サイドストーリー 偽りの女王、あるいはガラスの靴が砕ける音
四月の東京は、私が想像していたよりもずっと冷たくて、それでいて目が眩むほど煌びやかだった。
行き交う人々はみんな、テレビドラマの登場人物のように洗練されていて、自分だけがフィルムの画質が違うかのように浮いている気がした。
「優奈、大丈夫か? 人混みすごいな」
隣を歩く相沢翔太が、心配そうに私の顔を覗き込む。
高校時代から付き合っている、優しくて真面目な幼馴染。彼のその温かさは、田舎にいた頃は心地よかった。でも、この東京という華やかなステージに立った今、それはどこか「野暮ったい」ものに感じられ始めていた。
「う、うん。大丈夫だよ。翔太こそ、迷子にならないでね」
「はは、子供扱いするなよ」
翔太はユニクロで買ったチェックのシャツに、チノパンという格好。周りの男子学生たちが着ているような、ブランドもののロゴが入ったパーカーや、細身のパンツとは明らかに違う。
私は心の中で小さなため息をついた。
私たちは「上京」したはずなのに、中身はずっと「田舎の高校生」のままな気がして、焦燥感が募る。私は変わりたい。もっと綺麗になって、この街に認められる「特別な女の子」になりたい。そう強く願っていた。
そんな私の渇きを癒やしてくれたのが、テニスサークル『キングス』との出会いだった。
「君、すごい透明感だね。東京の子にはない魅力があるよ」
新歓コンパで声をかけてくれたのは、サークル代表の須藤健人さんだった。
雑誌のモデルみたいなルックスに、少し甘い匂いのする香水。彼が微笑みかけてくれた瞬間、私の中で何かが弾けた音がした。
「透明感」「魅力」。それは私が一番欲しかった言葉だった。
「私なんて、ただの田舎者ですから……」
「それがいいんだよ。君はまだ何色にも染まっていない。俺たちが君を、誰よりも輝く女性にしてあげる」
須藤さんの言葉は魔法みたいだった。
サークルに入ってからの毎日は、まるでシンデレラストーリーのようだった。
先輩たちは私を「優奈ちゃん」「姫」と呼んで可愛がってくれた。練習という名目で高級車に乗せてもらい、見たこともないような夜景の見えるレストランに連れて行ってもらった。
そこで語られるのは、私の知らない大人の世界の話。有名企業の裏話や、芸能人との繋がり。
その話を聞いているだけで、私もその「選ばれた世界」の一員になれたような高揚感を覚えた。
翔太とのデートは、次第に退屈な義務のように感じられるようになった。
ファミレスでドリンクバーを飲みながらバイトの話をする翔太と、シャンパンを飲みながら将来のビジョンを語る須藤さん。
比べること自体が失礼なくらい、世界が違っていた。
「ねえ優奈、最近服装変わったね。ちょっと派手すぎない?」
ある日、翔太が私のミニスカートを見て眉をひそめた。
以前の私なら「ごめんね」と謝っていただろう。でも、今の私は『キングス』の姫だ。
イラッとした感情が胸の奥から湧き上がった。
「翔太は分かってないなぁ。これが東京のトレンドなの。サークルの先輩たちも褒めてくれてるし」
「でも、男の視線とか気になるだろ? 心配なんだよ」
「心配っていうか、束縛でしょ? そういうの、重いって言われない?」
私は冷たく言い放った。翔太の顔が傷ついたように歪むのを見て、不思議と罪悪感はなかった。むしろ、「分かっていない子供」を諭すような優越感すら感じた。
翔太は私を「守る」と言うけれど、それは私を「地味なまま」でいさせようとする檻のように思えた。
須藤さんたちは違う。私を解放し、新しい世界へ羽ばたかせてくれる。
どちらが本当の愛か、答えは明白だった。
決定的な転機は、五月の合宿だった。
夜の飲み会で、私は強いお酒を勧められた。「伝統の儀式」だと言われて、断れるはずがなかった。
意識がふわふわと夢見心地になり、体が熱くなる。
気がつくと、私は須藤さんの部屋にいた。
「優奈、君は美しい。俺たちの絆を受け入れれば、君はもっと自由になれる」
須藤さんの指が肌を滑る。恐怖心はあったはずなのに、それ以上に「選ばれた」という恍惚感が勝った。
その夜、私は複数の先輩たちと関係を持った。
普通なら泣いて逃げ出すような状況かもしれない。でも、彼らは終わった後、私を抱きしめて「よくやった」「これで本当の仲間だ」と褒め称えてくれた。
私の秘密を知り、私も彼らの秘密を知る。その背徳的な共有感覚が、私を特別な存在へと押し上げた。
これが「大人の愛」なんだ。一対一のちっぽけな恋愛なんて、おままごとに過ぎない。
私はここで、女王になったのだ。
* * *
七月。翔太の誕生日。
私は彼との約束をすっぽかして、サークルの集会に参加していた。
須藤さんから呼び出しがあったのだ。「今日は重要な会議があるから、姫のお前がいないと始まらない」と。
翔太とのディナーなんて、どうでもよかった。後で適当に謝っておけばいい。そう思っていた。
遅れて待ち合わせ場所に向かうと、翔太はまだ待っていた。
彼の顔を見た瞬間、私は強烈な違和感を覚えた。
なんて惨めな男なんだろう。彼女に約束を破られても、文句一つ言わずに待ち続けているなんて。プライドはないの?
