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第33話 内見

 六万八千人。


 晃のスマホの画面に、その数字が映っていた。


 土曜の昼だった。晃のアパートに三人が集まっていた。築三十年の外廊下のアパートで、晃の部屋は二階の角だった。窓を開けると隣の部屋のテレビの音が聞こえる。閉めると暑い。この日は開けていた。テーブルの上に缶コーヒーが三本。さつきだけカフェオレ。澪は晃と同じブラックだが、ブランドが違う。


 晃がスマホの画面をテーブルに伏せた。


「で」


 澪がノートパソコンを開いた。管理画面。収益のタブを開く。三人が画面を覗き込む。


 数字を見た。


 誰も何も言わなかった。晃が電卓アプリを開いて、三で割った。もう一度割った。同じ数字が出た。当たり前だ。


「三人で割ると、ギリいける」


 晃がそう言った。自分で言っておいて、ギリとはなんだろうと思った。


「ギリはギリじゃない」


 澪が言った。画面から目を離さないまま。


「何が」


「ギリっていうのは、一回でも想定外が来たら崩れるってこと。それはギリとは言わない。足りてないって言う」


 さつきが缶の蓋を開けた。カフェオレの甘い匂いが少しだけ漂った。


「足りなければ出す」


「出すって、どこから」


「バイト増やす。一日でいい。週末にランチのホール入ればいける」


「さつきの計算が合ってるとして」


「合ってる」


「根拠は?」


 晃が聞いた。


「なんとなく」


 さつきが笑った。澪は笑わなかった。晃は少しだけ笑った。


「なんとなくで家賃契約するの」と澪が言った。


「なんとなくでYouTube始めたじゃん」


 澪が黙った。晃も黙った。実際、そうだった。文化祭のカレーがバズって、なんとなくチャンネルを作って、なんとなく動画を上げ始めた。「なんとなく」で六万八千人まで来た。


「なんとなくでいいんだよ」とさつきが言った。缶を一口飲んだ。「たぶん足りる。足りなくなったらその時考える。私たちいつもそうじゃん」


 澪がノートパソコンの画面を閉じた。


「見に行こう」


 さつきが「え、今日?」と聞いた。


「今日。予約してあるでしょ」


 さつきは自分のスマホを確認した。「二時に」


「あと一時間あるじゃん」と晃が言った。


「着替える」とさつきが立ち上がった。


「内見に着替えいる?」


「大家に会うんだから、ちゃんとした格好の方がいい」


「さつき、今ちゃんとしてないの」と澪が言った。


「うるさい」


 さつきがトイレの鏡で髪を確認し始めた。晃はテーブルの上のノートパソコンを見ていた。画面は閉じられていたが、さっきの数字がまだ目の裏に残っていた。


 誰も「やめよう」とは言わなかった。


 なんとなく、もう決まっている気がした。決まっていないのに、戻れない場所にいる感じがした。





 外に出た。


 晃のアパートから山手通りに出るまで、五分ほど住宅街を歩く。秋の午後で、空は高かった。電線の向こうに薄い雲が流れていた。塀の上から柿の木が見えた。どこかの家の庭先でコスモスが揺れていた。


