7.
月のない夜だった。
雲が空を覆い、星の光さえ届かない。
灯りを持たずに歩くには、かえって都合のいい闇だった。
私は、いつもと同じ外套を羽織り、いつもと同じ時刻に屋敷を出る。
特別な支度は何もない。
使用人たちにとっては、ただの「外出」。
それ以上でも、それ以下でもない。
明るい部屋で、私はもう一度ルカの顔を確かめた。
眠気を含んだ瞳、柔らかな頬。
まだ小さな身体を抱き寄せ、そっと腕に力を込める。
「だいじょぶ?」
何かを感じ取っているのだろう。不安そうな声音だった。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
そう答えると、ルカは小さく頷き、私の肩に額を寄せた。
廊下は静まり返っていた。
夜の出入りは、これまで何度も繰り返してきたことだ。
その一つ一つが、すべて今夜のための積み重ねだった。
私はいつも通りの足取りで、堂々と門へ向かう。
ディートリヒには、いつもの場所で銀貨を渡し、自然に別行動を取った。
私は、振り返らなかった。
追われない理由は、すべて揃っている。
伯爵は私に興味がない。
執事は気づいていない。
護衛騎士は、いつもの「密会」だと思っている。
衛兵は、記録を流し見するだけ。
母親が子供を連れて消える。
その発想自体が、この屋敷にはきっと存在しない。
町外れの小さな部屋に入ると、私はすぐに明かりを落とした。
ここは、最後の準備をする場所だ。
ルカを椅子に座らせ、私は自分の髪を掴む。
長く、手入れされた伯爵夫人の髪。
きつく一つに縛り、根元に刃を当て、一息に切った。
躊躇はなかった。
切り落とした髪を布で包み、箱に収める。
もちろん、服も着替えた。
身体の線が出ない、男女どちらとも取れる装い。
ルカには、年齢より少し幼く見える女の子の服を着せた。
最後に、かつら。
(女の子の格好をすると、うちのコは絶世の美少女ね)
鏡に映るのは、もう伯爵夫人ではなかった。
どこにでもいる旅人と、その娘。
切った髪は、事前に調べていた店に売った。
そのまま、本日最後の乗り合い馬車に乗り込む。
席に腰を下ろし、ルカをそっと抱き寄せた。
馬車が動き出しても、私の呼吸は浅いままだ。
――ここは、まだ伯爵領。
暫くすると、腕の中からルカのすぅすぅという小さな寝息が聞こえてきた。
慣れない馬車の中でも、こうして眠ってくれたことに、胸の奥がわずかに緩んだ。
やがて空が白み始め、遠くに城壁と門が見えてくる。
伯爵領の境だ。
門を越え、馬車が先に進むにつれ、その輪郭は少しずつ遠ざかっていく。
それがはっきりと視界に収まった瞬間、
思わず、長い息が口から漏れた。
越えた。
完全ではないが、確実に一歩。
そこからは、馬車を乗り継ぐ旅が続いた。
一日中揺られ、休み、また揺られる。
辺境伯領の主要な街へ辿り着くまで、三日。
途中、マリアから買った干し芋を、ルカと分け合った。
「これ、あまいね」
「ええ。ゆっくり噛むと、もっとね」
慣れない道に、慣れない馬車。
途中でぐずることもあったが、ルカは最後まで耐えた。
小さな身体で、よく頑張ったと思う。
大きな町の門が見えたとき、私はようやく肩の力を抜いた。
――けれど、肝心の人物には、なかなか会えなかった。
街は広い。
探し方が悪いだけだ。
そう言い聞かせても、胸の奥には、別の考えがじわじわと滲んでくる。
――もう、ここにはいないのではないか。
否定しようとするほど、その不安は形を持つ。
私の気配が伝わったのか、ルカは夜になると泣くようになった。
慣れない寝床、慣れない音、慣れない人の流れ。
そこに私の焦りが重なり、眠れない夜が続いた。
睡眠不足のせいか、思考は少しずつ悪い方へ転がっていく。
