後日談 王冠は泥にまみれ、番号(ナンバー)だけが残った
「おい、135番。いつまで寝てんだ。点呼だぞ」
鉄格子を警棒で叩く乾いた音が、俺の鼓膜を不快に揺らした。
薄くて硬い煎餅布団。カビ臭い空気。そして、隣の男が発する酸っぱい体臭。
目を開けると、そこはコンクリートの壁に囲まれた、わずか三畳ほどの空間だった。かつて俺が別荘で寝ていたキングサイズのベッドも、ふかふかの羽毛布団も、甘い香水の匂いがする女の肌も、ここにはない。
「……はい」
俺、須藤健人は、力なく返事をして起き上がった。
かつて名門大学のテニスサークル『キングス』の代表として、数百人の学生を従え、夜の街を我が物顔で闊歩していた俺。
親の権力を笠に着て、「俺たちが法律だ」と豪語していた俺。
そんなかつての「王」の姿は、今の俺には見る影もない。
剃り残しの無精髭、伸び放題の髪、そして安っぽい灰色の囚人服。胸元には、名前の代わりに『135』という番号がプリントされている。
それが、今の俺の全てだった。
* * *
あの日、逮捕された直後のことは、正直あまり覚えていない。
ただ、屈辱と混乱の連続だったことだけは覚えている。
取調室で、俺は刑事に向かって怒鳴り散らした。
「俺の親父を呼べ! 親父が来れば、お前らなんか全員クビだ!」
「ここは法治国家だぞ! 冤罪だ! あの女が勝手にやったことだ!」
しかし、刑事は冷ややかな目で俺を見下すだけだった。まるで、道端に落ちた汚物を見るような目だった。
「須藤。お前の父親だがな、面会を拒否しているぞ」
「……は?」
「それどころか、弁護士を通じて絶縁状が届いている。お前の弁護は、国選弁護人が担当することになった」
頭が真っ白になった。
親父が? 俺を見捨てた?
そんな馬鹿な。俺は自慢の息子だったはずだ。有名大学に入り、サークルをまとめてリーダーシップを発揮していると褒めてくれていたじゃないか。
「お前の起こした事件のせいで、父親の会社は株価が大暴落だ。役員も解任されたそうだぞ。『あんな恥さらしは息子ではない』とな」
「う、嘘だ……」
「嘘じゃない。お前はもう『須藤家の御曹司』じゃない。ただの性犯罪者だ」
その瞬間、俺の足元から床が抜け落ちたような感覚に襲われた。
俺が「王」でいられたのは、俺自身の実力なんかじゃなかった。親の七光りと、金という後ろ盾があったからだ。それがなくなった今、俺はただの、世間知らずのガキに過ぎなかったのだ。
それからの日々は、地獄だった。
留置所から拘置所へ移され、そこで待っていたのは、かつての仲間たちの裏切りだった。
俺と同じように逮捕されたサークルの幹部たち。
「一生ついていきます」「代表、最高っす」と尻尾を振っていた連中が、取調室では口を揃えてこう証言したという。
『すべて須藤の指示でした』
『逆らったら退学に追い込むと脅されました』
『僕たちは無理やり手伝わされた被害者なんです』
弁護士からその調書を見せられた時、俺は笑うしかなかった。
乾いた、引きつった笑いだ。
絆? 団結? 伝統?
