第34話 はなれ
七万三千人。
はなれの鍵を、初めて自分たちで開けた日だった。
澪が鍵を回した。引き戸が少しだけ軋んだ。中に入ると、掃除した後の埃っぽさが残っていた。窓を開けた。秋の空気が入ってきた。
カウンターの上にカメラを置いた。三脚はまだ買っていなかった。料理の本を三冊重ねて、その上にカメラを乗せた。画角を確認して、立ち位置を調整した。
カメラが回り始めた。
赤いランプが点いた瞬間、空気が変わった。
三人ともわかった。晃のアパートで撮っていた時とは違う。ここは自分たちの場所だった。自分たちの場所にカメラがある。それだけで、何かが一枚増えた気がした。
さつきが最初に口を開いた。いつもの調子で、レシピの説明を始めた。声はいつも通りだった。手もいつも通り動いていた。
でも、さつきの視線が、一瞬だけレンズに吸い込まれた。ほんの一瞬。すぐに手元に戻った。でもあの一瞬、さつきは六万八千人の向こう側を見ていた。
「止めよう」
晃がそう言った。カメラを止めた。
「なんか、変な感じがする。もう一回やっていい?」
さつきが頷いた。澪は何も言わずに、水を流し直した。
もう一度。赤いランプ。
「普通にやろう」
さつきが言った。普通に。いつもと同じように。それだけのことが、少しだけ難しくなっていた。
撮影が終わって、片付けをしていた時だった。
大家が顔を出した。
「夜の撮影のことなんですけどね」
少し申し訳なさそうに言った。
「二十二時までにしてもらえますか。近隣の方から、以前の借主の時にも少し苦情がありまして」
三人が黙った。
さつきが最初に口を開いた。
「それ、制約じゃなくて締め切りじゃん」
澪が返した。
「条件込みでやるかどうか決める話でしょ」
晃は黙って天井を見上げていた。この高さが音を反響させる。二十二時以降に反響する音を、近隣の人は聞いていたのだろう。
「わかりました」と晃が言った。「二十二時までにします」
大家が頭を下げて出ていった。
「まあ、条件でしょ」
澪が言った。もう片付けに戻っていた。
さつきはホワイトボードを見ていた。晃が持ち込んだ小さなホワイトボード。何も書かれていない。さつきがペンを取って、右上に小さく書いた。
22:00
それだけだった。下線を引いた。二回。
撮影が日常になるのは早かった。
三日後にはもう、鍵を開ける動作に迷いがなくなっていた。一週間後には、誰がどこに立つかが決まっていた。澪はシンクの前。さつきはカメラに近い位置。晃はその間のどこか——その日によって違ったが、二人の間にいることだけは変わらなかった。
ホワイトボードに文字が増えていった。
最初は「22:00」だけだった。次にさつきが「撮影開始」「調理」「カット割り確認」「片付け」と書き加えた。その隣に時間が入った。分刻みのタイムテーブルが出来上がっていた。イベント会社の進行表みたいな精度で。
コメント欄には「戻ってきた」「やっぱりこれが好き」という声があった。はなれに移ってからの動画は、どれも空気が違った。
七万三千人。二週間で五千人増えた。
さつきがその朝、早く来たのは偶然だった。
前日の撮影で、カメラのバッテリーを充電したまま置いて帰っていた。朝の講義の前に取りに行こうと思っただけだった。
午前五時四十分。
はなれの前に着いた時、引き戸の鍵が開いていた。
中に入ると、キッチンに明かりがついていた。換気扇が回っていた。コンロの上に鍋が一つ。水が張ってあって、昆布が沈んでいた。
澪がいた。
カウンターの前に立っていた。鰹節を量っていた。デジタルスケールの数字を見て、少し足して、また量っていた。
さつきの足音に気づいて、澪が振り返った。
「……なんで」
さつきがここにいることへの疑問。
「バッテリー忘れた」
さつきが答えた。それからキッチンの全体を見た。昆布の水出し。量られた鰹節。午前五時台にすでにここまで進んでいる工程。
「……いつからやってるの」
「別に」
澪はもうスケールに視線を戻していた。
「別にって何。いつから」
「四時半くらい」
「今日だけ?」
澪が答えなかった。鰹節を容器に移した。動きは正確で、迷いがなかった。毎朝やっている人間の手つきだった。
さつきにはわかった。今日だけじゃない。
二十二時までに撮影を終わらせる。その条件を満たすために、澪は仕込みを朝に移していた。講義がある日にも。毎日。
さつきはカウンターの縁に手をついた。
「澪」
「何」
「大学、何限から」
「二限」
「なんで四時半に来てるの」
「水出しの時間が要る」
「それはわかる。でも、自分が寝る時間は要らないの」
澪はさつきを見なかった。スケールの数字を見ていた。
「足りてる」
「昨日の撮影、片付け終わったの二十二時過ぎだったじゃん。帰って、寝て、四時半にここにいるなら、何時間寝てるの」
澪が黙った。
さつきも黙った。
換気扇の音だけが回っていた。昆布の鍋から、微かに磯の匂いがしていた。
「条件込みでやるって、自分で言ったじゃん」
さつきの声は静かだった。怒っていなかった。怒るのとは違う場所にある声だった。
「やってる」
澪が言った。
「条件は二十二時でしょ。二十二時に終わってる。何も落としてない」
「自分を落としてるじゃん」
澪が一瞬だけ、さつきを見た。すぐにスケールに視線を戻した。
「……別に」
二度目の「別に」だった。一度目とは重さが違った。一度目は反射だった。二度目は、何かを閉じる音だった。
さつきはそれ以上言わなかった。バッテリーを取って、引き戸を閉めて、外に出た。
朝の空気が冷たかった。まだ暗かった。はなれの窓から、キッチンの明かりだけが路地に漏れていた。
さつきはスマホを出さなかった。晃にも連絡しなかった。しばらく路地に立って、あの明かりを見ていた。
その日の撮影は、いつも通りだった。
十七時に集合。さつきがタイムテーブルを確認する。澪がキッチンに入る。晃がカメラをセットする。
出汁の香りがすでに漂っていた。朝の仕込みが効いていた。
晃は気づいていなかった。この出汁が朝五時から始まっていることを。
二十一時四十五分に全てのカットを撮り終えた。
片付け。レシートを広げた。
三人分のレシートを並べた。澪の分が一番多かった。鰹節の減りが早い。昆布も。晃のアパートで撮っていた頃より、明らかに食材費が上がっていた。
電卓を叩いた。三で割った。
誰も「高い」とは言わなかった。
基準線が上がっている。三人とも、前より多く注いでいる。その分だけ数字が大きくなっている。言わなかったことが、その証明だった。
「割り勘ね」
さつきが言った。いつも通りの声で。
澪は自分のレシートを畳んで、ポケットに入れた。
二十二時五分。三人がはなれを出た。晃が鍵をかけた。
三人がそれぞれの方向に歩き始めた。さつきはいりなか駅の方へ。澪は反対方向へ。晃は坂の方へ。
坂を上りながら、今日のレシートの数字を思い出していた。なんとなく、あの数字には意味がある気がした。前よりも重い数字だった。
坂の途中で立ち止まった。振り返ると、はなれのあたりはもう暗かった。
二十二時。
その数字は、もう時刻じゃなかった。三人の一日の形になっていた。




