第0話 Route.Ⅶ「断罪の日 ―The Seventh Fate ―」
「処刑台にしては、ずいぶん照明がいい」
――と、俺は場違いなことを考えていた。
天井の高い大広間。その真ん中だけが、焼けるみたいに明るい。魔導灯の光が真上から叩きつけられて、赤い絨毯と、その上に立たされている女の輪郭だけをいやらしいほど綺麗に切り抜く。
学園の卒業舞踏会の夜――のはずだった。
周囲は薄い暗がりに沈んでいた。豪奢な衣装の貴族たちが輪になって立ち、内側を見下ろしている。
踏み出す先がない側――俺は、その暗がりにいた。
正面の入口には、金縁の盆が並ぶ。帯剣や飾りを受けるための盆だ。そこを通る連中の腰回りだけが、やけに丁寧に撫でられていた。
俺の袖口は油で黒い。手袋も同じだ。盆を抱えた裏方の列に混じっても、視線は盆の上だけを滑っていき、俺を数に入れない。
腰の鞘が骨に当たる。上着の裾で隠した帯がずれて、革が小さく鳴ったが、その音が届く前に喉で飲み込んだ。冷えた重みがそこにあるだけで、背筋が戻る。
「――アナスタシア・エヴァロスト」
澄んだ声が、会場の隅々まで通った。
「ここに、君との婚約を破棄する」
中央の女は、動かなかった。背筋は伸び、顎は上がり、目だけが強い光に晒されている。赤い絨毯の上で、逃げ道のない姿勢を崩さない。
王太子セドリック・ルーミナス。顔より先に、胸元の徽章が光を弾く男だ。手袋の革がわずかに鳴るたび、その硬さが耳に残る。
輪の外側で、扇が揃って止まった。笑い声が薄く引っ込み、息だけが同じタイミングで吐き直される。誰も驚かないまま、ここから先の手順が始まる。
「罪状を告げる」
紙が開く。乾いた擦れ。読み上げ役の指が行を辿るたび、紙の端が小さく動いた。
「殺害計画。調べはついている」
その二語だけ、先に胸へ入ってきた。
外周の暗がりに白い衣が見えた。金色の髪が灯りを拾って薄く揺れる。顔は角度で隠れているのに、肩の上下が一瞬だけ乱れ、すぐ整った。
王太子が息を置いてから、言葉を落とした。
「――貴様を、処刑する」
言い切りのあと、空気が一度だけ固くなる。それでも誰も口を開かない。扇は閉じたまま、視線だけが赤い絨毯へ揃う。
「連行しろ」
鉄が動いた。
近衛は二人だけだ。片方が王太子の斜め後ろに付き、もう片方が赤い絨毯へ踏み出す。鎧の継ぎ目が擦れ、石床に落ちる影が伸びる。
鉄の手が、彼女へ届く。
――待てない。
俺は懐の感応石を、手の中へ滑り込ませた。指の腹で薄い合わせ目をひと撫でして、砕けやすい面を外に向ける。
俺は放った。狙うはテーブルの脚。
乾いた砕け音。――遅れて、窓際の台座の陰でも、石がひとつ短くはぜた。
俺は走った。
一拍。
窓が裂けた。割れ目から白煙が噴き出し、外気と一緒に雪崩れ込む。照明がそれを乱反射させ、目が痛むほど白い。喉の奥が一気に粉っぽくなった。
誰かが叫ぶ。「何だ」から始まって、「煙だ、窓――」に割れ、最後は「殿下をお守りしろ」に潰れていく。言葉は千切れて、音だけが跳ねた。
近衛の足が戻った。二人とも王太子の前へ寄り、槍柄を横に渡して壁を作る。石突が床を鳴らし、徽章の光が一度だけ隠れた。槍先は俺たちを向いたままなのに、足はこっちへ来ない。離れた瞬間、王太子の横が空く。
俺はその隙間へ体をねじ込んだ。
盆が傾き、飾りが布を擦る。肩と肩がぶつかり、誰かの香油が白煙に混ざって鼻を刺したが、止まらない。逃げ道じゃない。中央へ届く幅だけが要る。
鎧の手が俺の袖を掴んだ。
引かれた反動を、逆に使う。掴まれた腕を“引く”んじゃない。肘を落として、相手の手首の内側へ潜る。鎧の肩口が目の前を塞ぐから、その影を盾にして半歩だけ滑った。
布が裂ける音は小さく、白煙に紛れる。袖口の糸が指に絡み、指先を引いた。
その裂け目の向こうに、細い手首が見えた。
俺は手を伸ばし、その手首を取った。
骨の細さが手のひらに当たり、震えが遅れてくる。目が見開かれて、少女の顔が一瞬だけ浮きかけ、すぐ奥へ引っ込んだ。
「拾いに来た。白馬は――ない」
「白馬」の音だけが、彼女の喉で一度つかえた。次の瞬間、睫毛が降り、顎が上がって、表情が“公爵令嬢”の硬さに戻る。
白煙が薄くなる。
金糸と槍先だけが先に輪郭を取り戻し、人の形が遅れて戻ってきた。
「貴様は……ヴェイル!?」
取り巻きの声が裂けた。喉の奥で空気を噛んで、必死に声を張る。
「クロウ・ヴェイル――何をしている」
王太子が名を呼んだ。大きな声じゃないのに、周囲の息が一斉に止まる。白煙の渦が、その言葉だけ避けるみたいに一瞬だけ揺れを失った。
「その女から手を離せ。……命令だ」
短く、押しつぶすような間が落ちた。扇も、靴底も、鎧の擦れも止まり、会場が「次の手順」へ切り替わる前の静けさだけが残る。
アナスタシアの肩が、前へ出かけた。
俺を押し返す角度じゃない。自分が前に立つ角度だ。癖みたいに、泥をかぶる方へ動く。
俺は手首の角度を折って引いた。縫い目が指の腹に食い込み、痛みが形になる。離す余地が消える。
「勘違いすんな、アナスタシア」
短く言い切って、俺は体ごと控所の影へ向けた。
「捨てられるのが気に入らねぇ。それだけだ」
言葉を出した分だけ視線が寄る。寄った視線ごと引きずって行くために、足を出す。
アナスタシアの手首が、静かになった。握り返すんじゃない。力を抜いて、預ける形に落ち着く。選択が、音もなく置かれる。
王太子の周りで、盾が壁を作る。近衛は動けないまま剣先だけが角度を詰め、退路を“見て”塞ぐ。
「捕らえろ」
叫びじゃない。宣告の声だった。
その一言で、ざわめきが捕縛の手順へ切り替わる。靴底が揃い、金具が同じ間隔で擦れ、背中へ圧が集まる。
俺は口を閉じ、引く角度だけ変えた。その小さな力を走る角度へ変え、控所へ抜ける。
赤い絨毯を逆に踏むと、足が一度だけ滑りかけたが踏み直す。毛足が靴底に噛み、絡んだ糸が指を引く。引けば千切れる。千切れるまで置いていくのが正しい。
それでも、そのままにした。
革の鞘が腰骨に当たって、痛い場所へずれる。
――七年前。
冷えた寝室で、目を開けて最初に手の小ささを見た朝だ。あの朝の冷たさが、いま掴んでいるこの手の熱と、噛み合ってしまった。




