表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/8

第24話 余白

文化祭から三日が経っていた。通知はまだ鳴っていた。



 さつきからのメッセージには、まだ返していなかった。



 晃はベッドに転がったまま、天井を見ていた。スマホを持ち上げて画面を確認して、また胸の上に置く。それを繰り返していた。数字は増えていたり、増えていなかったり、よくわからなかった。



 どこかの誰かが見ている。それはわかった。



 ただ、それが何を意味するのかが、まだうまく処理できていなかった。



 通知が鳴るたびに、晃は画面を確認した。さつきからじゃなければ、また胸の上に置いた。さつきからだったら、少し長く画面を見てから、置いた。



 返す言葉が思い浮かばないわけじゃなかった。



 さつきのメッセージは、長くなかった。



『どうする?』



 これだけだった。



 答えは持っていた。たぶん、持っていた。ただ、答えを返した瞬間に、それが本当のことになる。文化祭の三日間は、終わりが決まっていた。あの熱は、あの場所と時間に閉じていた。だから全力で燃やせた。でも「どうする」に答えてしまったら、終わりのない何かが始まる。



 だから、返していなかった。



 窓の外では、十一月の空が白く光っていた。名古屋の秋は短い。夏の湿気がようやく抜けたと思った数日後には、もう冬の匂いが混じり始める。八事の丘の上にあるこのアパートは、風通しだけはよかった。



 布団を顎まで引き上げて、晃はもう一度天井を見た。ポップコーンテクスチャの白い天井。入学してから二年半、飽きるほど見てきた天井。右の壁にはカレンダーが一枚、左の壁際には調味料が並んだメタルラック。その隣に、文化祭で使い残した業務用カレー粉の缶が、まだ床に置いてあった。



 スマホが鳴った。



 さつきじゃなかった。澪だった。



『今どこ』



『部屋』



『自販機来れる?』



 晃は起き上がった。返事をする前に、もうパーカーに腕を通していた。袖口に、三日前の油の跳ねが点々と残っていた。



   *



 さつきは午後からクラブハウスにいた。



 サークル棟の二階、廊下の突き当たり。自炊研究会に割り当てられた部屋は八畳ほどで、業務用の流し台がひとつと、ガスコンロが二口。壁には換気扇がついているが、三日間カレーを煮込んだ匂いはまだ微かに残っていた。



 流し台の前に立って、蛇口を捻って、特に何かを洗うわけでもなく水を流していた。スマホはエプロンのポケットに入ったままで、確認する気にはなれなかった。



 文化祭の片付けは終わっている。あの三日間に使った鍋も、寸胴も、ぜんぶ洗って棚に戻した。さつきが最後に確認した。二回。寸胴の内側に残った焦げ付きの線が気になって、三回目に手を伸ばしかけて、やめた。



 水を止めた。



 静かだった。そのぶん、何かが耳の奥で鳴っているような感じがした。



 三日間、ずっと音があった。包丁が俎板を叩く音、出汁が沸く直前の細かな泡の音、鍋底で油が弾ける音、人の声。列を作る足音。紙皿を受け取る手の音。静かになった今、体がまだそれを探している。



 さつきはエプロンのポケットに手を入れた。スマホに触れて、でも取り出さなかった。



 あの三日間、自分は何度、完璧にできなかったと思っただろう。初日の昼、カレーの火加減を強くしすぎた。二秒で気づいて落としたが、鍋底の温度は一瞬上がった。二日目、盛りつけが一皿だけ崩れた。ライスの山が左に寄って、ルーの流れが設計と違った。最終日の朝、スープの塩が一度だけ決まらなかった。舌の上で、ほんの半グラムぶんの迷いが残った。誰も気づかなかったかもしれない。でもさつきは知っていた。



 それでも、客は食べた。「美味しい」と言った。知らない人が、列を作って、お金を払って、食べた。



 その事実が、今になって、じわじわと何かを溶かしていた。



 窓の外は坂だった。東山丘陵の尾根に沿って建てられたこのキャンパスは、どこへ行くにも坂を使う。クラブハウスを出れば、左に下れば学食とR棟、右に上ればライネルス中央図書館。十一月の風が、色づきはじめたナンキンハゼの葉を揺らしていた。赤というより、くすんだ橙。この大学の紅葉はいつも少し地味だ、とさつきは思った。



 ポケットの中でスマホが震えた。



 澪だった。



『自販機』



 さつきはしばらく画面を見た。一文字も余分がない。澪らしかった。それから、エプロンを外した。首紐のところに、油の跳ね跡がうっすらついていた。三日ぶんの。



   *



 澪はライネルス中央図書館の三階、閲覧机で、テキストを開いていた。



 開いているだけだった。



 窓際の席。午後の光が机の右半分を照らしていた。図書館の天井は高く、空調の音が低く唸っている。隣のブースは空いていた。文化祭の振替休日で、キャンパスには人が少なかった。



 スマホの画面を三秒見て、閉じる。テキストに戻る。また三秒見る。



 考えていたのは、次のことだった。この勢いを、どう使うか。どう形にするか。どう続けていくか。



 澪は手を止めて、コーヒーの紙コップを口に運んだ。もう冷めていた。図書館の一階の自販機で買った百五十円のブレンド。氷なし。澪はいつもブラックで、いつも氷なしだった。



