部屋から、出たくないんです
通信魔導具と、完璧な引きこもり。
カラン。
アトリエに、ひどく気怠げなベルの音が落ちた。
入ってきたのは、目の下に濃い隈を作った若い客だった。
服装は、部屋着の延長みたいに無頓着だ。
「いらっしゃいませ。どうなさいましたか」
リヒャルトが、完璧な営業スマイルで声をかける。
客は、重い足取りでカウンターに手をついた。
「……部屋から、出たくないんです」
絞り出すような、疲れきった声だった。
「通信魔導具ひとつで、生活に必要なものが全部届くんです。部屋を出る理由が、完全になくなった」
リヒャルトの黒い瞳が、わずかに細められる。
「……それは快適ですね」
本気でそう思っていそうな声だった。
だが、客の顔は晴れない。
「でも、ダメなんだ……」
客が、自分の頭を抱え込むように俯いた。
「ダメ人間になってるって、自分でも分かってるんです」
「親には『外へ出ろ、世界は広いぞ』って、毎日通信越しに囃し立てられるし」
客の口から、呪詛みたいな愚痴がこぼれ落ちる。
「でも、外に出ても金はいるし」
「ちょっと座って休むベンチもないし」
「眠いなと思っても、仮眠できる場所なんてどこにもないし」
「……疲れるだけだ」
アトリエに、重苦しい閉塞感が落ちた。
『世界は広い』という言葉の暴力と。
『外の世界の不便さ』という、ひどく冷たい現実。
カウンターの奥。
薬草を刻んでいた店主が、ナイフを置いた。
「……で?」
「お前は、外に出たくなる薬が欲しいのか?」
「それとも、親の説教が聞こえなくなる薬か」
客が、びくりと肩を跳ねさせる。
「……どっちも、違う気がします」
「そうだろうな」
店主は鼻を鳴らした。
カウンターの下へ手を入れる。
コト。
コト。
コト。
並んだのは、三つの小瓶だった。
「お前が『休むこと』にすら罪悪感を抱えたまま腐りたいなら、選べ」
ひとつめ。
太陽みたいに眩しい、オレンジ色の液体。
「物理補助。『強制散歩の陽光』だ」
「飲めば、体が勝手に外へ向かう。疲労も感じず、ベンチがなくても歩き続けられる」
「親が望む『健全な若者』の完成だ。……ただし、薬が切れた反動で三日は寝込む」
客が、嫌悪感に顔を歪める。
ふたつめ。
泥のように濁った、灰色の液体。
「心理補助。『石ころの耳栓』だ」
「飲めば、親の言葉も世間の目も、ただの石ころが転がる音にしか聞こえなくなる」
「誰の言葉にも傷つかず、部屋の中で綺麗に腐っていける」
客の喉が、ひくりと鳴った。
一瞬、惹かれたような目だった。
店主は、最後の一本を客の前へ押し出した。
透き通った、深い夜空のような群青色の液体。
「みっつめ。現実補助。『ただの極上の安眠薬』だ」
客が、ぽかんと口を開けた。
「……安眠薬?」
「お前の隈を見ろ。部屋に引きこもってたくせに、ろくに寝てないだろ」
店主の目が、客の抱える矛盾を冷ややかに射抜く。
「『親に怒られる』『世間から取り残される』……そんな声を頭の中でぐるぐる回して、休むことすらサボってる」
図星を突かれた客の顔から、血の気が引いた。
「外の世界が疲れるなら、部屋から出なけりゃいい」
群青の小瓶が、カウンターの上で静かに光る。
「だが、中途半端に罪悪感を抱えたまま引きこもるな。休むなら、全力で休め」
「三日三晩、泥のように眠れ。親の通信魔導具は電源を切れ」
「目が覚めて。……それでもまだ『外に出たい』と一ミリも思わないなら、その生き方に腹を括れ」
アトリエが、しん、と静まり返った。
メテスが壁際で、静かに頷く。
「……中途半端な休息は、毒にしかならない」
リヒャルトが、完璧な笑顔を浮かべた。
「ええ。効率の悪い引きこもりですね」
客は、しばらく群青の小瓶を見つめていた。
やがて、震える手を伸ばし、それをぎゅっと握りしめる。
「……これにします」
「銀貨一枚だ」
客は、チャリ、と硬貨を置いた。
小瓶を懐へ深くしまおうとした、その時だった。
「……ただし」
店主の低く、ひどく冷たい声が、客の動きを縫い止めた。
「引きこもるなら、自分の力で引きこもれ」
客が、息を呑んで顔を上げる。
店主の目は、一切の甘えを許さない現実の刃そのものだった。
「親の金で息をしてるうちは、親の『外に出ろ』って言葉からは一生逃げられないぞ」
「……っ」
「お前には立派な通信魔導具があるんだろ。……なら、それで稼げ」
痛いほどの正論だった。
親のスネをかじって腐るのと、自立して部屋に引きこもるのは、まったく別の生き物だ。
「部屋から一歩も出ずに生きる覚悟があるなら。……自分の生活費くらい、自分で叩き出せ」
客の目が、大きく見開かれた。
それから、深く、深く息を吸い込む。
「……はい」
入ってきた時の、重く気怠いだけの声じゃなかった。
客は深く頭を下げ、踵を返した。
その背中には、少なくともさっきまでなかった硬さがあった。
カラン。
重い扉が閉まる。
「……親の『世界は広い』なんて、ただの無責任な押し付けですね」
レッターが、冷えた特製茶を片付けながらぽつりとこぼす。
「あぁ」
店主は再びナイフを握り、薬草を刻み始めた。
「世界が広かろうが、休む場所がなけりゃ、そこはただの荒野だ」
トントン、と。
静かなアトリエに、ナイフの音が規則正しく響く。
クリムが、店主の肩で丸くなる。
「きゅ……(おやすみ……)」
ルゥが、床で心地よさそうに目を閉じた。
「わふ……(……まずは、目を閉じろ)」
アトリエには、薬草の青苦い匂いと。
外の世界の広さに疲れ果てた客へ処方された、
『休息』と『自立』の余韻だけが残っていた。




