母の料理が、喉を通らないくらい、苦い。
カラン。
アトリエに、ベルの音が落ちた。
入ってきた客は、二十代半ばほどの男だった。
身なりは整っている。
だが、その顔色はひどく土気色で、ひび割れた唇が微かに震えていた。
「いらっしゃいませ。どうなさいましたか」
リヒャルトが、完璧な営業スマイルで声をかける。
だが、客の焦点はどこか虚ろだった。
客はふらつくような足取りでカウンターへ近づき、すがりつくように両手をついた。
「……最近」
声が、掠れていた。
「母の料理が、喉を通らないくらい、苦いんですよね」
アトリエの空気が、ほんの少しだけ止まった。
カウンターの奥。
乳鉢で薬草をすり潰していた店主が、ぴたりと手を止める。
「……いつからだ」
低い、感情の読めない声だった。
「……三ヶ月くらい前からです」
客の指先が、カウンターの木目を無意識に掻く。
「急に、味がおかしくなったんです」
すっ、と。
客の手元へ、温かい特製茶が置かれた。
レッターが、心配そうに客の顔を覗き込んでいる。
客は茶杯に触れようともせず、ただ虚空を見つめて言葉を継いだ。
「自分の味覚がおかしくなったのかと思って。外食したり、自分で自炊して食べたりしたんです。……そしたら、味は普通で。苦くなかった」
店主の目が、細くなる。
「でも、母が作れば苦い」
答える前に、客の喉が小さく鳴った。
「……そうです」
店主は乳棒を置いた。
無愛想な顔のまま、男の目を真っ直ぐに射抜く。
「母親は、その料理を食べてるのか?」
客の肩が、びくりと跳ねた。
「……それが……」
店主は待たなかった。
「食べずに、お前が食べるのをジッと見てるだけか?」
アトリエの空気が、一気に氷点下まで冷え切った。
客の喉が、ひくりと鳴る。
乾いた音だった。
「……はい」
しん、と。
静寂が落ちた。
クリムが、店主の肩で毛を逆立てる。
ルゥが床に伏せたまま、喉の奥で低く、ひどく冷たい唸り声を漏らした。
壁際で腕を組んでいたメテスが、音もなく目を開く。
その瞳には、魔物に向けるのと同じ、底知れない警戒の色が宿っていた。
レッターが、息を呑んで後ずさる。
「……そうか」
店主は鼻を鳴らし、カウンターの下へ手を入れた。
「味覚障害じゃない。お前の舌は正常だ」
コト。
コト。
コト。
並んだのは、三つの小瓶だった。
「お前が『母の料理が苦いだけだ』って逃げ道を塞ぎたいなら、選べ」
ひとつめ。
透き通った、水のような液体。
「物理補助。『鉄の舌と解毒の雫』だ」
店主が瓶を指先で弾く。
「飲めば、どんな毒物だろうが苦味だろうが、すべて無味無害に変換される。お前は母親の料理を、笑顔で完食できるようになる」
客の顔に、すがるような光が差す。
「それなら……!」
「ただし」
店主の声が、その光を容赦なく切り捨てる。
「お前が平気な顔で食べ続ければ、向こうは『足りない』と見る。次は、もっと濃くなる」
客の顔から、一瞬で血の気が引いた。
ふたつめ。
甘ったるい匂いのする、桃色のシロップ。
「心理補助。『盲信の甘味』だ」
店主は瓶から手を離した。
「飲めば、その苦味を『自分への深い愛情』だと錯覚できるようになる。体が内側から腐っていく痛みまで、ありがたいと思うようになる」
「……」
「母親の愛を疑いたくないなら、これだ。お前は幸せな顔をしたまま、数ヶ月以内に死ぬ」
客は、ガチガチと歯を鳴らして震え始めた。
店の中の誰も、すぐには口を開かなかった。
店主は、最後の一本を客の前へ押し出した。
濁った、鉛のような灰色の粉末が入った小瓶。
「みっつめ。現実補助。『真実の銀粉』だ」
客が、虚ろな目でそれを見る。
「……銀粉」
「この薬は、お前を毒から守らない。苦味も消さない」
店主の目が、客の逃避を絶対に許さない冷たさで射抜いた。
「料理に振りかけろ。……もしそれに、お前の体を壊す毒や、異常な支配の呪いが混ざっていれば、料理は一瞬でどす黒く変色し、腐臭を放つ」
客の呼吸が、浅く、早くなる。
「証拠を見る薬だ。……『自分の味覚がおかしいだけかもしれない』という、お前の甘い言い訳を物理的にへし折る」
店主は、灰色の小瓶をとん、とカウンターへ叩きつけた。
「黒く変わったそれを見て、家を出るか。
それでも食うか。
そこから先は、お前が決めろ」
客は、三本目の小瓶から目を離せなかった。
証拠。
それを見てしまえば、
もう二度と「優しい母」という幻想には戻れない。
帰る場所を、家族を、完全に失う。
客の指先が、膝の上で強く握り込まれた。
リヒャルトが、一切の感情を排した声で、静かに言った。
「……気付いているのでしょう?」
客の肩が、大きく震える。
リヒャルトの眼鏡の奥の瞳は、客の弱さをひどく冷酷に見透かしていた。
「貴方が本当に恐れているのは、毒で体が壊れることではない」
「……」
「母親から向けられている歪んだ執着まで失って……完全に一人になることだと」
客の目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
声も出さず、ただ子どもみたいにカウンターへ突っ伏して泣き崩れる。
自分の体を壊してでも、自分を側に繋ぎ止めようとする母。
それに気付きながら、それでも見捨てられない自分。
店主は何も言わない。
ただ、客が泣き止むのを待った。
やがて。
客は震える手を伸ばし、灰色の『真実の銀粉』を握りしめた。
「……これにします」
「賢明なご判断です」
リヒャルトが、流れるような手つきで小瓶を包む。
「お代は、銀貨二枚になります。
なお、使用後はそれまでの場所へ戻れなくなる可能性が高いですが。……正常な結果です」
「……はい」
客は銀貨を置き、包みを懐へ深くしまった。
ひどく青ざめた、けれど、もう後戻りはしない覚悟を決めた顔だった。
「……ありがとうございました」
カラン。
扉が閉まる。
その足取りは重かったが、入ってきた時のように、見えない毒に蝕まれているふらつきは消えていた。
「…… ここまでされても、子どもは親を見捨てきれないんですね」
レッターが、冷めきった特製茶を流しへ捨てながら、ぽつりと呟いた。
その声は、かつてないほど冷えていた。
「毒にするか、糧にするかは、親次第だ」
店主は再び乳鉢を引き寄せた。
薬草へ乳棒を押し当てる。
「毒を愛情の名前で飲み込むな」
ゴリ、と。
鈍い音が、静かなアトリエに響いた。
メテスが壁際で、静かに頷く。
「……逃げるのも、戦いだ」
リヒャルトが帳簿を閉じ、完璧な笑顔を浮かべた。
「ええ。少なくとも、もう“苦いだけ”では済まさないでしょう」
クリムが胸を張る。
「きゅ!(逃げろ!)」
ルゥが、床で低く息を吐いた。
「わふ(……鎖は、自分で断ち切れ)」
アトリエには、薬草の青苦い匂いと。
逃げ場のない食卓へ、自ら終止符を打ちに帰った客の、ひどく重い決意の余韻が残っていた。