「遠いの?」と晃が聞いた。


「歩いて十分くらい。旧飯田街道のところ」


 さつきが先を歩いていた。スマホの地図を確認しながら。澪は半歩後ろ。晃はさらにその後ろ。いつもの並びだった。


「旧飯田街道って」と晃が言った。「あの、バローの向こう」


「そう。バローを過ぎてちょっと行ったあたり」


「いりなかの方?」


「いりなかと八事の間くらい。坂を下ったところ」


「家賃いくらだっけ」と晃が聞いた。


「月でしょ。三人で割ると——」


「さっき計算した」


「だから聞いてるんだけど」


「ギリいける」


 さつきが振り返った。「また言ってる」


「ギリはギリじゃないって」


「それ澪のセリフだから」


 澪が何も言わずに歩いていた。


「ねえ澪、月額でペイできると思う?」


「動画の頻度による」


「週二で上げるとして」


「広告単価が安定してればいける。安定しなければいけない」


「それをギリって言うんじゃないの」


「ギリじゃない。条件が揃えばいけるし、揃わなければいけない。それだけ」


「澪の話、いつも『それだけ』で終わるよね」


「それだけだから」


 さつきが「もう」と言いながら笑った。


 バローの前を通り過ぎた。土曜の昼だから、買い物袋を下げた主婦が何人か出てきていた。自動ドアの開閉音。鮮魚コーナーの匂いが一瞬だけ届いて、消えた。


 旧飯田街道に入った。片側一車線の細い道で、両脇に古い住宅が続いていた。一軒家と小さなマンションが交互に並んでいて、ところどころに飲食店の跡地があった。「テナント募集」の貼り紙が褪せた色のまま貼られていた。


「この通りの、もうちょっと先」


 さつきが立ち止まった。スマホの画面と建物を見比べた。


「……あれ?」


「どれ」


「あの、瓦屋根のやつ」


 晃が視線を上げた。





 元そば処。


 さつきが不動産サイトで見つけて、先週のうちに内見の予約を入れていた。写真は三枚しかなかった。外観と、キッチンと、シンクの写真。シンクの写真を見た澪が「行く」と言った。それで決まった。


 実物は、写真より古かった。


 瓦屋根。白壁に染み。黒い木枠の引き戸。鎖樋が錆びていて、枯れた蔓が這っていた。看板は外されていたが、跡だけが壁に残っていた。横幅は、大きすぎず小さすぎなかった。路面店のサイズで、隣は普通の一軒家だった。


 誰かがここで何かをしていた。そしてやめた。


 さつきが引き戸の前に立った。


「……思ったより古くない?」


「写真で見たでしょ」


「写真と実物は違うじゃん」


 晃は外壁を見ていた。白壁の染みは雨だれの跡だろう。鎖樋の錆が壁に縦の線を描いていた。枯れた蔓は蔦だった。夏には緑だったのだろう。今は茶色く枯れて、壁に張り付いたまま干からびていた。


 澪は何も言わなかった。引き戸の木枠に手を触れて、表面を確かめていた。


 大家が来た。鍵を開けた。三人が中に入った。


 さつきが最初に声を出した。


「え、古すぎない? 撮影できる?」


 さつきの声が空間に反響した。天井が高いからだ。


 澪は何も言わなかった。無言で奥に入っていった。靴を脱ぐ場所を探すような仕草もなく、土間のまま奥のキッチンに向かった。


 晃は入口に立ったまま、中を見ていた。


 なんか——いいな、と思った。


 天井が高かった。元そば処の名残だろう、カウンターが壁際に残っていた。木目が使い込まれて黒くなっている。換気扇は古いが、業務用のサイズだった。窓が一つだけ、西向きについていた。午後の光が斜めに差していて、カウンターの端だけを照らしていた。


 埃っぽい匂いがした。長い間使われていなかった空間の匂いだ。でもその下に、かすかに油の匂いが残っていた。天ぷら油だろうか。何年も前に染み付いた匂いが、壁か天井か、どこかにまだ残っていた。


