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伯爵視点:揺るがないはずだったもの

妻が消えたと聞いたとき、アルベルト・ヴァルディエール伯爵は、正直どうでもよかった。


「……逃げたか」


 どうせ不倫だ。

 あの女は愚かで、世間知らずで、男に甘い。


(騙されたんだろう)


 顔だけは悪くなかった。

 年の割に幼い顔立ちだったから妻にしてやったが、中身は所詮その程度だ。


(だが、どうせ生きてはいけない)


 貴族社会しか知らない女が、子供を連れて外へ出る。

 それも、この近くの街程度なら、相手の男もしれている。


 数日もすれば、泣きながら戻ってくるだろう。

 縋りつき、許しを乞い、情けなく頭を下げて。


 そのときは、どうしてやろうか。

 年を食った女には基本興味はないが、あいつはなかなかいい顔をしている。


 そう思うと、思わず舌なめずりをした。


 ――だが、その余裕は、裏の人間からの報告で崩れた。


「伯爵様……」


 裏稼業を任せている男が、妙に歯切れの悪い顔をしている。


「最近、金の流れが……それから……」


「何だ」


 促すと、男は言いづらそうに続けた。


「お嬢様が……何かに勘づいて、裏で動いているようです」


 伯爵の眉が、ぴくりと動いた。


「……誰が?」


「クラリス様です」


 一瞬、理解できなかった。


(裏切り?)


 あの娘が?

 自分の血を引く娘が?


 ただの小娘だ。

 顔も体も一級品だが、所詮は学生。何ができるというのか。


「ふざけるな」


 だが、続く言葉で血の気が引いた。


「学園に通う高位貴族と、かなり親しくしているようで……」


 伯爵は、椅子を蹴って立ち上がった。


(ふざけるな!)


 あれの純潔を散らすのは、私の役目だ。

 他の男に触れさせるつもりなど、最初からなかった。


 もしや、あの愚かな妻が、何か吹き込んだのか。

 だから家を出た。

 だから、娘までおかしくなったのか。


 嫉妬して、娘を私に近づけさせないよう小細工していたことは知っている。

 だが、それを放置したせいで、調子に乗ったというわけか。


 怒りに任せ、伯爵は学園へ向かった。

 なりふり構わず、だ。


 二日の距離など関係ない。

 王都にある私邸へ立ち寄り、そこから学園へ。

 校門で止められても、力で押し切った。


 その先にいたのは――。


 教師に呼ばれたのだろう。

 娘が、こちらへ歩いてきた。


「父上、ここは学園です」


 クラリス。


 そして、その一歩前に立ちはだかる、公爵家の若造。


(ふざけるな。あれは、私のだ)


「これ以上近づくなら、穏便な対応は難しくなります」


 低く、だが迷いのない声。


 ――守られている。


 その事実に、伯爵の喉がひくりと鳴った。


「……娘と話をしに来ただけだ」


 吐き捨てるように言ったが、


 レオンハルト・アルヴァインは、その言葉を鼻で笑った。


「それにしては、ずいぶんな態度だ」


「なにを……」


 思わず、拳を強く握りしめる。


 なぜだ。

 なぜ、こんな若造に、こんな態度を取られなければならない。


(まさか……)


 裏の報告にあった、懇意な相手。

 もしや、それが――こいつか。


「あなたと話すことはないわ」


 凛とした声が、はっきりと響いた。


 娘の声だ。

 だが、そのあまりの強さに、一瞬、理解が遅れる。


 周囲がざわめいた。


「私は、この場であなたと話すことはない。あなたのもとへも、帰らない」


「何を……」


 言い返そうとした、その瞬間だった。


「近々!」


 伯爵の声を遮るように、レオンハルト・アルヴァインが声を張り上げた。


「近々、書状が届きます。あなた宛に。王宮から届く、正式な書状です」


 周囲のざわめきが、一気に跳ね上がる。


 ――王宮?


