帰る場所を持つ者たち
朝の空気は、いつもと同じだった。
なのに、どこかだけが違う。
店の扉を開けた瞬間、
薬草と木と、少し甘いアルコールの匂いが鼻に入る。
棚に並んだ小瓶は、昨日と同じ配置。
ラベルも、減った分だけ補充してある。
完璧だ。
いつもの朝としては。
クリムは棚の上で毛玉になり、
ルゥは入口の定位置で伏せている。
外を行き交う人の足音を、いつも通り聞き分けている。
俺はエプロンを結びながら、ふと手を止めた。
「……なんだ?」
理由は分からない。
ただ、胸の奥に薄く膜が張ったみたいな感覚があった。
昨日と何も変わらない。
それなのに、「区切り」の匂いがする。
俺は首を振る。
「考えすぎだな」
いつも通り、店を開ける。
それが俺の仕事だ。
⸻
最初の客は、常連の冒険者だった。
「店主、二日酔い」
「自業自得」
「うるさい。効くやつ」
俺は棚から迷わず一本取る。
「【疲れた身体にはやっぱりこれ】。
飲みすぎた肝臓は治さないが、
今日をやり過ごす体力は戻す」
「神」
「神じゃねぇ。錬金術師だ」
客は笑って、瓶を飲み干して帰っていく。
次は主婦。
次は魔術師。
次は年末掃除で腰をやった男。
いつもと同じだ。
この店が、この街の“一息つく場所”であることも。
なのに。
客が帰るたび、
扉が閉まるたび、
胸の奥の違和感が、少しずつ濃くなる。
「……なぁ」
俺は棚の瓶を整えながら、独り言みたいに言った。
「今日、やけに“戻ってくる場所”の話が多くないか?」
クリムが「きゅ?」と首をかしげ、
ルゥが一度だけこちらを見る。
偶然だ。
そう思うことにした。
⸻
昼前。
店が一番静かになる時間帯。
俺はカウンターで帳簿をつけていた。
数字は正確だ。
無駄な支出もない。
――この生活を、俺は長いこと守ってきた。
冒険者をやめた理由は、
一つじゃない。
怪我もした。
仲間も失った。
命の危険にも、何度も直面した。
けど、決定的だったのは――
**「帰ってきたとき、誰もいない感覚」**だった。
だから、この店を作った。
帰ってくる人がいる場所。
疲れたら、立ち寄れる場所。
強くなくても、生きてていい場所。
俺は、ポーションを売っているんじゃない。
“次の一歩を踏み外さないための余裕”を渡している。
それが、俺の仕事だ。
……だったはずだ。
カラン。
その音は、
いつもの客のそれより、少しだけ重かった。
俺が顔を上げる前に、
クリムが先に反応した。
「きゅ……」
ルゥも立ち上がる。
尻尾は振っていない。
――嫌な予感が、確信に変わる。
扉の向こうから、
複数の足音。
「やっ、店主!」
ガイルだった。
その声を聞いた瞬間、
胸の奥の膜が、はっきりと形を持つ。
後ろに、ミーナ。
ハイド。
エド。
ミスティ。
全員、揃っている。
俺は、口の端だけで笑った。
「……珍しいな。全員同時は」
「揃えた」
ガイルの即答。
その短さが、重い。
ミーナは微笑んでいる。
けど、その目は、覚悟の色をしていた。
「店主。今日は……」
「分かってる」
俺は先に言った。
「その顔は、“買い物”じゃない」
一瞬、空気が止まる。
エドが、わざと軽く言った。
「さすが。
じゃあ本題、いい?」
「どうぞ」
ハイドが腕を組む。
「新しいダンジョンが見つかった」
「“新しい”けど、古い地図にだけ載ってるやつだろ」
ミスティの視線が、俺に絡む。
「……やっぱり、知ってる?」
「知ってるわけじゃない。
ただ、“嫌な匂い”がする」
ガイルが一歩、前に出た。
「最終層に近い。
封印系。
戻ってきても“戻ってきたあとが違う”って噂」
その言葉を聞いた瞬間、
俺は棚の瓶を見た。
――この店の、全部だ。
「……それで?」
俺は、逃げ道を塞ぐ質問をした。
「俺に何をさせたい」
ガイルは、迷わなかった。
「一緒に行ってほしい」
ミーナが、少しだけ声を落とす。
「……ポーション屋として、です」
その言い方が、ずるい。
俺は笑って、ため息を吐いた。
「お前らな」
クリムが「きゅ……」
ルゥが「わふ……」
二匹とも、もう察している。
俺はカウンターから出て、
棚の前に立った。
「……最終回って言葉、嫌いなんだよ」
エドが眉を上げる。
「え?」
「終わりみたいだろ」
俺は瓶に指を伸ばす。
「これは“終わり”じゃない。
区切りだ。
区切りは――」
瓶を一本、手に取る。
「帰るためにある」
沈黙。
ガイルが、ゆっくり頷いた。
「だから、ここに来た」
俺は、棚から木箱を引きずり出した。
「……準備する。
ただし条件がある」
全員の視線が集まる。
「勝利条件は“全員で帰る”こと。
クリアはその次だ」
ミーナが、迷いなく言った。
「同意します」
ハイドも。
「撤退判断は最優先」
エドが肩をすくめる。
「生きて帰って、
ここで酒飲むのがゴール」
ミスティが、小さく息を吐く。
「……帰る場所があるのは、強い」
俺は笑った。
「そういうことだ」
夜明け前。
明日。
扉の外に、ダンジョンが待っている。
俺は自分用のポーションを手に取る。
「……さて」
飲み干す。
「帰る場所を、守りに行くか」




