祝福の花束と、置き場所がなくなる部屋。
コンコンコン。
深夜のアトリエの扉が、遠慮がちな音で叩かれた。
すでに表の『CLOSE』の札は裏返されている。
カウンターの奥。
片付けの手を止めた店主が、舌打ちを一つ落とした。
扉の小窓を乱暴に開ける。
「……おい。明日来い」
低い、苛立ちを含んだ声。
だが、入り口に立つ女は、そこへ縫い止められたように動かない。
むわ、と。
小窓の隙間から、ひどく甘ったるい、むせ返るような花の匂いが流れ込んできた。
クリムが、店主の肩で毛を逆立てて震える。
「きゅ……!」
ルゥが暗がりから立ち上がり、低く、威嚇の唸り声を上げた。
「グルル……わふ」
店主の目が、すう、と細められる。
やがて、鍵が外れる音がした。
女はふらふらと中へ入ってきた。
髪にも、服にも、その甘ったるい花の匂いがこびりついている。
夜気をくぐってきたはずなのに、まるで花束の中からそのまま歩いてきたみたいだった。
カウンターへ辿り着いた途端、女は崩れるように縋りつく。
「……助けて、ください」
焦点の合っていない目だった。
店主は無表情のまま、女を見下ろした。
「話せ」
女の喉が、ひゅっと鳴る。
「彼が、毎日、花をくれるんです」
店主は何も言わない。
「最初は、嬉しかったんです。私の好きな花で」
その言葉の途中で、女の唇が小さく震えた。
「でも、だんだん……部屋の、置き場所がなくなって」
アトリエの静けさの中で、女の掠れた声だけがひどく頼りなく揺れる。
「断っても、置いていくんです」
「捨てたはずの花が、次の日の朝、ドアの前に戻ってるんです」
店主の目が、細められた。
「燃やした日もありました。そうしたら」
女の指先が、ガタガタと震え出す。
「次の日、燃やした分の数も合わせて、無理やり両手に握らされたんです」
呼吸が浅くなる。
「『間違えて燃えちゃったんだね。可哀想に』って」
甘い花の匂いの中に、ぞっとするほど乾いた声色が滲んだ気がした。
「やめてほしいって言うと、彼、ひどく傷ついた顔をして……泣くんです」
しん、と。
深夜のアトリエへ、重たい静寂が落ちた。
優しさの顔をした所有欲だった。
花はもう、飾るためのものじゃなかった。
「……回数だ」
店主の声が、深夜の空気を切り裂いた。
「今日で、何回目だ」
女が、虚ろな目を上げる。
「……え?」
「花が届き始めて、今日で何回目だ」
女は、しばらく答えられなかった。
天井でもない、棚でもない、どこにもない場所を見つめて、やっと唇を動かす。
「……百回目、です」
「……そうか」
店主は鼻を鳴らし、カウンターの下へ手を入れた。
コト。
コト。
コト。
並んだのは、三つの小瓶だった。
「お前が『愛されているだけだ』って勘違いしたまま狂いたいなら、選べ」
ひとつめ。
泥のように濁った、黒い液体。
「物理補助。『枯死の灰』だ」
店主が瓶を指で弾く。
「花に振りかけろ。一瞬で塵になる」
「だが、次は花じゃ済まない。鉢ごとか、お前ごと土へ移す」
女の顔から、血の気が引く。
ふたつめ。
透明な、微かに光る液体。
「心理補助。『忘却の芳香』だ」
「飲めば、その花の匂いも、部屋が埋め尽くされていく恐怖も、すべて何も感じなくなる」
店主の声は淡々としている。
「お前は花に埋もれて、彼が与えるものを笑顔で受け取り続ける、完璧な『人形』になれる」
「嫌……っ」
女は強く首を振った。
こびりついた花の匂いごと振り落としたいみたいに。
店主は、最後の一本を女の前へ押し出した。
血のように赤い、一滴の液体が入った小瓶。
「みっつめ。現実補助。『拒絶の試金石』だ」
女が、その赤を見た。
「この薬は、好意の量なんて測らない」
一拍。
「相手の言葉に混じった『怒り』と『支配欲』にだけ反応して、赤く発光する」
店主の目が、女の逃避を絶対に許さない冷たさで射抜いた。
「次に花を渡された時、薬を握りしめたまま、明確に『いらない』と断れ」
女の肩が強張る。
「男が傷ついた顔をして泣こうが、悲しもうが、その小瓶が赤く光り輝けば……それは愛情じゃない。ただの暴力だ」
女は、震える手を伸ばした。
愛を測るのではない。
断った時の、底知れぬ悪意を可視化する薬。
「……これにします」
「銀貨一枚だ」
女は硬貨を置き、赤い小瓶を握りしめた。
そのまま、背を向ける。
重い足取りで、扉へ向かう。
華奢な背中だった。
花で埋まった部屋へ、そのまま帰していい背中じゃなかった。
店主の脳裏を、最悪の計算が掠める。
今日で、百回目。
『100%の愛』。男は、たぶんそういうつもりで寄越している。
では、明日の、百一回目は……。
百一回目。
それは、もう贈り物の数じゃない。
部屋の奥か、土の下か、水の底か……。
「……クソッ」
店主が、舌打ちと共にカウンターを強く叩いた。
「おい、待て」
扉の取っ手に手をかけていた女が、ビクンと肩を跳ねさせる。
店主は棚から乱暴に一本の青いポーションを掴み取り、カウンター越しに放った。
女が慌てて、それを受け取る。
「物理障壁の薬だ。瓶を割れば、鉄の壁ができる」
女が目を丸くした。
店主はカウンターから一歩も動かない。
ただ、忌々しげに顔を歪めたまま、低く言い放った。
「……詰め所へ行け。白亜の店主から紹介だと伝えろ」
女は、手の中の青い瓶と、店主の目を見た。
確かな警告の色が、そこには浮いていた。
そして、ガタガタと震えながら、深く、深く頷く。
「……はい」
掠れた声だった。
扉が開く。
夜の冷たい空気が、甘ったるい花の匂いを少しだけ押し戻した。
女は、今度こそ駆けるように闇へ消えた。
ぱたん、と。
重い扉が閉ざされる。
アトリエには、むせ返るような花の匂いの余韻だけが残った。
店主は、閉まった扉をじっと見つめたまま、ぽつりと落とした。
「……薬は渡した。あとは走れるかどうかだ」
ルゥが、床で低く息を吐いた。
「わふ(……間に合うといいが)」
クリムが、店主の肩で不安そうに身を寄せる。
「きゅ……(にげきって……)」
しばらくして。
アトリエには、薬草の青苦い匂いが、ゆっくりと戻ってきていた。




