8.
秋の実りが畑に広がり、緑だった草木がゆっくりと色づき始めていた。
陽射しはやわらぎ、風は少しだけ冷たくなり、季節が確かに移ろっていくのが分かる。
この町で暮らすようになってから、ルカはよく笑うようになった。
朝、市場へ向かう石畳の上で。
洗濯物が風に揺れる裏路地で。
パン屋から漂ってくる焼きたての匂いに、足を止めたときにも。
大きな声で笑い、走り、時には悔しそうに怒って、そしてすぐに忘れる。
決して、楽な生活ではない。
朝は早く、ルカを寝かしつけた後は、夜更けまで内職を行う。
余裕などほとんどない。
それでも、不思議と苦しいとは思わなかった。
ここには、選んだ日常がある。
守り抜いた時間が、静かに息づいている。
前世で身につけた編み物の技術が、思いがけず役に立った。
夜な夜な編んだレースは、最初は自分たちのためのものだったが、やがて評判になり、少しずつ注文が入るようになった。
手間はかかるが、誤魔化しのきかない仕事だ。
いつしか、私の編むレースは、この街の名産品の一つとして扱われるようになっていた。
時折、マリアの商会から農作物が届く。
見慣れない野菜や、扱いに困る食材。
それらをこの土地の人が食べやすい形に調理し、簡単なレシピを書いて渡す。
それがまた、次の仕事に繋がっていった。
ルカは街の子供たちと走り、喧嘩をし、また遊ぶ。
泣いて帰ってくる日もあれば、泥だらけで笑っている日もある。
誰も、彼の過去を知らない。
伯爵家も、夜の馬車も、父親と共に断罪される運命だったことも。
すべては、遠い話だ。
ルカにとって、三歳の頃の大冒険は、もはや記憶の奥に沈んでいるだろう。
それが、何よりだった。
私は働き、ルカは育ち、日々は淡々と続く。
前世の記憶は、少しずつ「思い出」へと変わっていった。
そして、ある日のことだった。
夕暮れが家の中にゆっくりと入り込み、窓辺の影が長く伸びていた頃、扉が静かに開いた。
「母さん」
呼びかける声は、もう少年のものではない。
落ち着きがあり、少しだけ緊張を含んだ、大人の声だった。
「おかえりなさい。どうしたの、改まっちゃって」
ルカは戸口に立ったまま、一瞬言葉を探すように視線を伏せた。
今年で二十歳。
この町に新しくできた商会で働き始めて半年が過ぎる。
仕事ぶりは悪くない、と聞いている。
覚えていないはずの過去が、どこかで彼を支えているのかもしれない。
「明日の晩御飯の時さ……」
小さく息を吸い、
「紹介したい人が、いるんだ」
それだけで、十分だった。
私は手を止め、彼の顔を見る。
迷いと覚悟が、同時にそこにあった。
「家に、連れてきてもいい?」
一瞬の沈黙。
けれど、それは躊躇ではなかった。
「ええ。もちろんよ」
そう答えると、ルカの表情が、ふっと緩んだ。
肩から力が抜けたのが、はっきりと分かる。
その夜、彼が連れてきた女性は、とても朗らかな人だった。
場に合わせる柔らかさと、自分の足で立っている強さを併せ持っている。
短い挨拶と、いくつかの言葉。
それだけで、十分だった。
扉が閉まり、家の中に静けさが戻る。
片付けをしながら、ルカがぽつりと尋ねた。
「……どうだった?」
「とても素敵な人ね」
飾らない言葉を、そのまま渡す。
それでいい。
ルカは深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「……よかった」
夜。
灯りを落とした台所で、私は一人、椅子に腰を下ろす。
前世では、畳の上で静かに目を閉じた。
やり切ったと思える人生だった。
今世は、ずいぶんと忙しかった。
逃げて、働いて、選び続けて。
けれど――
この子が自分の人生を連れてくるところまで、見届けることができた。
それだけで、十分だ。
胸の奥に、静かで確かな温かさが広がる。
人生は、派手じゃなくていい。
ちゃんと生きて、
ちゃんと選んで、
ちゃんと幸せになる。
(……今世でも、またおばあちゃんになれそうね)
その思いを胸に、私は静かに目を閉じた。




