夜明け前、違和感の入口
夜明け前の街は、音が少ない。
人の気配も、呼吸も、まだ寝ている。
それでも門の方だけは、ほんのり明るい。
火が灯っている。
巡回の足音が、石畳に一定のリズムを刻んでいる。
俺は店の鍵を閉め、指先で確かめるように扉を押した。
木がきしむ。いつもの音。
その音が妙に心に残るのは、今日がいつもじゃないからだ。
クリムは俺の肩に乗って、毛玉のまま「きゅ…」と小さく鳴いた。
眠いのか、緊張してるのか、どっちにも見える。
ルゥは先に歩いて、振り返る。
「戻ってくるよな?」って目だ。
ああ、戻るさ。戻るために行く。
門の前で、ガイルたちはもう揃っていた。
タンクの鎧は、夜明け前の青さを吸って鈍く光る。
ミーナは外套の襟をきちんと整え、顔色を確かめるように自分の頬に触れた。
ハイドは無駄に喋らず、周囲の影を数える。
エドは寝不足っぽい顔で欠伸しながらも、手は武器の位置を確認している。
ミスティは杖を抱え、指先で小さな魔術式をなぞっては消していた。
「店主」
ガイルが短く呼ぶ。
「おう」
それだけで十分だった。
言葉を増やすと、決意が揺れる。
揺れたら、余計なことを考える。
余計なことを考えると、足が遅れる。
門が開く。
冷えた空気が一気に流れ込んでくる。
街の外は、まだ暗い。けど東の端だけが薄く白い。
「行くぞ」
ガイルが先頭に立つ。
その背中は、相変わらず安心感が過剰だ。
「今日だけは“無理しない”って約束、忘れないでくださいね」
ミーナが言う。
「忘れねぇよ」
俺が返すと、エドが笑った。
「店主が言うと説得力あるな。
“無理しない”のために一番無理してる人間なのに」
「お前は黙って歩け」
「はいはい」
ハイドが淡々と確認する。
「隊列、いつも通り。
ガイル先頭、次に俺と店主。
後方にミーナ、ミスティ、エド。
狭所は入れ替え」
「了解」
全員の呼吸が揃う。
こういう“揃い方”を、俺は好きだと思ってしまう。
危ない。冒険者だった頃の癖が、まだ残っている。
森の手前を抜け、古い石段を下りていく。
ダンジョンの入口は、地図で見たよりもずっと静かだった。
不自然なほどに、鳥の声も虫の音もない。
入口の石に、古い刻印がある。
文字は欠けているが、読める部分だけで嫌な匂いがした。
――封。
――還。
――禁。
ミスティが低く言った。
「……封印系。間違いない」
ガイルが頷き、扉に手を置く。
「開けるぞ」
扉が重い。
石が石をこすり、低い唸りをあげる。
中から冷たい空気が吐き出される。
まるで、生き物が息を吐いたみたいに。
クリムが俺の肩で「きゅ…!」と身を縮め、
ルゥが一歩前で低く唸った。
「大丈夫だ」
俺はルゥの首筋を軽く叩く。
自分にも言ってる。
中へ入ると、闇が濃い。
松明の火が、壁の湿り気で揺れる。
古い石の匂い。苔と鉄と、土の湿り気。
「準備は終わり。探索だ」
俺が言うと、エドが小さく笑う。
「こういうのは自分に言い聞かせるためだ」
俺は荷袋から小瓶を取り出す。
ここからは、いつもの“相談所”じゃない。
でも、やることは同じだ。
踏み外さないための補助をする。
「まずバフ。全員、一本ずつ」
【疲れた身体にはやっぱりこれ(改)】
喉を通る熱が、身体の芯に落ちる。
筋肉が目を覚ます感覚。
血が巡る。指先が軽くなる。
「……効くな」
ガイルが短く言う。
「当たり前だ。俺が飲みたいから作ってる」
ミーナがくすっと笑う。
その笑いが、少しだけ空気を柔らかくした。
「探索の立ち回り、確認」
ハイドが淡々と言い、壁に手をつける。
「Tankリード。ガイルは角と段差を読む。
Meleeは左右の死角。
Rangedは後方から雑魚処理。
Healerは常時監視。
Supportはバフ維持と、必要ならデバフ」
「教科書みてぇだな」
エドが言う。
「教科書通りにやって死なないなら、俺は教科書を信仰する」