 再生数は、もう確認していない。伸びることはわかった。問題はその先だった。



 スマホをもう一度開いた。チャンネルの管理画面じゃなかった。メモアプリだった。文化祭が終わった夜に書いた箇条書きが、三行並んでいた。



 ——拠点。撮影環境。継続コスト。



 三つとも、まだ何も決まっていなかった。でも澪の中では、すでに動き始めていた。さつきも晃も、まだ余韻の中にいる。だから澪は何も言っていなかった。言うタイミングを、測っていた。



 紙コップをゴミ箱に落とした。テキストを閉じた。栞も挟まなかった。どうせ開いていただけだ。



 図書館の大きな窓の外に、パッヘスクエアの芝生が見えた。十一月の午後、芝生には誰もいなかった。文化祭の前まで、あそこで三人、よく企画を詰めていた。晃が芝の上に横になって、さつきがノートを広げて、澪が立ったまましゃべる。さつきのノートにはレシピの走り書きと、矢印と、丸で囲った単語が散らばっていた。澪は座らなかった。座ると考えが止まる気がした。



 今は、決めなければならないことがある。



 スマホに『自販機』と打って、送信した。二人に。同時に。



 図書館の自動ドアが開いて、十一月の空気が入ってきた。冷たかった。丘の上のキャンパスは風が抜ける。坂を下れば少しましになるが、自販機はその途中にあった。



   *



 自販機の前で、三人は鉢合わせた。



 R棟の裏手、屋根のない踊り場に自販機が二台並んでいる。坂の中腹で、ここからは学食の屋根と、その向こうに広がる昭和区の住宅街が見える。遠くに名古屋高速の高架がかすんでいた。



 百円玉を入れて、ボタンを押した。缶が落ちてくる音が三回した。さつきはココア。澪はブラックの缶コーヒー。晃はコーンポタージュ。



 さつきがプルタブを開けながら、口を開いた。



「再生は回ってるのに、登録が減らないんだよね。文化祭の一発ネタって、普通は見て終わりじゃん。なのにまだ増えてる」



 一拍置いて、さつきは缶を傾けた。



「——なんか、変な感じしない? 数字は出てるのに、こう、自分が追いついてない感じ」



「何が」



「バズったあとって、こんな感じなんだって。現実感がないっていうか」



「現実感はある」と澪が言った。「ただ、まだ整理がついてない」



「同じじゃん」



「違う」



 短い沈黙があった。さつきは反射で「同じ」と言ったが、澪の言い方でわかった。澪は「感じ」の話をしていない。「状態」の話をしている。



 さつきは缶を両手で包むようにして持った。温かかった。文化祭の三日間、ずっと火の前にいたから、寒さに気づいていなかった。今、十一月の風が指先に触れて、初めて季節が進んでいたことを知った。



 澪がさつきの方を見た。缶コーヒーはもう半分飲み終わっていた。澪は飲み物を手に持ったまま放置しない。手に取った以上、さっさと飲む。



「チャンネル名、変えた方がいいと思う」



「なんで」



「続けていく器じゃない」



 さつきが缶を持ったまま、少しだけ眉を寄せた。「北山大学自炊研究会」という名前は、さつきがつけた。新歓の前日、この部室で一人で考えた。候補を五つ書いて、四つ消して、残った一つ。



「続けていく気で、つけたんだけど」



「知ってる」と澪が言った。「だから変えた方がいい。あの名前は、サークルの名前だ。俺たちが今やろうとしてるのは、それとは別の何かだと思う」



 さつきは少し黙った。否定する言葉を探したけど、見つからなかった。澪が「知ってる」と言ったことで、否定の入口が塞がっていた。知った上で言っている。それはわかった。



「別の何か、って何」



「まだわからない」



 澪はそう言って、缶を口に運んだ。迷っている顔じゃなかった。「わからない」は保留じゃなく、正確な現状報告だった。わかったら動く。その手前。



 さつきはそれが少し、悔しかった。自分はまだ余韻の中にいるのに、澪はもう次を見ている。その速度の差が、苛立ちではなく悔しさになるのは、澪が正しいとわかっているからだった。



 晃は何も言わずに缶を開けた。



 炭酸の抜ける音がした。コーンポタージュに炭酸は入っていない。プルタブを引いた時の、缶の中の空気が抜ける、あの小さな音。三人の間に、小さな余白が生まれた。



 誰も埋めなかった。



 晃はその余白が、嫌いじゃなかった。澪の言う「別の何か」が形になった瞬間、さつきのメッセージに返した瞬間、この余白は埋まる。そうしたら、もう後戻りできない。



 通知がまた鳴った。



 晃は画面を見なかった。



 坂の向こうに、パッヘスクエアの芝生が見えた。三人がいつも企画を詰めていた、あの広場。今は誰もいない。十一月の風が、静かに芝を揺らしていた。芝の色は夏の緑を失って、黄色みがかっていた。



 さつきが口を開いた。



「場所、借りられそうなとこ、一個だけ見つけた」



 澪の目が動いた。晃は缶を持ったまま、さつきを見た。



 さつきは続けなかった。ただ、言った。それだけだった。



 でも三人は、もうわかっていた。



 余白が、少しだけ狭くなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