ちゃんちゃらおかしい。俺たちが共有していたのは、ただの保身と欲望だけだった。泥舟が沈み始めた瞬間、ネズミたちは我先にと逃げ出し、船長である俺に全ての罪をなすりつけたのだ。
そして、裁判。
傍聴席は満員だった。マスコミ、野次馬、そして被害者の家族たち。
俺が入廷すると、一斉にフラッシュが焚かれた。
かつてはスポットライトを浴びるのが快感だった。俺を見てくれ、俺を崇めてくれと思っていた。
だが、今のこの光は違う。俺を焼き殺そうとする断罪の光だ。
検察官が読み上げる起訴状の内容は、吐き気がするほど詳細だった。
集団暴行の数々、脅迫、動画撮影、隠蔽工作。
証拠として提出されたのは、あの別荘で撮影された動画のキャプチャ画像だった。
モニターに映し出される、ニヤニヤと笑いながら優奈に命令する俺の顔。
法廷内から、どよめきと軽蔑のため息が漏れる。
「被告人は、被害女性の人格を完全に無視し、自己の性欲と支配欲を満たすための道具として扱った。その手口は卑劣かつ組織的であり、同情の余地はない」
求刑は、俺が想像していたよりも遥かに重いものだった。
執行猶予なんてつかない。実刑だ。
俺の青春は、いや、俺の人生の最も輝かしい時期は、刑務所の塀の中で費やされることが決定した。
* * *
刑務所での生活は、単調で、過酷で、そして何よりも「惨め」だった。
朝六時半に起床。点呼、清掃、朝食。
朝食といっても、冷えた麦飯と薄い味噌汁、それに漬物が数切れ。かつて高級焼肉や寿司を食い散らかしていた俺の舌には、それは家畜の餌のように思えた。
八時から刑務作業が始まる。
俺が配属されたのは、木工工場だった。一日中、ただひたすらに木材をやすりで削り続ける。
粉塵が舞い、喉が痛くなる。手は豆だらけになり、爪の間は真っ黒になる。
「おい135番、手が止まってるぞ!」
刑務官の怒鳴り声が飛ぶ。
俺は慌てて手を動かす。
ここでは、俺は「須藤健人」ではない。
過去の栄光も、学歴も、親の職業も関係ない。
ただの「135番」という記号だ。
他の受刑者たち――窃盗犯や詐欺師、ヤクザ者――は、俺のことを嘲笑っていた。
「おい見ろよ、あれがあの『ヤリサー』の王子様だってよ」
「へえ、テレビで見たより貧相なツラしてんな」
「女を薬で眠らせて襲うなんて、男の風上にも置けねえクズだな」
食事の時間や休憩時間、彼らは容赦なく俺をいじめた。
足をかけられて転ばされる。食事に唾を吐かれる。
反撃しようものなら、独房行きだ。俺は唇を噛み締め、耐えるしかなかった。
かつて新入生の男子をパシリに使い、女子を玩具にしていた俺が、ここでは最底辺のいじめられっ子だった。
これが因果応報というやつか。神様ってやつは、随分と皮肉なシナリオを用意してくれたものだ。
夜、消灯時間過ぎ。
硬い布団の中で、俺は天井のシミを見つめながら考える。
どうしてこうなった。
どこで間違えた。
あの日。あの「キングス創立記念パーティー」の日。
もし、あの動画が流出しなければ。
もし、相沢翔太という男を甘く見ていなければ。
「……相沢、か」
その名前を口にするだけで、胸の奥が焼けつくように痛んだ。
あいつは、俺たちとは真逆の人間だった。
地味で、真面目で、要領が悪くて。
俺はあいつのことを見下していた。「持たざる者」として嘲笑っていた。
彼女である優奈を奪い、あいつのプライドを粉々に砕いてやったつもりだった。
だが、勝ったのはあいつだ。
あいつは暴力も使わず、権力も使わず、ただ「真実」という武器だけで、俺の王国を壊滅させた。
俺があいつを「退屈な男」と罵っていた時、あいつは虎視眈々と俺の喉笛を狙っていたのだ。
先日、面会に来た国選弁護士が、世間の様子を教えてくれた。
事件から半年以上が経ち、世間のほとぼりは冷めつつあるが、俺たちの名前と顔写真は「デジタルタトゥー」としてネット上に永遠に残っているという。