ハイドの返しが冷たくて、エドが肩をすくめた。
「はいはい、信仰してます」
ガイルが先導する。
足音を殺さない。
殺すと逆に変な緊張が生まれる。
“普通に歩く”ことが、この手の場所では最初の勝ちだ。
最初の雑魚は、すぐに出た。
影が、床から立ち上がるみたいに現れる。
骨のように白い四肢。
顔の代わりに空洞。
魔力の煤が、ひらひらと舞っている。
「来るぞ」
ガイルが盾を構える。
一歩前に出て、ヘイトを集める。
その動きが速い。迷いがない。
「ハイド、左」
「了解」
ハイドが影の横へ滑り、刃を入れる。
エドが後方から矢を飛ばす。
ミスティが短い詠唱で、影の動きを鈍らせる。
「鈍重、入れた」
「ナイス」
俺は袋から小瓶を投げる。
地面に落ちて割れ、薄い霧が広がる。
【視界ノイズ低減】
霧は薄いのに、影の輪郭がぼやける。
あいつらは“見えてること”で形を保っている。
そこを崩す。
「……店主のデバフ、嫌らしいな」
ミスティが小さく笑う。
「褒めてんのか?」
「褒めてる」
影は、ガイルの盾にぶつかり、
ミーナの結界に弾かれ、
最後はハイドの刃で切り裂かれて消えた。
消える瞬間、光になって床へ吸い込まれる。
いつものダンジョンの“死に方”。
なのに。
その光が、吸い込まれる直前に――
一瞬だけ、形を変えた。
涙みたいに、きらりと光った。
俺は足を止めた。
「……今の見たか?」
ミーナが小さく頷く。
「泣いてるみたいに見えました」
エドが鼻で笑う。
「影が?泣くかよ」
「泣かない。けど、見えた」
俺の言い方が硬くなったのを、ガイルが察して振り返る。
「何かあるか」
「まだわからん。
でも、嫌な匂いが濃くなった」
ルゥが鼻をひくひくさせる。
「わふ…」
同意だ。
進む。
通路は曲がりくねり、時々広間になる。
広間には古い柱。
柱には欠けた紋章。
見るほどに、ここが“誰かの場所”だったことがわかる。
「……昔、町だったのかもしれないな」
ミーナが言う。
「ダンジョンは、呑むからな」
ガイルが短く返す。
その時。
壁の奥から、かすかな音がした。
――すり。
――すり。
――すり。
何かが擦れる音。
靴底が石を擦るみたいな。
でも、一定すぎる。
ハイドが手を上げ、止まる合図。
全員の足音が一斉に消える。
静寂が降りる。
そして、聞こえた。
――「先に、行け」
声だった。
男の声。
若い。
近い。
耳のすぐ後ろみたいな距離。
ミーナが息を呑む。
エドが目を見開く。
ミスティの指先が杖を握り込む。
ガイルは、動かなかった。
盾を少しだけ上げる。
いつでも前に出られる角度。
俺は、喉の奥が冷えるのを感じた。
「……言うな」
俺は低く言う。
「返事するな。
呼びかけに反応したら、向こうの勝ちだ」
クリムが肩で「きゅ…!」と縮こまり、
ルゥが唸りを押し殺す。
ハイドが小声で言う。
「幻聴か」
ミスティが首を横に振った。
「幻聴にしては、魔力の波がある。
“聞かせてる”」
ガイルが、俺を見る。
「店主」
「わかってる」
俺は荷袋を探り、瓶を二本取り出す。
ここで“早すぎる異変”を無視したら、承のまま死ぬ。
「ミーナ。これ」
【心のざわつき静めるポーション】
「全員に回せ。
焦りの芽を摘む」
ミーナが頷き、順番に配る。
俺も飲む。
舌の奥の苦味が、思考を落ち着かせる。
次に、俺はミスティに一本投げた。
【魔力汚れ希釈】
「周囲の“聞かせてくる魔力”を薄めろ。
結界じゃなく、“散らす”」
ミスティが目を細めて受け取る。
「……店主の発想、嫌いじゃない」
「好きにならなくていい。効け」
瓶を割ると、透明に近い霧が広がる。
匂いもない。
ただ空気が少しだけ軽くなる。
耳の奥に張り付いていた湿っぽさが、剥がれた気がした。
エドが小声で言う。
「……今の声、俺の知ってるやつの声じゃない。
でも、似てた。
嫌だな」
「似せてるんだろ」
俺が返す。
