監査の足音と、ギルド職員の悲鳴。
カラン。
白亜の要塞一階、アトリエ・くぼ地。
いつもと変わらぬベルの音が鳴り、勢いよく扉が開かれた。
「――って、うわっ!? 何これ!?」
飛び込んできたのは、冒険者ギルドの制服を着た若い職員だった。
彼は入口でぴたりと足を止め、信じられないものを見るように目を瞬かせた。
ふかふかの絨毯。
重厚なベルベットのカウチソファー。
魔力を浄化する観葉植物の深い緑。
「えっ? ここ、ホテル? アトリエ……ですよね?」
「いらっしゃいませ。いつもご贔屓に」
リヒャルトが、ソファーの横で完璧な営業スマイルを向ける。
職員は呆然とラウンジを見回し、やがて何かを悟ったように深く深く頭を垂れた。
「……そうか。ポーション屋を畳んで、とうとう本格的に宿屋経営へ……。はっ! ということは、あの錬金術師の店主がついに過労で……! ううっ、惜しい人を亡くした……!」
「……勝手に殺すな」
奥の厨房から、ぶっきらぼうな声とともに店主が顔を出した。
「ひぃっ! 幽霊!?」
店主が、じろりと職員を睨む。
「ただの冗談ですよー! もー! 人が本気で悲しんだのに!」
職員が胸を撫で下ろし、それからソファーへどさりと腰を下ろして、きりっとした顔を作った。
「で、空き部屋あります?」
サッ。
音もなく、リヒャルトが契約書と羽根ペンをローテーブルの上へ滑らせた。
その横から、レッターが「どうぞ」と特製茶をそっと置く。
「……で? 本題は?」
店主が呆れたようにため息を吐く。
レッターから受け取った特製茶を優雅にすすっていた職員は、はっとしてカップを置いた。
「いけない! あまりの居心地の良さに、また寛いでしまった! 実はですね……」
職員の顔から、一瞬で生気が抜けた。
「……またギルド長の無茶振りで……職員たちの肩が、死んだんです」
荒くれ者たちの対応窓口。
魔物討伐の膨大な書類整理。
パーティーの安否確認に、報奨金などの緻密な金銭管理。
冒険者ギルドという巨大組織の裏側は、いつだって職員たちの肩凝り、腰痛、眼精疲労、そして胃痛という名の血と汗で回っている。
「いつものことだな」
店主は鼻で笑い、奥から疲労回復の定番ポーションをいくつか取り出そうとした。
だが、職員はテーブルにすがりつくようにして叫んだ。
「今回はさらにだ……! 近々、王宮から監査がくる!!!」
ピクリ。
アトリエの空気が、ほんの一瞬だけ奇妙に強張った。
「王宮、から?」
リヒャルトの完璧な営業スマイルが引き攣り、ぴんと背筋を伸ばして周囲を見回した。
店主が胡乱な目でリヒャルトを見やる。
さっと、リヒャルトが明後日の方向へ顔を逸らした。
店主が、今度はレッターを見る。
レッターは滝のような冷や汗を流しながら、明後日の方向を向いて「ヒュー、ススー」と、まったく音の出ない口笛を吹き始めた。
店主が、最後にメテスを見る。
メテスは壁際で腕を組み、彫刻のような無表情を保っている。
だが、その目だけは明らかに非常事態の色をしていた。
(……こいつら、何をやらかしたんだ)
店主は内心で深々とため息を吐き、とりあえず追及を後回しにすることにした。
「ん? どうしたんですか皆さん?」
「……気にするな。で、お前はどうしたいんだ」
職員は、アトリエ組の奇妙な反応に首を傾げつつも、悲痛な顔で両手を合わせた。
「そう! だから、細かい書類の不備や帳簿の数字のズレ……そういうチェック漏れを潰せるポーションが欲しいんです! 監査で少しでもつつかれたら、ギルド長に首を物理で飛ばされます!」
その切実すぎる叫びに、店主はしばらく職員の目の下の濃いクマを見つめていた。
「……まあ、ギルドにはいつも素材の発注で世話になってるからな。特別だ」
コト、コト、コト。
店主はカウンターの下から、三つの小瓶を同時に並べた。
「おっ! 選べってやつですね!」
「いや、全部、必要になるはずだ」
職員が目を丸くする。
「フルコース!?」
「ああ。監査を乗り切るための、特別なポーションだ」
店主は、ひとつめの淡い青色の瓶を指差した。
「物理補助。『鷹の目の目薬』だ。
飲まずに目に一滴ずつ垂らせ。三日間、どんな小さな文字の羅列でも、書類の不備や数字の矛盾が赤く光って見えるようになる。これでチェック漏れは物理的になくなる」
「おおお! まさに神の薬!」
ふたつめ。澄んだ緑色の瓶。
「心理補助。『鉄壁の事務官』だ。
