2.
最初にやったことは、とても地味なことだった。
ルカと毎朝、同じ卓に着き、朝食を取る。
それだけである。
子供部屋の前で軽くノックをし、乳母と侍女に迎えられて中へ入る。
整いすぎるほど整えられた室内は、伯爵家の子供部屋として非の打ち所がなかった。
豪奢な揺り椅子、柔らかな絨毯、几帳面に並べられた玩具。
その中央で、ルカは乳母に手伝われながら着替えをしていた。
「おはよう、ルカ」
声をかけると、彼は顔を上げ、少し考えるようにしてからこちらを見る。
「……はよ?」
短いけれど、はっきりした声だった。
「ええ。今日もいいお天気よ」
「そと?」
「そう。太陽がお顔を出しているわ」
ルカは納得したように頷き、また着替えに意識を戻した。
その様子を見て、私はそれ以上踏み込まない。
無理には触れない。
距離を詰めすぎない。
それだけは決めていた。
食事は、なかなかに大変だった。
そもそもこの世界には、子供用の食器という発想がほとんどない。
私はさりげなく皿を引き寄せ、肉や果物を一口大に切る。
直接食べさせるのが当たり前なのか少し迷い、結局、小さな匙を手渡した。
ルカは不思議そうにそれを見つめたあと、器用に掬って口に運ぶ。
翌日も、その次の日も、私は同じ時間に部屋を訪れ、挨拶をし、一緒に食事を取った。
三日目のことだった。
庭へ向かう途中、私が歩調を緩めると、ルカが自然と隣に並んだ。
「いっしょに、いい?」
そう言って、何のためらいもなく小さな手を差し出してくる。
私はその手を取った。
まだ柔らかく、少し温度の高い手だった。
軽く握ると、今度は向こうがぎゅっと握り返してくる。
「あるくの、はやい」
「じゃあ、ゆっくりにしましょう」
「うん」
噴水の前で立ち止まると、ルカは目を丸くした。
「みず、でてる」
「きれいね」
「うん。おおきい」
それからは、質問が途切れなかった。
「あれ、なぁに?」
「なんで、ひかってるの?」
私は一つずつ、丁寧に答えた。
絵本を読み始めたのは、それから数日後のことだ。
夕方、ほんの短い時間だけ。
私は椅子に座り、ルカはその隣に腰を下ろす。
「むかし、むかし?」
「そう、昔々」
読み始めると、すぐに声が飛んでくる。
「それ、どうなったの?」
「つづき、ある?」
話を止められても気にしない。
問いに答え、また物語を進める。
ある日、読み終えたあと、ルカは拙い言葉で今読んだ本の内容を説明してくれた。
順序はめちゃくちゃだったけれど、ちゃんと物語を理解している。
(記憶力いいわね。すごいわ!うちの子)
親バカで結構。
数週間も経つ頃には、周囲も私の行動が一時の気まぐれじゃないことに気づき始めた。
乳母は戸惑い、侍女たちは視線を交わす。
やがて、ひそひそと声が立つようになった。
「奥様、最近……坊ちゃまに随分と」
「旦那様に相手にされないから、依存しているんじゃない?」
(あら、便利)
私は心の中で、そう思った。
その噂以降、私はあえてルカとの時間を増やした。
食事も、散歩も、絵本も一緒。
人目がある場では、少し大げさに息子を可愛がる仕草も混ぜる。
やがて、この話は執事長の耳にも入った。
「奥様。……ほどほどになさいませ」
「ほどほど、とは?」
「坊ちゃまは跡取り。情をかけすぎると……」
「死にますか?」
執事長は言葉に詰まり、
「……いいえ」
「でしたら、問題ないわね」
それ以上、何も言わなかった。
言えるはずもない。
このやり取りは、当然、夫にも伝わっている。
けれど返ってきたのは一言だけだった。
「好きにさせておけ」
(ええ、そうよね)
私は知っている。
前世で遊んだ乙女ゲームの断罪シーンを。
壇上で淡々と語られるヒロインの言葉を。
――父は、屋敷の奥で自分と年齢の変わらない女たちを侍らせていた。
――それが普通だと思わされて育った。
当時は演出だと思っていた。
悪役を強調するための設定だと。
けれど今なら分かる。
(あれは、事実だったのね)
アフターストーリーにはさらりと書かれていた。
伯爵は正妻にも嫡子にも無関心で、裏で娼館に入り浸っていたこと。
跡取りが生まれた時点で、彼の役割は終わったこと。
無関心は今の私にとっては幸運だわ。
――旦那様に相手にされないから、坊ちゃまに依存している奥様。
結構。
その方が都合がいい。
同情は監視を鈍らせる。
誰も、母親が子供と過ごす時間を疑わない。
その陰で、ルカは私を完全に「母親」だと認識した。
転んでも私を見る。
手を取れば握り返す。
夜、子供部屋の前で、そっと声をかける。
「おやすみ、ルカ」
眠たそうに目をこする姿に、静かに愛情が積もっていく。
(物語は、もう私の知っている通りには進まない)
噂は盾になる。
無関心は時間をくれる。
期限は一年。
この一年を、誰にも邪魔させない。




