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第1話「選ばれなかった者」

 足元の闇が、口を開けていた。


 落ちたら終わりだ、と頭が先に計算するのに、冷えた石の縁はそれを笑うみたいに指先から熱を奪ってくる。俺は膝をつき、縦穴の内側へ垂れた命綱を一度だけ握り、次に梯子の鉄へ手を掛けた。


 湿った鉄臭が鼻の奥に刺さり、喉が乾く前に舌の上がざらつく。


 段の間隔が、十歳の足には遠い。足を探してから体重を落とさないと腕が持っていかれるので、踵で段を確かめ、指の腹を押し付けてから降りた。掌が薄く、金具の冷たさが皮膚の下へ直接入ってくるせいで、握り直す回数がすぐに増える。


 暗い。暗いのに、降りるべき場所だけは分かる。


 段の縁に残った擦れが細く白く、そこだけが少し乾いている。乾いている段は錆の色が浅く、その浅さが同じ位置に偏っていた。使われる場所が決まっているなら、道はそこだ。


 半身で命綱を撫でるように持ちながら、俺は降り続けた。麻の縄は冷たくはないが、湿気を含んでいて、指にまとわりつく。息が深くなる。深くなるほど胸がうるさい。うるささが自分の耳に届くのが嫌で、歯を噛む。


 その時だった。


 足を置いた段が、指先の感触より早く崩れた。鉄が抜ける。体が落ちる。咄嗟に命綱へ手が走り、全体重が掌に集中した。


 縄が、焼けるみたいに走った。


 皮膚が持っていかれる痛みが遅れて来て、息が喉に詰まる。俺は声を出しかけ、飲み込んで、代わりに笑いにもならない息を吐いた。


「クソみてぇな筋書きだ。まだ始まってねえ」


 言った分だけ、指が震える。震えたままでは落ちるので、俺は歯を噛んで、縄の上に残った掌をずらし、鉄へ手を戻した。


 縄が走るたび、賃銭の代わりに荷縄を引いた手の記憶が刺さる。


 刺さった痛みを引きずらない。落ちる理由にしたくない。俺は体を壁へ寄せ、残っている段へ足を入れ直し、呼吸を一度だけ整えてから降下を続けた。


 靴底が石に当たった。


 湿った砂利が小さく潰れ、足首から先に冷えが貼りつく。上の空気が遠くなった代わりに、この穴の冷たさが骨へ寄ってくる。俺は命綱を離さずに手のひらを開き、剥けた皮の内側にじわりと滲む熱を確かめた。血の匂いはまだ薄いが、鉄の匂いと混ざると分かりにくい。


 底には狭い通路が口を開けていた。正規の道なら、幅があって、誰かのための飾りが置かれる。ここにはない。あるのは、通った人間の癖だけで、壁には楔穴が点々と残り、穴の縁が同じ高さで丸くなっている。背負い紐が擦れた線が薄く走り、錆の垂れ方だけがそこだけ違う。


 誰かが、ここを道にしていた。


 俺はその癖を拾って歩いた。踏まれるところだけ黒ずみ、踏まれないところには乾いた粉が薄く積もっている。粉は舞うが、舞った跡が落ち着く場所も決まっていて、歩幅の幅だけが線になって残る。


 通路が少し広がったところで、壁の彫りが目に入った。蔦葉の文様。石の表面をなぞると、同じ冷たさのはずなのに、一枚だけ指が引っかかる。陰影が違う。埃の乗り方が浅い。


 俺は爪を立てずに指の腹で押した。


 石が、沈んだ。


 ぎ、と鈍い音がして床がわずかに下がり、空気が一段落ちる。隙間から冷えた匂いが上がり、そこに縦穴が口を開けた。手入れがされていないせいで縁が欠け、欠けた粉が指に付く。黒い。湿っていない。長い間、誰も触っていない色だ。


 俺は息を短く吐き、命綱をもう一度握ってから、二つ目の穴へ足を入れた。


 同じ縦穴でも、こっちは嫌な感じがする。梯子の鉄が細く、段の端がわずかに浮いている。浮いているのに、その浮き方が古い。古いなら壊れる。


 案の定、足場が崩れた。


 今度は、崩れる前に分かった。分かったのに体が追いつかない。段が逃げ、足が空を踏み、命綱が掌を走る。


 皮膚が剥がれる感触が来て、目の前が一瞬だけ白くなる。


 白い光。赤い敷物。白い横顔。


 名前は出ない。出す前に、喉が乾く。


 落ちたら終わる。ここで落ちたら、あの白の真ん中まで、七年かけて積むはずのものが全部、床にこぼれる。俺は腕を伸ばし切って縄に体を預け、膝を壁に叩きつけて摩擦で止めた。石の角が膝の皮を擦り、痛みが遅れて足先まで走る。


