後日談 砕け散ったガラスの靴と、消えない刻印
一二月の寒風が、薄い窓ガラスをガタガタと揺らしている。
隙間風が容赦なく入り込む、築四〇年の木造アパート。四畳半の部屋には、冷え切った湿気と、カビ臭いような饐えた匂いが充満していた。
布団から出るのが億劫で、私は身体を丸める。毛玉だらけのジャージと、スーパーで安売りしていた薄手の毛布。これが、今の私、川口優奈の世界の全てだった。
「……寒い」
白い息を吐きながら、枕元のスマホに手を伸ばす。画面にはひびが入っているが、修理に出す金なんてない。
時刻は午後一時。昼過ぎまで寝ていられるなんて優雅な身分だと思うかもしれないが、違う。私は夜の仕事をしているから、昼夜が逆転しているだけだ。
習慣とは恐ろしいもので、私は無意識のうちにエゴサーチをしてしまう。
検索窓に『キングス 優奈』『大学 巫女 本名』と打ち込む。
事件から半年以上が経った今でも、ネットの海には私の残骸が漂っていた。
『あのヤリサーの姫、今は風俗落ちしたってマジ?』
『川口優奈の現在www』
『被害者ヅラしてたけど、動画見たら完全に加害者だろ』
『一生許すな』
新しい書き込みこそ減ったものの、まとめサイトの記事は消えることなく残り続け、私の顔写真と本名は、デジタルタトゥーとして永遠に刻み込まれていた。
画面をスクロールする指が震える。
見なければいいのに。見ても傷つくだけなのに。
それでも、誰かが「彼女も被害者だった」と擁護してくれていないか、微かな希望を探してしまう。
だが、そんな甘い言葉はどこにもない。あるのは、冷酷な断罪だけだ。
* * *
あの日、全てを失ってからの転落は早かった。
大学を退学になり、アパートを追い出された私は、泣きながら実家に電話をかけた。
しかし、母の声は氷のように冷たかった。
『お父さんは再就職先が見つからなくて、今は警備員のバイトをしてるの。近所の目もあって、私たちは引っ越すことになったわ。あんたの居場所なんて、もうこの家にはないのよ』
『二度と連絡してこないで。あんたは死んだものと思ってるから』
親子の縁を切られた私は、東京の片隅で路頭に迷った。
友人たちも潮が引くように去っていった。かつて「優奈ちゃん可愛い」とお世辞を言ってくれた子たちは、裏で「あの子と関わると炎上する」と噂し、私のLINEをブロックした。
生きるためには働かなければならない。
私はハローワークに行き、事務職やカフェのバイトに応募した。
最初は面接まで進めることもあった。でも、採用担当者が私の履歴書を見て、ふとスマホで検索をかけた瞬間、場の空気は一変する。
「……君、ネットに出てる『あの事件』の子?」
「え、あ、それは……」
「うちはコンプライアンス厳しいからさ。悪いけど、帰ってくれる?」
ゴミを見るような目。汚らわしいものを追い払うような手つき。
どこの会社に行っても同じだった。私の名前は、社会的に「取扱注意」のレッテルを貼られていたのだ。
まともな昼職に就くことは不可能だった。
結局、私が辿り着いたのは、都心から離れた場末の繁華街にある、安っぽいスナックだった。
『年齢不問、履歴書不要、日払い可』
その言葉に縋るしかなかった。
「おい優奈、酒がねえぞ! 早く作れよ!」
「あ、はい! ただいま!」
店内には、紫煙と脂っこい匂いが漂っている。
客層は最悪だ。酒癖の悪い肉体労働者や、セクハラ発言しかしない年金暮らしの老人たち。
かつて『キングス』で相手にしていた、ブランドスーツを着たエリート学生や、大手企業の役員たちとは天と地ほどの差がある。
「ねーちゃん、いいケツしてんなぁ。触らせろよ」
「きゃっ! やめてください……」
「なんだよ、減るもんじゃねえだろ。ネットで見たぞ? お前、あんな乱交パーティーで股開いてたんだろ? 俺たちにもサービスしろよ」
下卑た笑い声。ねっとりとした視線。
客たちは私が「あの女」だと知っていて、面白がって店に来ているのだ。
悔しくて、惨めで、涙が出そうになる。
でも、ここで働かなければ、明日のパンも買えない。家賃も払えない。
私は引きつった愛想笑いを浮かべ、「やだなぁ、もう」とオヤジの汚い手を払いのける。
これが、私が夢見た東京ライフの成れの果てだ。
「選ばれた人間」になりたくて、「特別な女」になりたくて、幼馴染の翔太を捨ててまで手に入れたかった未来が、これだったのだ。
* * *
仕事が終わるのは朝の五時。
始発前の寒空の下、コンビニで廃棄寸前の弁当を買ってアパートに帰る。
冷え切った部屋で、冷たいご飯を詰め込みながら、私はいつも同じことを考える。
もし、あの日。
須藤先輩に声をかけられた時、「興味ありません」と断っていたら。
もし、翔太の忠告を聞いて、サークルを辞めていたら。
もし、翔太の誕生日を一緒に祝っていたら。
「……翔太」
口に出すと、胸が張り裂けそうになる。
相沢翔太。私の幼馴染。私の元カレ。
そして、私を地獄の底へ突き落とした(と私が勝手に恨んでいた)張本人。
あの日、彼のアパートの前で泣き崩れてから、私は一度も彼に会っていない。
連絡も取れない。彼は完全に私の前から姿を消した。
