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第0.5話「モブとして生まれた日」

 あの日から七年前、十歳の俺の頭の中に、前世の記憶が流れ込んできた。


 目が開いて、まず見えたのは天井じゃない。


 手だった。小さい。指の節が薄くて、爪の白いところばかりが目につく。肘を曲げると袖が余って、布が肌の上で遅れてついてくる。


 部屋は冷えていた。


 梁の影が濃くて、窓枠の木が一箇所だけ色を変えている。直した跡だ。継ぎ目だけが、よそ者みたいに浮いている。


「坊ちゃん」


 扉の向こうの声が、距離を決める。


 名前より先に呼び方が来て、俺の位置がそこで固定される。柔らかい声音なのに、動かせない杭みたいに刺さった。


 食卓に出たパンは薄い。薄いくせに端だけ固くて、噛むと歯に引っかかる。


 ランプ油の匂いが古い。器の底に擦れた線が残っている。使い回しの線だ。新品の光り方じゃない。


 その景色の上に、勝手に文字が貼りつく。


 『光翼の聖女と六つの運命』。


 題だけが、ラベルみたいにぴたりとくっついて、剥がれない。


 気持ち悪いのは、知っていることじゃない。


 知っているはずの順番が、現実の順番と噛み合ってしまうことだ。


 扉の向こうで、父の低い声がした。


 俺の部屋の扉は薄い。隙間から、帳面をめくる紙の音が入ってくる。ペン先が走る音が、途中で止まる。止まるたび、息継ぎだけが残って、紙の上だけが先へ行く。


 そこで俺は、自分の名を初めて「現実の音」として聞いた。


「クロウ・ヴェイル」


 呼ばれた瞬間、肩のあたりが少し冷える。


 名がつくと、逃げ道が減る。――そういう感覚だけが、先に来た。


 寝台の上で、指先に闇を寄せようとする。


 黒い糸が立つ。立ったはずなのに、形になる前にほどける。掌の上で、煤みたいに散る。残るのは、冷えだけだ。


 言い方はある。前の人生なら、便利な呼び名が。


 でも、今は言わない。言葉にした瞬間、俺の方がそれに縛られる気がした。


 そのまま、別の映像が割り込んだ。


 拍手の音が、乾いた粒になって落ちてくる。


 誰かの名だけが読み上げられて、俺の名だけが抜ける。


 それだけで、胃の奥が勝手に冷える。


 次に来たのは、女の横顔だった。


 白い光が上から叩きつけられて、赤い絨毯がやけに綺麗で、輪になった貴族の影が薄く揺れる。――その中心に、ひとり。


 顔が良い。


 まず、それが出た。理由として最低だが、俺の感性が「あの造形を壊すな」と先に叫んだ。


 それから、遅れて腹が立つ。


 捨てる側の手つきが、丁寧で、慣れている。


 丁寧に捨てられる光景が、同じ温度で何度も再生される。人の一生を、手順として処理するやつらの手つきだ。


 ――捨てるなら、俺が拾う。


 救う、じゃない。慰める、でもない。


 俺のものにする。目を離さない。手を離さない。


 “奪う”って言葉の方が、まだ正直だ。


 そう決めた瞬間、胃の奥の熱が、冷たい計算に変わった。


 力、金も要る。


 今の指先じゃ、煤が散るだけだ。


 今の体じゃ、外套の重さでふらつく。薄いパン一枚で、腹が鳴る。


 机の端の紙切れを裏返して、線を引いた。


 屋敷から領道へ。領道から街道へ。街道から王都へ。王都の外れの岩山へ。そこに、聖剣の穴がある。


 途中で線が歪む。指が震えているのに気づいて、握り直す。


 ……インクが指に移った。舐めて消すのは嫌で、袖で拭く。袖が黒くなる。みっともない後処理だ。


 それでも、行き先だけは変えない。


 抜けないことを、確認しに行く。俺が“呼ばれない側”だと、身体に刻みに行く。――その上で、拾えるものを拾う。


 紙切れをもう一枚ちぎって、短く書いた。


 行き先は書かない。止められると面倒が増える。


『薬草取ってくる。ついでに修行。すぐ戻る。——クロウ』


 ランプの下に置く。見つかる導線だけ残して、あとは知らないふりをする。


 外套を肩にかけて、戸を引いた。


 夜気が頬を噛む。息が白くなるほどじゃないのに、喉の奥が乾く。


 王都外れの岩山へ向かう――その一歩が、もう戻せない音を立てた。


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