 息が乱れた。乱れたままでは手が滑るので、俺は歯を噛み、舌の裏の乾きを噛み潰し、もう一度だけ握り直した。


 底が来る。


 靴底が石に触れ、砂が潰れる。俺はその場に尻を落としそうになって、膝でこらえた。掌が熱いのに、熱の中に妙な冷えが混じっていて、それが余計に気持ち悪い。十歳の体が、ここまで来る体じゃないと訴えている。訴えを拾っても進めないので、俺は立ち上がり、袖で手のひらを軽く拭って、血と粉を混ぜた。


 通路は短かった。短いのに、先がやけに整っている。


 床に紋章が刻まれ、線が視線を中央へ集める。左右の石材は同じ高さに揃い、端が欠けていない。ここだけ、誰かが「舞台」を用意している。用意しているのに、人の気配はない。匂いが薄い。人が居た匂いが残らない。残らないのに、置かれているものは完璧だ。


 中央に、刃が刺さっていた。


 俺は近づいた。喉が乾く。乾くのに唾が出ない。足音が自分の耳に届きすぎる。届きすぎるのが腹に悪くて、息を浅くした。


 柄へ手を伸ばす。


 触れた瞬間だった。


 押し戻された。


 腕を引いたわけじゃない。柄の側から、掌を跳ね返された。体が後ろへ弾かれ、足がもつれて、尻餅をつく。石の冷えが臀に刺さり、痛みより先に、掌の内側が急に冷えた。冷えが骨へ届くほど速い。


 要らない。


 言葉じゃない。感触だ。拒絶が、皮膚の内側に置かれた。


 俺は息を吐いた。吐いた息が白くならないのに、喉だけが冷たい。柄を見上げる。動かない。動かない以前に、近づく資格がないみたいに距離が戻る。


 俺は立ち上がり、柄から視線を外した。引きずらない。ここで長く居るほど、冷えが自分の中へ根を張る。


 視線を落とすと、足元に山があった。


 欠けた刃。曲がった安剣。折れているより、欠けているものが多い。刃こぼれが酷くて刃が刃として残っていないものもあり、柄だけが転がり、革紐の端が白く乾いている。


 曲がり方が、同じ向きだ。


 誰かが力任せにねじった曲がりじゃない。てこをかけて、同じ方向へこじった跡だ。台座の縁には、刃先を噛ませたような擦れ傷が二つ三つ、同じ高さで走っている。挑んで、こじって、曲げて、欠かして、それでも動かせずに捨てた。捨てる手つきが、ここでも慣れている。


 俺の掌の冷えが、さっきより深くなる。


 その山の中に、残り方が違うものが混じっていた。


 刃じゃない。鞘だ。


 革の表面は乾き切っているのに、傷のつき方が違う。剣が折れた時につく裂け目がない代わりに、擦られた細い跡が走り、金具の角だけが鈍く丸い。古いのに、捨てられ方が同じじゃない。落ち方が違う。


 俺は屈み、指先で引き寄せた。石の粉が舞い、鞘の口に少し入る。払うと乾いた音がして、粉がすぐには落ち切らない。持ち上げると、見た目より重かった。重い、というより、重みの居場所が悪い。手に馴染まないところに冷たい塊がある。


 ここに転がる安剣は、次で欠ける。次で曲がる。次で捨てられる。


 だが、鞘は残っている。


 残っている理由が分からない。分からないのに、残っているという事実だけが、掌の冷えより確かだった。


 拾い物だ。


 そう呼ぶのが一番正しい。まだ何者にもなっていない。何者にするかは、俺が決める。


 鞘を腰へ当て、帯に通そうとしてすぐ諦めた。位置が合わない。十歳の骨格に合わせて作られたものじゃないから落ちる。落ちるものは持ち出せない。


 俺は懐から短い紐を出し、鞘の金具に通して輪を作り、その輪を帯の下へ潜らせて結び直した。結び目は一回で決める。やり直すと掌が持たない。結び終えると、鞘の重みが腰骨へ乗り、息が一度だけ詰まった。


 台帳の束を丸ごと抱えたみたいに重い。


 それでも手を離さない。離せない。


 縦穴の方角へ振り返ると、上の光が小さく、遠かった。降りた距離が、そのまま登るべき距離に反転している。あの梯子を、今度はこの重みをぶら下げたまま戻る。


 俺は息を整え、片手で鞘を押さえ、もう片手を段に掛けた。鉄は相変わらず冷たく、冷たさのせいで掌の傷が余計にひりつく。


 稼いで、積む。積んで、あの場の数秒を奪う。


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