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錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


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このままじゃ、生きていけない


カラン。


重い扉が、ひどくゆっくりと開いた。


アトリエの奥では、店主がガラス棒でビーカーの中身を静かに掻き混ぜていた。

沈殿物が溶け切り、液体が透き通った青に変わる。


かち、かち。


ガラス同士が触れ合う、冷たい音。


「……今更、気付いたんです」


入り口に立った女の、擦り切れたような声が落ちた。


「このままじゃ、生きていけないって」


店主は、ガラス棒を動かす手を止めない。


女の背中には、色褪せたおくるみに包まれた乳児。

その右手には、まだ足元もおぼつかない未就学の子供が、ぎゅっとしがみついていた。


女のコートは薄かった。

子供の靴のつま先は、ひどく擦り減っている。

アトリエの薬草の匂いに混じって、安物の石鹸と、ミルクの匂いが微かに漂った。


「……気付いて、どうする」


店主が、ようやく顔を上げる。


女の目は、ひどく乾いていた。

泣き腫らした後ですらない。

ただ、絶望の底で「計算」だけを終えた目だった。


「……あの人は、変わらない。子供が泣いても、お腹を空かせても」


女の指が、繋いだ子供の小さな手を、無意識に強く握る。


「私、この子たちを連れて、出ます」


「でも、怖くて。あてなんてない。この子たちを食べさせていけるのかって思ったら……足がすくんで」


女の膝が、微かに震えていた。


「だから……勇気が、欲しいんです。家を捨てる、勇気が」


店主はビーカーからガラス棒を抜き、布で拭う。


「レッター」

「はい」


呼ばれたレッターは、すでに動いていた。

カウンターの奥から回り込み、女の足元にいる幼児の前へ、そっとしゃがみ込む。


音の鳴らない木彫りの小さな玩具を、一つ。


幼児が、おずおずとそれを受け取った。

女の脚へかかっていた重みが、少しだけ抜ける。


店主は、カウンターの下へ手を入れた。


コト。

コト。


並んだのは、二つの小瓶だった。


「一つめ」


店主が、透き通った赤色の小瓶を指す。


「心理補助。『鉄の心臓』だ。

飲めば、先の見えない不安も、夫への情も、世間の目も、一切感じなくなる。恐怖というブレーキを壊して、ただ前へ進める」


女の息を呑む音がした。


「二つめ」


今度は、少し濁った、泥のような緑色の薬瓶。


「現実補助。『母獣の天秤』」


女の目が、緑の瓶に吸い寄せられる。


「恐怖は消えねぇ。不安も残る。

だが、お前の頭の中で『子供の生存』って目的が、他の道徳も感情も押し潰して、最優先になる」


「生きるためなら、泥水でも啜れる。プライドも捨てられる。誰かに頭を下げて縋りつくことも、恥じゃなくなる」


「人間としての尊厳を削ってでも、這いつくばって子供を生かす。そのための薬だ」


女は、二つの小瓶を見つめていた。


恐怖を消す、赤い瓶。

恐怖を抱えたまま、這いつくばる、緑の瓶。


壁際で、メテスが動かない。

リヒャルトは帳簿から目を離し、ただ静かに女の選択を待っている。

幼児が玩具を振る、かすかな木の音だけが響いた。


女の震える手が、ゆっくりと伸びる。


赤い瓶を、通り過ぎた。


指先が触れたのは、泥のように濁った、緑の薬瓶だった。


「……こっちを」


「恐怖が消えちゃダメなんです。怖いから、ちゃんと逃げられる。私のちっぽけなプライドだけが、邪魔だったから」


店主は、ふん、と短く鼻を鳴らした。

赤い小瓶を、無造作に棚へ戻す。


「賢明だ。這いつくばる覚悟がある奴は、そう簡単に死なねぇ」


リヒャルトが、音もなく歩み寄る。


「お代は、銀貨一枚になります」


女は、擦り切れた財布から、大切そうに銀貨を取り出した。


「ありがとうございます。……それから」


女は、緑の薬瓶を胸に抱きしめ、リヒャルトを見た。


「あの……住み込みで、洗い場でも、掃除でも……働ける場所を、探す方法はありますか?」


リヒャルトの目が、微かに細められた。

営業用の完璧な笑顔はない。

女の汚れた靴と、背中の乳児を見る。


「……レッター」


「はいっ」


「ギルドの第三窓口、担当へ手紙を書きます。急ぎ、紹介状の封蝋の準備を」


レッターが、弾かれたように奥へ走る。


女が、はっと息を呑んだ。


「当面の寝床と、子供がいても構わない厨房の裏方の仕事。……紹介するだけです。そこに残れるかどうかは、あなた次第ですが」


したためたばかりの紹介状を、カウンター越しに差し出す。


女の目から、そこで初めて、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……っ、やります。何でも」


店主は、それ以上何も言わなかった。

ただ、棚の奥の錬金釜に火を入れる。


ぼっ、と青白い魔力火が灯り、静かに燃え始めた。


カラン。


紹介状と小瓶を握りしめ、女が店を出ていく。


入ってきた時より、足音が少しだけ前へ出ていた。


扉が閉まり、静寂が戻る。


「……リヒャルトさん」


レッターが、封蝋の道具とインク壺を片付けながら、小さく声をかけた。


「……今のって、さっき帳簿の整理で泣きついてきた、あのギルド職員ですよね?」


リヒャルトは帳簿へ視線を戻し、涼しい顔で答えた。


「ええ。監査前で彼らも人手が足りず、死にかけていましたからね。身元の確かな人間を一人、融通してやったのです」


指先が、帳簿の端をす、と撫でる。


「……それに、賃貸契約の手付金を待ってあげているのですから。お互い様、というやつですよ」

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