「……優奈、何があったんだ」
心配そうに駆け寄ってくる彼を見て、私は笑い出しそうになった。
首筋についたキスマークを見ても、彼は「誰にやられたんだ」と怒るのではなく、「大丈夫か」と心配する。
その優しさが、今の私には気持ち悪かった。弱者の戯言にしか聞こえなかった。
「翔太は何もわかってない! これは『キングス』の絆なの!」
私は叫んだ。今まで溜め込んでいた本音を、すべてぶつけた。
「あなたとの行為より、サークルの団結の方が重いなの!」
「あなたとのセックスなんて、ただの退屈な作業だったわ」
言った。言ってやった。
翔太の顔色がさっと青ざめ、言葉を失うのを見て、胸がすっとした。
私はもう、あなたの知っている田舎娘の優奈じゃない。
須藤さんに、キングスに、そしてこの東京という街に愛された、新しい私なのよ。
迎えに来た須藤さんの車に乗り込んだ時、私は勝利の凱歌を上げている気分だった。
バックミラーに映る小さくなっていく翔太の姿を見ても、可哀想だとは微塵も思わなかった。
さようなら、退屈な過去。
私はこれから、光り輝く未来へ行くの。
* * *
そして訪れた、六月の『創立記念パーティー』。
軽井沢の別荘は、まるでお城のようだった。
私は純白のドレス……というよりは薄布を纏い、「巫女」として儀式の中心にいた。
五十人以上の視線が私に注がれる。誰もが私を欲しがり、私を崇めている。
スポットライトの熱さと、アルコールの酔いが混ざり合い、私は自分が女神にでもなったかのような全能感に包まれていた。
「優奈、最高だよ。お前こそキングスの象徴だ」
須藤さんが動画を撮りながら囁く。
私はカメラに向かって、とびきりの笑顔を見せた。
見て、私を。こんなに愛されている私を。
翔太、あなたには一生見ることのできない、これが「本物の輝き」なのよ。
泥酔した新入生の女の子たちが泣いているのが見えたけれど、気にならなかった。
彼女たちはまだ「覚醒」していないだけ。通過儀礼を乗り越えれば、私と同じ景色が見られるのに。
私は彼女たちを見下しながら、先輩たちに身を委ねた。
快楽と優越感。この世のすべてを手に入れた夜だった。
まさか、それが破滅への最後の晩餐だなんて、知る由もなく。
* * *
翌日。目が覚めた時、世界は反転していた。
スマホを見ると、通知が止まらない。
「いいね」の通知ではない。友人からの賞賛のメッセージでもない。
罵詈雑言。誹謗中傷。脅迫。
見知らぬアカウントから、次々と私のSNSに石が投げつけられていた。
『死ねよヤリマン』
『動画見たぞ、ノリノリじゃねーか』
『親が泣いてるぞ』
指が震えて画面がうまくスクロールできない。
何? 何が起きてるの?
ニュースサイトを開くと、そこには「名門大サークル、集団暴行事件」という文字と共に、昨夜の私の姿が映し出されていた。
モザイク越しでも分かる。あの恍惚とした表情。だらしなく開いた口。
「巫女」として輝いていたはずの私は、世間の目にはただの「汚らわしい肉人形」として映っていたのだ。
「いや……嘘……」
別荘の中はパニック状態だった。
さっきまで「俺たちが法律だ」と豪語していた先輩たちが、真っ青な顔で電話をかけたり、頭を抱えたりしている。
須藤さんは「誰だ! 誰がリークした!」と怒鳴り散らしている。
私を守ってくれるはずの「王」が、今はただの怯える子供に見えた。
そして、警察が来た。
サイレンの音が近づいてくるたびに、私の心臓は早鐘を打った。
逮捕されるの? 私も?