「“心の隙間”に手を突っ込むタイプのダンジョンだ」
ガイルが短く言う。
「なら、隙間を作らない」
それができたら苦労しない。
でも、ガイルの言葉はパーティの背骨になる。
進む。
雑魚が増える。
影だけじゃない。
今度は“鎧だけの敵”が出た。
中身がないのに、動く。
剣が空を切る音が、やけに乾いている。
「探索のコツ、ここで使うぞ」
俺は息を吐く。
「Tankはヘイトを“まとめる”。
無理に倒さない。
倒すのはDPS」
ガイルが敵を壁際に誘導し、
盾で受け、足で位置を固定する。
「ミーナ、ヒールじゃなくて監視」
「了解。回復は必要最低限。
異常の兆候を優先します」
これが大事だ。
ヒーラーが回復に集中しすぎると、異変を見逃す。
このダンジョンは“異変”が本体かもしれない。
ハイドは敵の動きが変わった瞬間を狙い、
エドは数を減らす。
ミスティは弱体化を入れ続ける。
「鈍重、二重。
視界ノイズ、追加」
「いい」
俺は、合間に小瓶を投げる。
【集中ゾーン誘導】
【邪魔耐性バフ】
【タイミングの波合わせ】
これらは派手じゃない。
でも、派手じゃないから効く。
派手な薬は目立つ。
目立つものは狙われる。
最終回のダンジョンは、そういう嫌さがある。
戦いが続く。
呼吸が少しずつ重くなる。
汗が背中を伝う。
武器の柄が湿る。
エドが笑いながら言った。
「なぁ、店主。
こういう時だけは思うよ。
俺たち、ほんとバカだよな」
「今言うな」
「でもさ、変に楽しいじゃん」
「死ぬぞ」
「死なないように笑ってんだよ」
ミーナが小さく笑った。
「……エドのそういうところ、嫌いじゃないです」
「だろ?」
その会話が、効く。
バフみたいに効く。
こういうのを、俺は“帰る場所の強さ”だと思う。
だが。
次の広間に入った瞬間、空気が変わった。
湿気が、皮膚に張り付く。
石が冷たい。
火が揺れる。
揺れ方が、息みたいだ。
床に、古い魔法陣。
何度も踏まれて薄れている。
でも、確かに残っている。
ミスティが言う。
「転送……いや、誘導陣。
踏んだら位置がずれる」
ハイドがすぐに壁沿いへ寄る。
「避ける」
ガイルが頷く。
「隊列維持。
踏むな。
踏んだやつは――」
その言葉が終わる前に、エドが足を止めた。
「……あれ?」
声が、違った。
いつもの軽さがない。
焦点が合ってない。
エドが、床を見ている。
魔法陣じゃない。
その先――壁の影を見ている。
「エド?」
ミーナが呼ぶ。
エドが、笑った。
変な笑い方だった。
口角だけ上がって、目が笑ってない。
「なぁ……
俺、さっき言われたんだよ」
「何を」
ハイドが低く問う。
エドは嬉しそうに言った。
「『お前だけは帰ってこい』って」
――その瞬間、背中が冷えた。
ミーナが息を呑む。
「……誰に?」
エドは、首を傾げる。
「わかんねぇ。
でも、懐かしい声だった。
すげぇ優しい声でさ」
ミスティが一歩踏み出す。
「エド、それは――」
「うるせぇな」
エドが、いつもより低い声で遮った。
仲間を遮る声じゃない。
ガイルが動く。
エドの前に盾を入れる。
強制じゃない。
ただ、距離を作る。
「落ち着け」
ガイルの声が、硬い。
「落ち着いてるって」
エドが笑う。
笑っているのに、目が濡れている。
俺は、即座に判断する。
――このダンジョンは、今ここで“刺しに来た”。
早い。
早すぎる。
まだボスどころか中層にもいない。
だからこそ、ここで無理に進んだら終わる。
俺は荷袋を探り、瓶を取り出す。
割らない。飲ませる。
「エド、飲め」
【心のざわつき静める】
エドが一瞬抵抗する。
でも、ミーナがそっと手を添えた。
「お願い。今のあなた、いつものあなたじゃない」
その言葉が刺さったらしい。
エドは歯を食いしばり、飲み干す。
喉が動く。
息が震える。
そして、肩が落ちた。
「……っ、くそ」
エドが目を擦る。
「……なんだよ、今の。
俺、なにしてた」