「何坪くらい?」とさつきが大家に聞いた。


「十二坪ですね。厨房込みで」


「十二坪……」さつきが室内を見回した。「撮影するには、ちょっと狭いか」


「狭いかな」と晃が言った。


「カメラと三脚置いて、三人が立つスペースと、調理スペースが要るでしょ。動線がぶつかると画がぶれる」


「動線」と澪が奥から言った。


「カメラの前を人が横切らない導線ってこと。晃のアパートだと一方向しかなかったから気にしなくてよかったけど、ここだと奥行きがあるから設計しないと——」


 さつきが動き始めた。


 入口から奥に向かって歩きながら、首を左右にゆっくり振った。天井を見上げ、窓を確認し、壁の色を見た。三秒で止まった。そして振り返った。


「ここ、カメラ置くならあそこの棚の高さがいい。外していいですか?」


 大家が「え?」という顔をした。


「あの棚。背景に入ると画面がうるさくなる。外せるなら外したい」


「いや、棚はこの部屋の——」


「あとこの照明、色温度いくつですか」


「色温度……」


「蛍光灯の色です。白っぽいか黄色っぽいかで、映像の印象がかなり変わるんですよ。この蛍光灯だと多分五千ケルビンくらいで、ちょっと白すぎるんですけど——」


 大家がぽかんとしていた。内見なのだ。契約するかどうかもまだ決めていない。さつきはもう撮影環境の話をしていた。


「あの窓、西向きですよね」


「ええ」


「午後から夕方にかけて自然光が入りますよね。その時間帯に撮影すれば、補助照明はそこまで要らない。でも冬になると日没が早くなるから、十六時には光が落ちる。十六時以降はLEDで補うとして、色温度を揃えないと——」


「さつき」と澪が言った。


「何」


「まだ借りてない」


「……わかってる」


 さつきが少しだけ黙った。大家は少し困ったような、でも嫌ではなさそうな顔をしていた。


 奥でガチャ、と音がした。


 澪がシンクの蛇口をひねっていた。水が出た。水量を手のひらで受けて確認した。止めた。蛇口のハンドルを握り直して、もう一度ひねった。今度は水量を変えながら。


「水圧、悪くない」


 澪が誰にでもなく言った。大家が「えっと、はい、水道は生きてます」と答えた。


 それからカウンターの前に立った。奥行きを手で測り始めた。両手を広げて、端から端まで。指を見つめてから、もう一度測った。


「ここなら——」


 と言いかけて、止まった。


 何が「ここなら」なのかは言わなかった。でも澪の手はまだカウンターの縁に触れていた。指先がゆっくり木目をなぞっていた。


「澪、何測ってるの」とさつきが聞いた。


「奥行き」


「何の」


「カウンター」


「カウンターの奥行きって、今要る情報?」


 澪は答えなかった。両手を縁から離して、シンクの方に戻った。排水口を覗き込んだ。指を入れて、何かを確認した。


 晃は入口のそばに立ったままだった。


 なんとなく、天井を見上げた。


 高い。コンクリートではなく板張りの天井。音が反響しないか、と考えた。手を一回叩いてみた。乾いた音がして、すぐに消えた。反響は少ない。板が音を吸っている。


「何してるの」とさつきが聞いた。


「音。反響するかなと思って」


「しなかった?」


「しなかった。板張りだからだと思う」


「じゃあ収録向きってこと?」


「かもしれない」


 いま自分が考えていることに気づいて、少しだけ驚いた。まだ契約もしていない物件の、天井の高さと音響特性を考えている。


 大家が「どうですか」と聞いた。


「少し考えます」と晃が答えた。


 大家が頷いて、先に外に出た。


 引き戸が閉まった。外の車の音が少し遠くなった。





 三人だけが残った。


 さつきが壁を触っていた。指先で表面のざらつきを確かめていた。塗装が少し剥がれているところ。その下に古い漆喰が見えていた。


「壁、塗り直さなくても映像に耐えるかな」


「遠景なら。アップで抜くなら無理」


 さつきが自分に答えていた。


 澪はまだキッチンにいた。シンクの排水口を覗き込んでいた。


「排水口、詰まってない?」


「詰まってない。グリストラップもある」


「グリスト……何?」


「油脂を止めるやつ。飲食店には必要。ここにあるなら、前の人もちゃんと使ってた」


「澪って、こういう時だけ饒舌だよね」


「必要な情報でしょ」


 晃はカウンターの前に立っていた。さっき澪が測っていた場所。午後の光がまだ同じ角度で差していて、木目の上をゆっくり動いていた。


 手を置いた。


 木目は冷たかった。でも、冷たいだけじゃなかった。何年分かの手のひらが触れた跡が、表面を少しだけ滑らかにしていた。蕎麦を打つ人間の手がここにあった。出前の丼を並べる手があった。閉店の日に最後に拭いた手があった。