検索すれば、いつでも俺の犯罪者としての顔が出てくる。
出所したとしても、まともな職に就くことは不可能に近いだろう。
そして、優奈のこと。
彼女は大学を退学になり、実家に連れ戻されたが、居場所を失って行方不明になったという噂があるらしい。
あいつも馬鹿な女だ。俺に利用されているとも知らず、お姫様気取りで舞い上がって。
……いや、違うな。
俺が狂わせたんだ。
普通の大学生だった彼女を、俺の歪んだ欲望のために洗脳し、共犯者に仕立て上げた。
今になって思えば、彼女もまた、俺のエゴの犠牲者だったのかもしれない。
そして、相沢翔太。
弁護士の話では、彼は大学を休学することもなく、インターン先で高い評価を得て、既に内定をもらっているらしい。
新しい街で、新しい仲間と、充実した日々を送っているという。
「ふざけんな……」
涙がこぼれた。
悔し涙じゃない。完全な敗北を認めた、惨めな涙だ。
俺は全てを失った。家族も、友人も、学歴も、未来も。
残ったのは、前科と、一生消えない汚名だけ。
一方、俺が見下していた男は、俺が一番欲しかった「平穏で幸福な未来」を手に入れている。
俺は王なんかじゃなかった。
裸の王様ですらなかった。
ただの、ピエロだ。
* * *
ある日、刑務作業中に古参の受刑者が話しかけてきた。
六十代くらいの、殺人罪で服役している男だ。
「おい、若いの。お前、出所したらどうするつもりだ?」
「……わかりません。何も考えてません」
「そうか。まあ、お前みたいな有名人は大変だろうな。どこへ行っても指差される。親も頼れねえんだろ?」
男は木材を削りながら、淡々と言った。
「俺がここに入って二十年。いろんな奴を見てきたがな、一番タチが悪いのは『自分が悪いと思ってない奴』だ。そういう奴は、出てもまた戻ってくる」
「……俺は、反省してますよ」
「口先だけならなんとでも言える。だがな、お前の目はまだ腐っちゃいねえ。絶望を知った人間の目をしてる」
男は少しだけ手を止めて、俺を見た。
「絶望ってのはな、スタートラインなんだよ。今までお前が着ていた鎧も、武器も、全部偽物だったって気づいただろ? 全部脱ぎ捨てて、素っ裸になって初めて、人間としての本当の人生が始まるんだ」
木屑の舞う工場の中で、その言葉だけが妙に響いた。
スタートライン。
俺にまだ、スタートなんてあるのだろうか。
作業終了のチャイムが鳴る。
列を作って房へ戻る途中、鉄格子の向こうに夕日が見えた。
真っ赤な夕日が、コンクリートの壁を染めている。
あの日、優奈を連れ去った夜に見たネオンの光よりも、別荘のシャンデリアの輝きよりも、今の俺にはこの夕日が眩しく見えた。
俺はまだ二十三歳だ。
刑期を終えて出てくる頃には、二十代後半になっているだろう。
同級生たちは社会で活躍し、家庭を持ち、人生を謳歌しているはずだ。
俺は、マイナスからのスタートだ。いや、マイナスどころか、奈落の底からの這い上がりだ。
それでも。
生きていかなければならない。
「135番」ではなく、「須藤健人」という一人の人間として、犯した罪の重さを背負いながら。
「……相沢」
俺は小さく呟いた。
もう二度と会うことはないだろう。会う資格もない。
でも、もし奇跡が起きて、いつかどこかですれ違うことがあったとしたら。
その時こそ、俺はあいつに頭を下げたい。
許しを乞うためじゃない。
お前こそが、本物の「勝者」だったと認めるために。
「135番! 列が乱れてるぞ!」
刑務官の怒号で、俺は現実に引き戻された。
「はい!」と大声で答え、背筋を伸ばす。
一歩、また一歩。
冷たいコンクリートの上を歩く。
その足取りは重いが、以前のような虚勢で膨らませた軽さは、もうどこにもなかった。
鉄の扉が閉まる重たい音が、今日の終わりと、明日の始まりを告げた。
俺の贖罪の旅は、まだ始まったばかりだ。