「戻った」
ミーナが安堵の息を吐く。
ミスティが低く言う。
「……精神誘導。
個別に“最も弱いところ”を突いてくる」
ハイドが短く結論を出す。
「ここで進むのは危険」
ガイルも頷く。
「撤退を提案する」
――来た。
撤退判断。
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
最終回にふさわしいのは、派手な突撃じゃない。
“帰るための判断”だ。
「賛成」
俺が言う。
エドが悔しそうに唇を噛む。
「……俺のせい?」
「違う」
俺は即答した。
「ダンジョンのせいだ。
それを認められたのが強い」
ミーナも頷く。
「今日は、撤退して正解です。
このまま進んだら、全員が飲まれる」
ガイルが盾を構え直す。
「戻る。
来た道を正確に」
ハイドが先に動く。
「足跡を記憶している。
俺が誘導する」
ミスティが杖を握る。
「追撃が来る。
帰り道が一番危険」
「わかってる」
俺は息を吐き、瓶を取り出す。
【邪魔耐性バフ】
【集中ゾーン誘導】
【タイミングの波合わせ】
帰りは、気が緩む。
緩んだ瞬間に刺される。
ダンジョンはそういうものだ。
帰路の雑魚は、増えた。
影が壁から湧く。鎧が床から起きる。
しかも、どれも“声”を持ち始める。
「先に行け」
「置いていくのか」
「お前だけ帰れ」
耳が汚れる。
心がざらつく。
ミーナが歯を食いしばりながら言う。
「……店主。
このままだと、誰かが折れる」
「折らせない」
俺は小瓶を割った。
【魔力汚れ希釈】
空気が薄くなる。声が遠のく。
ルゥが吠える。
「わふっ!」
その吠えが、妙に現実を引き戻す。
生き物の声は強い。
このダンジョンの声は、偽物だ。
ガイルが前を塞ぎ、
ハイドが左右を切り、
エドが数を減らす。
ミスティが鈍重を入れ続け、
ミーナが“回復”ではなく“監視”で支える。
探索Tipsの通りに動く。
教科書通りに動く。
教科書が命綱になる瞬間がある。
出口が見えた時、俺は初めて息を吐いた。
外の空気が、冷たいのに甘い。
生きてる匂いがする。
全員が外へ出た瞬間、背後の扉が勝手に閉まった。
――ゴン。
石が石に噛み合う音。
まるで、ダンジョンが笑ったみたいな音。
エドが吐き捨てる。
「……ムカつく」
「当然だ」
俺は短く返す。
ガイルが全員を見渡す。
「被害なし。
精神汚染の兆候は……軽微」
ミーナが頷く。
「今は大丈夫。
でも、次はもっと深く刺してきます」
ミスティが静かに言った。
「今日の撤退は、負けじゃない。
このダンジョンの性格を知れた」
ハイドも頷く。
「情報が増えた。
次は対策できる」
俺は、胸の奥で小さく笑った。
このパーティは強い。
ただ強いだけじゃなく、“戻る”ことができる強さだ。
帰り道。
街の灯りが見えた時、妙に涙が出そうになった。
疲労じゃない。
嬉しさでもない。
“帰れた”っていう感覚が、喉の奥を締めた。
店に戻り、鍵を開ける。
木の匂いと薬草の香りが、迎えてくれる。
全員が奥のテーブルに座る。
水を飲む。息を整える。
しばらく、誰も喋らない。
クリムがようやく「きゅ…」と鳴き、
ルゥが床にべたりと伏せた。
エドが突然笑い出す。
「……ふはっ」
ミーナが釣られて笑う。
「あははははは!」
ハイドが眉をひそめる。
「もうやめてよ」
ガイルが小さく笑う。
「だって、帰れた」
ミスティが息を吐く。
「……やれやれ」
クリム「きゅっ」
ルゥ「わふっ」
そのわちゃわちゃが、店の空気を“日常”に戻していく。
俺は水差しを置き、天井を見上げてため息をひとつ。
「……まだ浅層であれは、心臓に悪いわ」
クリム「きゅ(わかる)」
ルゥ「わふ……(疲れた)」
まったく。
次はどうせ「帰り道の方が怖いダンジョンとか聞いてない」系が来るんだろうな。
……やれやれ。
でも来たら来たで、ちゃんと向き合うけどさ。