違う、私は被害者……ううん、愛されていただけなのに。
警察署での事情聴取は屈辱的だった。
女性警官に「あなたも被害者なのよ」と言われたけれど、その目は明らかに軽蔑の色を含んでいた。
「自分の意思で参加したという動画が残っていますが」と突きつけられた映像を見て、私は嘔吐した。
画面の中の私は、確かに笑っていた。
「幸せです」と言っていた。
あれは私じゃない。何かに憑かれていただけ。
でも、誰もそんな言い訳を聞いてはくれなかった。
釈放され、命からがら逃げ帰ったアパートで、私は本当の地獄を知った。
実家からの電話。母の金切り声。父の退職。絶縁宣言。
大学からの除籍通知。
退去命令。
たった一日で。
たった二十四時間で、私が築き上げた(と思っていた)キラキラした世界は、音を立てて崩れ去った。
残ったのは、ネット上に永遠に残る恥辱の動画と、孤独な現実だけ。
「どうしよう……どうしよう……」
寒い。六月なのに、真冬みたいに寒い。
誰か助けて。誰か私を抱きしめて。
須藤さんは捕まった。サークルの友達はみんな着信拒否。
「仲間」なんて嘘だった。「絆」なんて幻だった。
私は利用されていただけ。使い捨てのおもちゃだったんだ。
その時、ふと温かい記憶が蘇った。
四月の人混みで、私を気遣ってくれた手。
私の下手な手料理を「美味い」と食べてくれた笑顔。
どんな時も私の味方をしてくれた、あの優しい声。
「翔太……」
そうだ、翔太がいる。
彼は私を愛してくれている。私がどんなに酷いことをしても、彼は幼馴染だから、きっと許してくれる。
「馬鹿だなあ」って笑って、また頭を撫でてくれるはず。
今の私には、彼の平凡な優しさだけが必要だった。
高級レストランなんていらない。ファミレスのドリンクバーでいい。
翔太と一緒に、また一からやり直そう。
彼ならきっと、私を受け入れてくれる。
私は縋るような思いで、彼のアパートへ走った。
サンダルが脱げそうになっても構わず、髪を振り乱して走った。
周りの人が私を見て「あの動画の女だ」と囁いているのが聞こえる。
怖い。視線が痛い。
でも、翔太の部屋に行けば安全だ。あそこだけが、私の帰る場所なんだ。
アパートの階段を駆け上がり、203号室の前に立つ。
息を切らしながらドアを叩く。
「翔太! 開けて! 私よ、優奈よ!」
返事がない。
鍵がかかっている。
合鍵は……あの日、別れ際に彼に投げつけてしまったんだった。
ポストを覗く。
空っぽだ。
表札もない。
「……え?」
隣の部屋のドアが開く音がした。
「あの、うるさいんですけど」
「ご、ごめんなさい! 翔太は!? 相沢くんはどこ!?」
「ああ、彼なら先週引っ越しましたよ」
引っ越した?
先週?
私がパーティーの準備で浮かれていた頃?
私が「翔太なんていらない」と笑っていた頃に?
「行き先は知りませんけど……ああ、そういえば」
隣人は無慈悲な事実を告げるように、淡々と言葉を続けた。
「すごくスッキリした顔で出て行かれましたよ。『これでやっと新しい人生が始められます』って」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。
スッキリした顔?
新しい人生?
そこに、私はいないの?
私がいないことが、彼の「新しい人生」の始まりなの?
「嘘……いやだ……翔太ぁ!!」
私はドアに突っ伏して泣き叫んだ。
鉄の扉は冷たく、びくともしない。
中には誰もいない。私の知っている温もりは、もうここにはない。
「あなたとの行為より、サークルの団結の方が重い」
私があの日放った言葉が、ブーメランのように戻ってきて、私の喉元を切り裂いた。
私が「重い」と切り捨てた彼の愛は、私が手を離した瞬間に、風に乗ってどこかへ飛んでいってしまったのだ。
そして二度と、私の元へは戻ってこない。
携帯を取り出し、彼にメッセージを送ろうとする。
『送信エラー』。
アカウントが存在しません。
電話をかける。
『現在使われておりません』。
完全に、断たれた。
物理的にも、社会的にも、そしてデジタルの世界でも。
相沢翔太という男の世界から、川口優奈という存在は綺麗サッパリ消去されたのだ。
「あぁ……あぁぁぁ……」
廊下に響く自分の泣き声が、ひどく情けなく聞こえた。
私はシンデレラになんてなれなかった。
魔法使いだと思っていた須藤さんはただの詐欺師で、かぼちゃの馬車は護送車で、ガラスの靴は最初から粉々に砕けていたのだ。
そして、ずっと待っていてくれると思っていた王子様は、愛想を尽かして別の物語へ行ってしまった。
残されたのは、ボロボロの服を着た、ただの浅ましい女一人。
雨が降り出した。
冷たい雨が、アパートの廊下に吹き込んでくる。
私は膝を抱え、誰もいないドアの前で震え続けた。
戻りたい。
あの退屈で、平和で、温かかった日々に。
でも、時間は絶対に戻らない。
その残酷な事実だけが、今の私に残された唯一の「真実」だった。