 なぜだ。

 自分のやってきたことは、まだ知られていないはずだ。


 高々学生が、数か月で証拠を握れるはずがない。

 ましてや、王族など。


 そんな訳はない。

 そう心のなかで打ち消す。


 だとしたら、クラリスとレオンハルトの、この自信はなんだ。


(知られて、いるのか……?)


 王族に?


 ぐらり、と。

 地面が揺れたような感覚がした。


「……なぜ……そんな……」


 口からこぼれ落ちたのは、かすれた呟きだけだった。


 レオンハルトと教師が、クラリスにこの場を離れようと声をかけた。


 だがクラリスは、そっと首を振る。


 自分の肩に添えられていたレオンハルトの手を、やさしく外し、

 一歩だけ、父親へと歩み寄った。


 その距離は、近い。

 けれど、もう決して届かない距離でもあった。


 そして――

 周囲には聞こえないほどの、小さな声で告げる。


「私のお母様は、とても素敵な方よ。二人とも」


 ――二人?


 頭が、真っ白になる。


「まぁ、実の母には、ほとんど会ったことがないけれど」


 そう言って、クラリスは小さく肩をすくめた。


 伯爵は、泳ぐ目で娘の真意を探ろうとする。

 だが、その意味を掴むことはできなかった。


「エレノア様は、すばらしいわね」


 はっきりと、楽しげに。


「あなたを、見事に出し抜いてみせた。最初から、最後まで」


 そして、決定的な一言。


「彼女の大事なものを、守るために」


 伯爵は、笑おうとした。


 ありえない。

 あの女が、自分を出し抜くなど。


 考えたこともない。


(あの女の大事なものなど、決まっている)


 ――私だ。


 いつも、自分の関心を引こうとしていた。

 いつも、視線を向けていた。

 いつも、縋るようにしていた。


 ……本当に?


 それは、いつまでの話だ。


 ここ最近、あの女はどうだった。

 最後に、まともに会話を交わしたのは、いつだ。


 思い返そうとして、何も出てこない。


 現実が、静かに、だが確実に崩れ落ちていった。


 学園を出たあと、伯爵はふらふらと屋敷へ戻った。


 馬車の中で、何も考えることができなかった。

 窓の外の景色は流れているのに、頭の中だけが止まっている。


 屋敷に着くと、足は無意識にエレノアの部屋へ向かっていた。


 ――いない。


 何度見ても、いない。


 部屋は整ったままだった。

 何かが減っているのかもしれないが、それすら、自分には分からなかった。


(……戻るはずだ)


 あの女は、自分を好きだった。

 離れられるはずがない。

 この屋敷も、この生活も、自分も。


 そう、信じていた。


 そのとき。


「伯爵様!!」


 執事が、蒼白な顔で駆け込んでくる。


「王宮の衛兵が……!」


「門を、突破してきました!!」


 耳鳴りがした。


 意味が、分からない。


「……夢だ」


 そうでなければ、困る。


 自分が見下していた女に、

 すべてを見抜かれ、切り捨てられたなど。


 ――ありえない。


 ありえないはずなのだ。


 だから伯爵は、崩れ落ちる現実の中で、

 何度も、何度も言い聞かせる。


 これは夢だ、と。

 目が覚めれば、すべて元通りだ、と。


 そう信じなければ、正気ではいられなかった。


 あの女は、今でも自分を愛している。

 あの女の世界は、自分だけだ。


 ――そう、最後まで思い込んだまま。

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― 新着の感想 ―
 転生者は別に神様なんかじゃない。だからその手を掴めるだけを救えるならそれでじゅうぶんで。  悪い奴だけが報いを受ける。良いですね。
逃亡に至るまでをこんなに丁寧に綿密に描いた作品は初めて見ます。 地に足ついた主人公の人生の物語が、短い中でもとても濃厚で読み応えがありました。 ルカくんが素敵な青年に育って未来のお嫁さんを連れてきた場…
完勝ヤッター!伯爵まさかの勘違い男!エレノアの知らぬところで追加メンタルダメージ与えてて愉悦がすごい。 クラリスがまさしくヒロインで、かつ幸せを掴み取れそうで嬉しさ倍増です。
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