
「まあ」
さつきが少しだけ笑った。澪は笑わなかったが、ペンをカウンターに置いた。
「続き。当日の朝。大名古屋食品卸センターで生本鮪とサーモンと野菜を仕入れる。さつきと晃のおつかいも含めて。それから魚太郎本店で天然鯛ととろさば開きと天然平目」
「朝って何時から」
「七時。センターが開くのが七時」
「七時……」
「九時に魚太郎。十一時にはなれ着。午後から仕込み」
「全部澪が回るの」
「プロボックスあるし」
「そうじゃなくて。全部一人で回るのかって聞いてる」
「三人で行く。運転は私がする。さつきと晃はセンターの中で買い物」
「おつかいリストは?」
「作る。品目と数量と予算、全部出す。さつきの分もまとめて買った方が効率がいい」
「いや、効率はそうなんだけど」
さつきが言葉を切った。ノートパソコンの画面から目を離して、澪を見た。
「ちょっと待って、これオフ会だよね?」
澪は答えなかった。ホワイトボードを見ていた。三列に分かれたメニューと、その横に書いた仕入れ先のリスト。敦賀。大名古屋食品卸センター。魚太郎本店。
さつきが続けた。
「大学生のオフ会で、前日に福井まで天然ぶり買いに行って、当日朝七時から市場三軒回って、十一時にはなれ入りするの?」
「そう」
「それ、飲食店の開業準備じゃん」
澪がさつきを見た。
「居酒屋形式って、さつきが言った」
「形式の話をしてたんだけど」
「形式を本気でやったら、こうなる。それだけ」
晃は二人の会話を聞いていた。カウンターの向こう側で、いつもの立ち位置で。
なんとなく、自分も何かを出したいと思った。唐揚げともつ鍋と豚キムチ。それは決まっている。でもそれだけじゃない気がした。何を出したいのかはまだわからない。でも「なんとなく」がもう「なんとなく」で済まない気がした。
「あのさ」と晃が言った。
「何」
「唐揚げの仕込み、前日からやっていい?」
さつきが晃を見た。
「前日って、敦賀から帰ってきてから?」
「うん。下味つけて一晩寝かせた方がうまいから」
「晃、唐揚げに一晩かけるの」
「かけた方がうまい」
「……かけた方がうまいって、知ってたの?」
「知ってた。いつもはめんどくさいからやらないだけ」
さつきがノートパソコンの画面に目を戻した。何かを打ち始めた。
「何書いてるの」
「タイムライン。前日と当日のスケジュール。全部の仕込み工程を並べて、時間を割り振る」
「さつき、それイベント会社の——」
「言わないで。自分でもわかってるから」
澪がホワイトボードにもう一行書き足した。
「ぶり大根 前々日仕込み」
「前々日?」と晃が言った。
「味を含ませるのに二日要る。前日だと浅い」
「ぶり大根に二日かけるの」
「かけた方がうまい」
晃と同じ言い方だった。晃が少しだけ笑った。澪は笑わなかったが、ペンを置いた。
翌日。さつきがXに投稿した。
「オフ会に置く酒、何がいい? 選択肢あるなら教えて」
その下に三人の推薦を並べた。
晃の推薦:スーパードライ、角ハイボール
さつきの推薦:カシスオレンジ、レモンサワー、各種ソフトドリンク
澪の推薦:いいちこ、黒霧島、白岳しろ、長野県の純米酒
投稿から一時間後。
「澪の焼酎セレクションが話題になってる」とさつきが大学の食堂で画面を見ながら言った。
晃は向かいに座って、学食のカツカレーを食べていた。澪は隣の席で、自分で持ってきた弁当を食べていた。昆布と鰹節の佃煮が入っていた。
「何て言われてるの」
「"選び方がプロ"。"麦と芋と米を全部網羅してるの澪さんの合理性そのものだ"。"酒屋のPOPみたい"」
「酒屋のPOPはさすがに」
「純米酒を二種入れたの、なんで?」と晃が聞いた。
「一種類だと好みが分かれる。二種置けば、どちらかは合う」
「合理的すぎない?」
「合理的でしょ。酒の選び方に感情は要らない」
「じゃあ私のカシスオレンジは」とさつきが言った。
「感情」
「ひどい」
「カシスオレンジは飲みやすいけど、甘い。甘い酒は料理の味が取りにくくなる。本当はレモンサワーだけでいい」
「私がカシオレ好きだから入れたんだけど」
「知ってる。だから残した」
さつきが少しだけ黙った。それから「もう」と言った。声は笑っていた。
「視聴者から推薦が来てる」と晃が自分のスマホを見ながら言った。「長野の純米酒、銘柄指定で。"真澄"と"大雪渓"」
「それ、いい選択」と澪が言った。箸を止めた。「真澄は食中酒として優秀。大雪渓は辛口で、刺身に合う」
「採用する?」
「する。視聴者が選んだ酒がメニューに入る方がいい。双方向性」
「双方向性……」
「さつきが前に言ってたじゃん。"見てる人を巻き込む"って」
「言ったけど、こういう形で返ってくるとは思わなかった」
澪が弁当の蓋を閉めた。晃がカツカレーの最後の一口を食べた。さつきはスマホを見ながら、購買で買ったパンをかじっていた。
学食は昼時で混んでいた。周りの席では他の学生たちが弁当を食べたり、スマホを見たり、課題の話をしていた。普通の昼休みだった。普通の大学の食堂だった。
その普通の食堂で、三人はオフ会の酒のラインナップを詰めていた。
八万人のチャンネルの運営を、学食のテーブルでやっている。さつきは購買のパンを片手に、カシスオレンジの採否を議論している。澪は自分で作った佃煮を食べながら、純米酒の食中酒としての適性を語っている。晃はカツカレーの皿を片付けながら、視聴者の推薦銘柄をメモしている。
隣のテーブルの学生が、何の話をしているのか一瞬だけこちらを見た。すぐに戻った。
その夜、さつきから画像が送られてきた。
参加フォームのスクリーンショットだった。フォームは告知の翌日にさつきが作った。名前と人数と、アルコールの有無だけを聞く簡素なフォームだった。
申し込みが三十八件入っていた。
「定員は?」
晃が返した。
「二十五にした」
さつきの返信。
「もう超えてるじゃん」
「キャンセル待ちにした。十三人」
「十三人待ってるの」
「待ってる」
澪からは何も来なかった。既読だけがついていた。
晃はベッドの上で天井を見ていた。アパートの天井。はなれの板張りの天井とは違う。低くて、白くて、何の表情もない天井。隣の部屋のテレビの音が微かに聞こえていた。
三十八人。そのうち二十五人が来る。名古屋の住宅街の元そば屋に、大学生三人の料理を食べに来る。
スマホの通知がまた振動した。告知のコメントだ。まだ来ている。
晃はスマホを裏返した。
天井を見ていた。
なんとなく、明日のことを考えていた。明日は大学で、講義が三つあって、その後バローに寄って、はなれに行って、撮影をする。いつもと同じ一日のはずだった。
でも、いつもと同じ一日の中に、敦賀のぶりのことと、プロボックスのことと、三十八人のことと、ホワイトボードの二枚目のことが全部入っていた。