飲めば、どんな単調な作業でも一切の飽きが来なくなる。感情が完全に凪ぎ、機械みたいに正確で無慈悲な事務処理能力が手に入る。監査官の嫌味な質問にも、無表情で正論を叩き返せるようになる」
「す、素晴らしい……! これで監査官も論破できる!」
職員が歓喜に震える。
だが、店主はみっつめの、ひどく泥濁りした茶色い瓶を前へ押し出した。
「そして最後。現実補助。『ツケの清算』だ」
職員の顔が、ぴたりと止まった。
「……それは?」
「お前らが今まで『まあ、あとで直せばいいか』『ギルド長のサイン、俺が適当に書いとくか』と誤魔化してきた、すべての小さな不正や手抜きを……飲んだ瞬間、鮮明に思い出させる薬だ」
アトリエが静まり返った。
「チェック漏れを潰すってのは、そういうことだ。
赤く光る不備を見つけて機械みたいに直す前に……お前ら自身が『どこを誤魔化したか』を把握してなきゃ、修正のしようがない」
職員の喉が、ひくりと鳴った。
「そ、それを飲んだら……俺たちの精神は……」
「たぶん、三日三晩、過去の自分への後悔と自己嫌悪で泣き叫ぶことになるだろうな」
店主は容赦なく言い放った。
「だが、それを乗り越えて尻拭いを終わらせれば、王宮の監査なんて怖くない。……お前らが本当に欲しいのは、その場凌ぎの誤魔化しじゃなく、完璧な帳簿だろう?」
職員は、三つの瓶を前にしてひどく胃が痛そうな顔をした。
しかし、やがて覚悟を決めたように三本すべてを大切に抱え込んだ。
「……やります。ギルド職員の意地にかけて、すべてのツケを払ってみせます!」
「あ! 他の職員の分も人数分ください」
「ええ! お任せ下さい」
リヒャルトの声が、露骨なくらい弾んだ。
その横でレッターが、慌てて棚からポーションを抱えてきて、紙袋へ一本ずつ丁寧に詰めていく。
ローテーブルの上には、追加料金の計算とともに銀貨が気持ちいい音を立てて積み上がっていった。
「よし!」
職員は特製茶をぐいっと飲み干し、契約書にも嵐のような勢いでサインをして、
「引越しは監査の修羅場が終わった頃にします! 賃貸の前金もその時に!」
と言いながら、アトリエを飛び出していった。
カラン。
扉が閉まり、静寂が戻ったラウンジで。
店主はゆっくりと振り返り、一列に並んだ三人――リヒャルト、メテス、レッターを順番に睨みつけた。
「……で?」
レッターの喉が、ひゅっと情けなく鳴った。
慌てて口笛で誤魔化そうとするが、「ヒュー、ススー」と間の抜けた空気が漏れるばかりだ。
メテスは微動だにしない。
だが、張りつめた肩と、わずかに細くなった目が、警戒を解いていないことを物語っていた。
リヒャルトだけが、なおも営業スマイルを崩さずに一歩引く。
「おや、もうこんな時間ですか。帳簿の整理に戻らなくては」
逃げようとした首根っこを、店主ががしりと掴んだ。
「……お前ら、何を隠してるんだ?」
リヒャルトは、観念したように一拍だけ目を伏せた。
「……魔導リフトが増えてます」
店主の眉が、ぴくりとも動かない。
その無反応さが、かえって怖かった。
「それで?」
低く、短い声が落ちる。
あまりにも揺るがなさすぎて、リヒャルトの方が一瞬だけ言葉に詰まった。
「……どこかに届け出が要る類でしょうか」
店主は、心底くだらないことを聞かれたみたいに鼻を鳴らした。
「そんなことで今さら騒ぐな。知らん。だが、ここはうちの建物だ。王宮直轄でもなければ、ギルド管理の宿でもない。文句をつけるなら、まず持ち主の俺に来る」
リヒャルトの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「居住者が勝手にしたことで、店主に何か咎が及ぶのではないかと心配で……」
店主は鼻で笑った。
「大丈夫だ。問題ない」
その一言に、レッターは目に見えて肩の力を抜いた。
胸元を押さえて、はあ、と長い息を吐く。
メテスもごくわずかに顎を引き、壁際で固めていた気配を解いた。
だが、店主の追及は終わらない。
「で、リフト以外は」
空気が、もう一度ぴんと張る。
「ヒッ」
短い悲鳴を漏らしたのはレッターだった。
肩を震わせ、箒でも持っていればそのまま盾にしそうな顔で店主を見る。
「ヒュー、ススー」
今度の口笛も、やはり音にならない。
ただ逃げたい気持ちだけが、情けなく漏れていた。
メテスは沈黙したまま、ほんのわずかに視線を逸らした。
それだけで十分、答えになっていた。
白亜の要塞の日常は、今日も誰かの胃痛と、善意に包まれたまま優雅に更けていくのだった。