最初は恨んだ。「どうして助けてくれなかったの」「冷酷な人」と、自分の罪を棚に上げて彼を呪った。
でも、時間が経ち、どん底の生活に慣れていくにつれて、私の心にあったのは恨みではなく、どうしようもない後悔と、未練だった。
彼は今、どうしているんだろう。
新しい街で、新しい生活をしていると言っていた。
もしかしたら、新しい彼女ができているかもしれない。
私よりも可愛くて、素直で、彼のことを大切にする、普通の女の子。
「やだ……考えたくない……」
頭を振って否定しようとするけれど、想像は止まらない。
翔太は優しいから、きっと彼女を大切にするだろう。
記念日にはちゃんとしたレストランを予約して、プレゼントを用意して。
私が「退屈だ」と切り捨てたあの穏やかな時間は、本当は何よりも得難い「幸福」そのものだったのだ。
私は、魔が差したようにスマホを操作した。
以前、裏垢を作るために取得した捨てアドを使って、SNSのアカウントを新しく作った。
名前は適当な記号。アイコンは初期設定のまま。
検索窓に、翔太のフルネームを入れる。
ヒットした。
以前のアカウントは削除されていたが、どうやら就職を機に、ビジネス用のアカウントを開設したらしい。
プロフィールには、誰もが知る大手IT企業の名前と、『新人研修修了』『配属決定』の文字。
投稿は少なかったが、一枚だけ、最近の写真があった。
同期と思われる数人の男女と一緒に、オフィスのテラスでランチをしている写真。
その中心で、翔太は笑っていた。
私が知っている、自信なさげで野暮ったい笑顔じゃない。
髪型は整えられ、仕立ての良いスーツを着こなし、精悍で、自信に満ち溢れた「大人の男」の顔をしていた。
「……嘘でしょ」
綺麗だった。
彼も、彼の周りの空気も、何もかもがキラキラと輝いていた。
それは私が『キングス』で求めていた、薄っぺらで毒々しい輝きとは違う。
地に足のついた、努力と誠実さが作り出す、本物の輝き。
写真の端に、綺麗な女性が写っていた。
翔太の隣で、楽しそうに彼を見つめている。距離が近い。
彼女だろうか? それともただの同僚?
どちらにしても、今の私には、その隣に立つ資格なんて一ミリもない。
画面の中の彼は、もう私のことなんて思い出してもいないだろう。
彼にとって、私との過去は「乗り越えた試練」であり、今はもうバックミラーにすら映らない小さな染みでしかないのだ。
「あ、あぁ……」
スマホの画面に、ポタポタと涙が落ちる。
画面が滲んで、翔太の笑顔が歪む。
私はメッセージを送ろうとした。
『久しぶり。優奈だよ』
『ごめんなさい。私が馬鹿だった』
『会いたい。もう一度やり直したい』
指が震えて、文字が打てない。
送ったところで、どうなる?
「今さら何?」と軽蔑されるか、あるいは無言でブロックされるか。
いや、もっと残酷なのは、「誰ですか?」と忘れられていることかもしれない。
送信ボタンの上で指が止まる。
数分間、私は泣きながら迷い続けた。
このボタンを押せば、もしかしたら。万に一つ、彼が情けをかけてくれるかもしれない。
今のこの泥沼のような生活から、救い出してくれるかもしれない。
「……できない」
私は震える指で、ブラウザのタブを閉じた。
送れるわけがない。
今の私を見てよ。
髪はパサパサで、肌は荒れ、安っぽいスウェットを着て、四畳半のカビ臭い部屋で震えている。
ネットで「ヤリマン」と罵られ、夜の店でオヤジに体を触らせて生きている女。
ガラスの靴は砕けた。
カボチャの馬車はゴミ収集車に変わった。
私はシンデレラじゃなかった。ただの、身の程知らずの愚かな田舎娘だったのだ。
「うぅ……うあぁぁぁ……」
布団に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
後悔の味がする涙が、枕を濡らしていく。
「伝統」とか「団結」とか、あんな甘い言葉に騙されて。
自分を特別だと思い込んで。
一番大切な人を、一番残酷な言葉で傷つけて。
その報いがこれだ。
『あなたとの行為より、サークルの団結の方が重い』
あの日、私が放った言葉が、呪詛のように頭の中でリピートする。
重い。今の私の人生は、鉛のように重くて、暗い。
翔太の愛は、羽のように軽やかで温かかったのに、私はそれを自らドブに捨てたのだ。
窓の外では、雪が降り始めていた。
東京の雪は汚い。すぐに泥と混ざって、黒く濁ってしまう。
まるで私みたいだ。
「……寒いなぁ」
私は身体を小さく丸めた。
この寒さは、一生続くのだろう。
誰の温もりも届かない、孤独という名の牢獄の中で。
私は、かつて自分が捨てた幸せの残像を抱きしめながら、凍えて生きていくしかないのだ。
スマホの通知音が鳴った。
スナックの店長からのLINEだ。
『今日、一人欠勤出たから早めに来れるか? 同伴も頼むわ』
現実は、感傷に浸る時間さえ与えてくれない。
私は涙を拭い、重たい身体を起こした。
化粧をして、「あの事件の女」というピエロの仮面を被らなければならない。
それが、偽りの女王が支払うべき、永遠に続く代償なのだから。