もし、ここで見つからなかったら。
もし、判断を誤っていたら。
三日目の朝。
ルカは目を覚ますなり、私の顔を見ると、ぎゅっと抱きついてきた。
私の表情に、何かを感じ取ったのだろう。
「いたいの、ないない」
小さな手で、私の背中を撫でる。
「ルカが、いるからね。だいじょうぶ」
その仕草に、胸が締め付けられた。
目の前の景色が、じんわりと滲む。
――そうだ。ルカがいる。
それだけで、十分だった。
彼さえいれば、何も問題ない。
隣国へ渡る方法は、ほかにもいくつもある。
あと四日。
ひとまず、この街で一週間過ごす。
それでも会えなければ、別の道を探せばいい。
「ありがとう、ルカ。大好きよ。私の宝物」
そう言って額に口づけると、ルカはくすぐったそうに笑った。
その日の午後。
市場の外縁を抜けようとした、そのときだった。
「……エレノア」
聞き慣れた声。
足を止め、顔を向ける。
マリア・ロッサだった。
荷の確認をしていたらしく、帳簿を閉じてこちらを見る。
驚いた様子はない。
「本当に来たのね」
「ええ」
溢れ出しそうな感情を抑え込み、その一言をなんとか絞り出す。
彼女はルカにも視線をやった。
「よく頑張ったわね」
「うん!」
「小さな騎士様が守ってくれたのよね。ありがとう、ルカ」
正直、この数日はきつかった。
最善の選択をしたはずなのに、ルカの涙を見るたび、申し訳なさが積もっていった。
それでも、見慣れた顔を見た瞬間、胸の奥が緩み、泣きそうになる。
でも、まだゴールじゃない。
「なら、問題ない」
マリアは顎で荷馬車を示す。
「昼前に出る。境界を越えてからは、自己責任よ」
「分かっています」
短い沈黙。
「乗せてもらう条件は?」
「今はいいわ。隣国に入ってから、話しましょう」
私は深く頷いた。
ルカの手を握る。温かく、確かな重み。
見上げてくる瞳に、静かに笑い返す。
境界を越えたあとの道は、驚くほど平凡だった。
馬車は一定の速度で進み、昼に止まり、夜に休む。
誰も追ってくる気配はないし、商会員の誰も詮索してこない。
焚き火を囲む時間が増えると、声をかけられるようになった。
「それ、どうやって食べるのがいいと思う?」
「水で戻して刻んで、芋と一緒に煮るのはどうかしら。
油があれば、軽く炒めてもいいわね」
ルカも一緒に手伝い、はしゃぎながら鍋を覗き込む。
「……柔らかいな」
「腹にたまる」
豆や、余ったパン。
それらは潰して焼く。乾かして保存する。甘味があれば、菓子にもなる。
この世界ではあまり知られていない調理法も、
私の知り得る範囲で言葉にして伝えた。
特別な技術ではない。
ただ、暮らしの中で身についた、当たり前の工夫だ。
そうした積み重ねの中で、私たちは少しずつ受け入れられていった。
お荷物ではない。
それなりに役に立つ人間。
それで、十分だった。
何より、ルカの存在が大きかった。
初めて見るものすべてに目を輝かせ、些細な出来事にも素直に感嘆する。
焚き火の火花に笑い、見知らぬ鳥の声に耳を澄ませる。
その姿は、長旅で疲れた人々の心を和ませ、いつの間にか、この一行の癒しになっていた。
隣国に入ってからのことだ。
ある日の移動の合間、マリアがふと口を開いた。
「子供と暮らすのにちょうどいい町があるわ。
小さいけれど、人手は足りない」
条件は明確だった。
働くこと。
過去を持ち込まないこと。
「ぜひ、お願いします」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
それから私とルカは、町外れの小さな家に住んだ。
大きくも、新しくもない。
けれど、風は通り、陽は入る。
生活をするには、十分だった。