 晃は手を離さなかった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 三人がバラバラの場所にいて、バラバラのものを見ていた。さつきは壁を、澪はシンクを、晃はこの木目を。


 窓の外で鳥が鳴いた。住宅街の、午後の音だった。


 さつきが窓の前に移動した。光に手をかざした。指の間から午後の光が漏れていた。


「……いける」


 澪がシンクの前から動かないまま言った。


「排水も生きてる」


 晃は何も言わなかった。窓から入る光がカウンターの木目を斜めに横切っていた。誰かがここで蕎麦を打っていた頃と、同じ角度の光だった。


「コンロは」と澪が言った。「替える必要がある」


「予算に入る?」


「中古なら」


「中古のコンロって大丈夫なの」


「業務用なら中古で十分。火力が出れば問題ない」


 さつきが笑った。澪は笑わなかったが、シンクの蛇口をもう一度ひねった。水が出た。止めた。もう一度。


「ねえ」とさつきが言った。


 二人が振り向いた。


「ここ、どうする?」


 さつきの声は軽かった。でも、目は真剣だった。


「どうするって」と晃が言った。


「借りる? 借りない?」


 晃は澪を見た。澪はさつきを見ていた。さつきは晃を見ていた。三人の視線が三角形を描いて、一周して、戻った。


「……少し考えますって、さっき言ったじゃん」と晃が言った。


「それは大家に対して」


「大家に対しても俺たちに対しても同じでしょ」


「違うよ。大家に対しては礼儀。私たちの間では、考える時間なんか要らないでしょ。もう答え出てるじゃん」


 晃は黙った。


「出てるけど」と晃は言った。「言うのが怖い」


 さつきが少しだけ笑った。


「うん。私も」


 澪が蛇口のハンドルから手を離した。


「怖いのと、やるかどうかは、別でしょ」


 それだけ言って、澪はキッチンを出た。引き戸を開けて、外に出た。


 さつきと晃が目を合わせた。二人とも少しだけ笑って、澪の後を追った。





 外に出た。


 午後の光が傾き始めていた。旧飯田街道の細い道に、建物の影が長く伸びていた。向かいの一軒家の二階の窓にカーテンがかかっていて、その向こうにテレビの光がちらちらしていた。


 三人が歩き始めた。来た道を戻る。さつきが先を歩いていた。澪がその半歩後ろ。晃は少し離れて最後尾にいた。


 秋の午後で、影が長かった。


 誰も「やろう」と言わなかった。


「ねえ」とさつきがスマホを出しながら言った。「LEDの色温度、四千ケルビンくらいがちょうどいいんだよね。電球色と昼白色の間。料理が一番美味しそうに見える色温度」


「まだ借りてないって言ったでしょ」と澪が言った。


「調べるだけならタダじゃん」


 バローの前を通り過ぎた。さっき通った時と同じ自動ドアの音。


 キャンパスの手前で山手通りに出た。「HOKUZAN UNIVERSITY」と書かれたサインボードの前。車が一台通り過ぎた。


「掃除、手伝う」


 澪が言った。


 さつきがスマホから顔を上げた。晃は足を止めた。


 澪は立ち止まらなかった。前を向いたまま歩いていた。


「……澪。それ、借りるってこと?」


「掃除を手伝うって言った」


「同じじゃん」


「順番の問題」


 さつきが吹き出した。


 それで決まった。


 さつきはもうスマホに何かを打ち始めていた。


「何してるの」


「申し込み」


「早くない?」


「善は急げ」


 澪は何も言わずに先を歩いていた。


 三人で坂を上った。正門前の、フェンスと住宅の間の坂。庇の下に影が縞のように落ちていた。


 晃は途中で一度だけ振り返った。旧飯田街道の方角は見えなかった。


「晃、何してるの。置いてくよ」


「行く」


 晃は坂を上りきった。

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