5.
逃げるための準備は目立ってはいけない。
私が次に準備を始めたのは――習慣だった。
私は外出の時間を、少しずつずらしていった。
昼から夕方へ。
夕方から薄暮へ。
そして、夜。
もちろん、毎回きちんと帰る。
それが、何よりも重要だった。
人は異変には敏感だが、繰り返しには鈍くなる。
夜に出て、夜に戻る伯爵夫人。
それが数度続けば、「そういうもの」として受け止められる。
護衛騎士のディートリヒも、最初こそ訝しんだ様子を見せたが、やがて何も言わなくなった。
「今夜もですか」
「ええ。風に当たると、よく眠れるの」
説明は、それだけ。
加えて、いつもの小袋。
銀貨が数枚。
それで十分だった。
私とルカは、夜道を歩く癖をつけていく。
前世とは違い、この世界で子供を連れて夜に出歩くのは危険だ。
けれど、それにも慣れなければならないし、何より夜の街を把握しておく必要がある。
それは、脱出のためであり、ルカのためでもあった。
「くらいね」
「でも、ちゃんと見えるでしょう?」
「うん……みえる。あ、とりさん!」
暗闇に泣かない。
手を離さない。
それだけで、十分だった。
門番たちの対応も、次第に雑になっていく。
記録は簡略化され、確認は形だけになる。
――必ず戻る人間は、警戒されない。
その頃には、私とマリアたちの付き合いも半年を越えていた。
彼女たちは夫の領地を拠点に、方々を巡りながら新しい商品を探している。
数日姿を見せないこともあれば、何事もなかったように戻ってくることもある。
商人は、場所ではなく態度で信用を積む。
ある日、私は口火を切った。
「隣国まで、乗せてもらえたりするのかしら?」
マリアは即答しなかった。
帳面に目を落としたまま、数呼吸置いてから口を開く。
「可能ではあるわね」
そして、続けた。
「――ただし、この街からはダメ」
予想通りだった。
「厄介事は抱え込みたくないし、商人は火種を積まない」
とても現実的で、好感の持てる答えだ。
「二か月後、私たちはこの街を立つ予定にしている。そのあと、辺境伯領で一月ほど滞在する」
私は、ゆっくりと頷いた。
(つまりは、そういうこと)
その一月の間に、辺境伯領へ辿り着けばいい。
明確な約束はない。
けれど、道は示された。
「分かりました」
それ以上は求めない。
マリアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「無理に約束を取りに来ない人は、長生きするわよ」
「ええ。私、長生きする予定なの。ね、ルカ」
「でしょうね」
手をつないだルカは意味が分からず、私とマリアを不思議そうに見上げている。
その表情が可笑しくて、私たちはほんの少しだけ笑い合った。
帰り道、ルカが私の手を握る。
「かあさま、僕もいっしょ?」
「ええ。母様とルカは、ずっと一緒よ」
「そっか」
安心したような息が、ルカの口から零れ落ちる。
白い息が夜空に溶けていった。
屋敷に戻れば、いつもの空気。
誰も、何も聞かない。
――哀れな伯爵夫人は、夜に出て、夜に戻る。
クラリスの学園入学まで、残りは約一か月。
マリアたちの出立も、同じ頃だ。
期限は、一本の線になった。
夜は、味方につけた。
あとは、その線の上を外れずに歩くだけ。
静かに。
確実に。
――戻らない日のために。




