胸が、痛くてたまらないんです。
カラン。
昼下がりのアトリエに、間延びしたベルの音が落ちた。
「胸が……胸が……」
ふらふらと、磨かれた白い石畳の上を靴底が擦る。
カウンターへ倒れ込むように手をついたのは、身なりの整った若い男だった。
顔面は蒼白で、心臓のあたりを必死に鷲掴みにしている。
店主は乳鉢で薬草を擂る手を止めない。
「……恋愛相談は受けてない」
「まだ、何も言ってないからね!?」
男が弾かれたように顔を上げる。
コト、と。
男の手元に、湯気を立てる陶器のカップが置かれた。
「……どうぞ。少し、落ち着いて」
レッターが、困ったように眉を下げながら特製茶を差し出す。
男は荒い息を吐きながら、震える手でカップを掴んだ。
「……ありがとう」
香りを嗅ぎ、ゆっくりと口に含む。
青苦い薬草と、微かな甘みが混じった熱が喉を下る。
ふぅ、と。
男の強張っていた肩から、少しだけ空気が抜けた。
店主は乳棒を置き、面倒くさそうに息を吐く。
「……で?」
男はカップを見つめたまま、ぽつりと零した。
「最近……急に痛み出したんだよ」
「……環境は」
「この春から配属先が変わった」
男の指が、カップの縁をきつく撫でる。
「出世コースだ。期待してるって、上の連中に肩を叩かれた。優秀な部下もついた。……上からの指示も、下からの質問も、全部俺のところに降ってくる」
アトリエの奥で、リヒャルトの羽根ペンが帳簿を滑る音がする。
「……過緊張ですね。身体が先に悲鳴を上げただけです」
リヒャルトが、一切顔を上げずに冷たく翻訳した。
「痛いんだよ、本当に」
男が胸を叩く。
「心臓が潰れそうなんだ。……でも、休めない。今立ち止まったら、期待外れだって烙印を押される。……痛みを消してくれ。仕事に集中できるやつを」
店主はカウンターの下から、薬瓶を二つ取り出して並べた。
コト。
コト。
「ひとつめ」
透明な、水のようにサラサラとした液体の入った小瓶。
「物理補助。『無痛の鎧』だ」
男が身を乗り出す。
「胸の痛みは完全に消える。……だが、身体が悲鳴を上げている原因は消えない。痛みがわからないまま無理を重ねて、ある日突然、文字通り心臓が止まるかもしれないな」
男が、ひっ、と短く息を呑む。
「ふたつめ」
濁ったピンク色の小瓶。
「心理補助。『道化の楽観』」
「……楽観?」
「プレッシャーも責任感も、どうでもよくなる。ミスをしても笑って誤魔化せる図太さが手に入る。……だが、お前が積み上げてきた真面目な評価も、一緒にゴミ箱行きだ」
男は二つの小瓶を見て、強く唇を噛む。
「……そんなの、どっちも選べないだろう」
「だろうな」
店主は二本を無造作に端へやり、みっつめの薬瓶をドンと置いた。
鈍い鉛色の液体だった。
「現実補助。『泥の重り』だ」
男の顔が強張る。
「胸を張ろうとして、息まで見栄で膨らませてる。そりゃ痛む」
店主は鉛色の瓶を指で弾いた。
カチ、と硬い音が鳴る。
「これを飲めば、見栄を張って『できる』と言おうとするたびに、喉が張り付いて声が出なくなる。……できないことはできないと、誰かに頼るか頭を下げない限り、口が開かない」
男が絶句する。
「そんなことしたら、俺の評価は……」
「下がるかもしれないな」
店主は突き放す。
「『なんだ、期待外れか』と笑われるかもしれない。……だが、心臓は潰れない。他人に弱みを見せて、泥を被ってでも仕事を回す。……それができないなら、そのまま胸を押さえて倒れろ」
沈黙が落ちる。
メテスが壁際で、静かに男の呼吸の深さを測っている。
「……期待、されたんだ」
男の声は、泣きそうに震えていた。
「ずっと、認めてほしくて……やっと……」
「期待なんてものは、他人が勝手に押し付けるもんだ」
店主は乳鉢を洗い桶へ放り込んだ。
「他人の期待に応えるために、自分の寿命を削る義務はない。……選べ」
男は、鉛色の小瓶を見つめていた。
やがて、震える手がゆっくりと伸びる。
「……情けないな」
「生きてりゃそんなもんだ」
男は小瓶を強く握りしめた。
「……これにする」
「銀貨二枚になります」
リヒャルトが、音もなく手を差し出す。
男は財布から硬貨を取り出し、深く一礼して立ち上がった。
「……ありがとう。……明日、少しだけ、部下に頭を下げてみるよ」
カラン。
扉が閉まる。
扉へ向かう背はまだ丸い。
だが、さっきまでみたいに胸元を掴んではいなかった。
「……レッター。カップを片付けろ」
「はいっ」
レッターが、少しだけ心配そうに陶器のカップを持ち上げる。
「……あのお客さん、明日、ちゃんと人に頼れるでしょうか」
「さあな」
店主はカウンターに残った小瓶を取り上げ、棚へ戻した。
コト、と小さな音が鳴る。
「薬は喉を塞ぐだけだ。……そこで意地を張って倒れるか、泥を被って息をするかは、あいつの勝手だ」
壁際で、メテスが剣の手入れをしながら低く落とした。
「……盾も、硬すぎるものは割れる。……力を逃がす『遊び』が要る」
店主は釜の火を完全に落とした。
「……そういうことだ。あいつの心臓の持ち主は、あいつだからな」
カチ、と。
ガラスの触れ合う音が、アトリエの静寂に吸い込まれていく。




