1.
「……あらあら」
思わずそんな声が漏れたのは、驚愕でも混乱でもなく、ただ状況を受け止めた結果としての、ごく率直な感想だった。
私は、確かに死んだはずなのだ。
日本で。
長年住み慣れた自分の家で。
朝ごはんの支度を済ませ、散歩にいく夫を送り出し、縁側に腰を下ろして湯呑みを手に取り、いつものように穏やかな時間を過ごしていた、その日のことだった。
「ちょっと横になろうかしら」
そう言って畳にごろんと身体を横たえた。
ほんのひと休みのつもりだった。
――そして、そのまま、だった。
息が苦しくなることもなく、胸が締め付けられることもなかった。
恐怖も、後悔もない。
心残り?
特に思い当たらない。
だって私は、自分で言うのも何だけれど、本当にやり切ったのだ。
仕事をしつつも子供を育て上げ、その子供たちが親になり、今度は孫を育てる側になった。
時代が進めば、新しい楽しみも増えた。
漫画やゲームには歳を重ねてから嵌まり、周りのご夫婦が定年後の旅行を楽しむ中、私たちは夫婦でよくゲームを楽しんだものだ。
孫に勧められて始めた乙女ゲームは、想像以上に物語が作り込まれていて、なかなか面白かった。
推し?
いたわよ。
攻略対象ではない、少し影のある、報われなさそうな脇役騎士。
マリオも本当によくやった。
最初はコントローラーが重くて指がつりそうになったけれど、慣れてしまえばこちらのものだった。
スターを取って無敵になり、必死になるお父さんを孫と一緒にからかいながら画面の中を駆け回る時間は、実に愉快だった。
――人生、楽しかった。
胸を張ってそう言える、静かで満ち足りた最期だった。
……なのに。
(どうして、こんな天蓋付きベッドに寝てるのかしら)
ゆっくりと視線を動かす。
目に入ったのは白を基調とした豪奢な寝室だった。
装飾の施された天井、重厚なカーテン、磨き込まれた家具。
視界の端に映る自分の手は若い。
張りのある肌。
かつて見慣れていた、年齢を重ねた手とはまるで違う。
ああ、と、ようやく納得がいった。
(これは、あの転生ね)
最近の流行りだもの。知っている。
孫が読んでいた小説の中にも、確かにそういう話があった。
問題は――どこに転生したか、ね。
記憶がゆっくりと、しかし確実に繋がっていく。
ここは乙女ゲームの世界。
私はヒロインではない。攻略対象でもない。
ヒロインの継母。
しかも、断罪される側。
「……それは聞いてないわねぇ」
思わず小さなため息がこぼれた。
この身体の名前は、エレノア・ヴァルディエール。
二十八歳。伯爵夫人。
夫は、アルベルト・ヴァルディエール伯爵。
結婚前は確かに優しかった。
まあ、あれだ。だいたいこういう人は結婚前は優しい。
結婚後は精神的にじわじわと削ってくる。
金で縛り、自由を奪い、気に入らないことがあれば手も出る。
(はいはい、テンプレテンプレ)
妙に冷静な自分がいた。
若い頃ならきっと泣いていた。
自分を責め、耐え、希望を探したかもしれない。
けれど私はもう、一度人生を終えている。
耐えたところで何も変わらないことを、嫌というほど知っている。
極めつきは結婚三年目だった。
七歳の少女を屋敷に連れ帰ってきたのだ。
「俺の娘だ」
それだけ言って。
クラリス。
――乙女ゲームのヒロイン。
私は彼女に関わることを許されなかった。
表向きの理由はいつも曖昧だった。
血のつながらない継母に任せるのは不安だとか、伯爵家の娘として相応しい教育を受けさせる必要があるとか、もっともらしい言葉はいくらでも並べられた。
けれど実際には――私は最初から排除されていた。
世話は夫のお気に入りの侍女が一手に引き受け、私は娘の生活動線からきれいに切り離された。
同じ屋敷に住んでいながら、食事の時間も学びの場もすべて別。
私は、いない者として扱われた。
(……おかしいと思ってたのよ)
今なら分かる。
夫は普通じゃない。
乙女ゲームの中で断片的に語られていた設定が、現実と結びつき、嫌なほど正確に形を成していく。
彼の嗜好ははっきりしている。
恋愛対象は十四から二十歳頃。
それより幼すぎても、成長しすぎても興味を失う。
裏で娼館を営み、しかも平民の娘を攫っている。
不倫相手だと思っていた女性も、きっとそこにいたのだろう。
年齢が合っている間は囲い、二十歳を過ぎたら価値がない。
(胸糞悪いわねぇ)
そして何より胸糞悪いのは、近い将来、彼に巻き込まれて一家丸ごと絞首刑となることだ。
もちろん私も。
クラリスが私から隔離されていた理由も、今なら理解できる。
彼女はとても美しい。
七歳でも光り輝く美しさがあった。
それはそれは伯爵の好みだろう。
血のつながりがあろうとなかろうと、彼にとっては関係ない。
だからこそ、自分の目の届く場所で、自分の信頼する侍女だけに囲わせ、余計な大人――特に私のような存在を近づけなかった。
まるで自分の欲望が動く年齢になるまで、時間をかけて囲っているかのように。
考えただけで背筋が冷えた。
けれど、怒りに任せて動くほど、私は若くない。
大事なのは――段取り。
私の実家は、この家より爵位が低い。
頼れない。
そのとき、ふと意識が現実に引き戻された。
今は朝。
屋敷はまだ静まり返っている。
分厚い壁の向こう、遠く離れた棟から、微かな気配だけが伝わってくる。
それは音ではなく、長年家族と暮らしてきた人間だからこそ感じ取れる、人の存在の気配だった。
侍女と乳母が詰める子供部屋。
そこにいるのは、私の息子。
ルカ・ヴァルディエール。三歳。
まだ私は、ルカと一緒に寝たことも、お風呂に入ったことも、出かけたこともない。
抱きしめた記憶も……あったかしら。
それでも、しっかりと思い出せるあの子の可愛いお顔に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(ルカがいる)
それだけで、答えは出た。
――こんな家、さっさと出ていきましょう。
絞首刑なんて、真っ平ごめんだもの。
ただし、今じゃない。
現金はない。
体力もない。
貴族社会の外を、知らなすぎる。
それに息子はまだ小さい。
何より、私のことを母だと認識しているかも怪しい。
もしかしたら、近所のおばちゃんだと思われていないかしら……。
(ふふっ、夜逃げなんて漫画みたいね)
でも、漫画みたいにうまくいく保証はない。
私は机に向かい、紙を一枚引き寄せた。
「逃げる」
その下に、ゆっくりと。
「期限:一年後」
クラリスが学園に入学する、そのあと。
物語が動き出す前に、静かに消える。
まずは息子。
次に体力。
それから、お金と情報。
前世で仕事も家事も育児も介護もやってきた。
段取りを間違えたら全部崩れることくらい、嫌というほど知っている。
そのとき、扉がノックされた。
「奥様。お目覚めでございますか」
侍女の声。
「ええ」
薄く微笑んで答える。
「お支度をお手伝いさせていただきます」
「ありがとう。……それから、今日からルカの朝食に同席します」
一瞬の沈黙。
侍女の眉が、わずかに動いた。
でも構わない。
(さあ、人生二周目)
おばあちゃんはね。
慌てないし、諦めないし、ちゃんと幸せを取りに行くのよ。




