黒い襲撃者と、要塞の鉄壁。
ガンッ!
アトリエの扉が、重たい悲鳴みたいな音を立てた。
「で、出た……っ! 出たんだ!!」
悲鳴だった。
顔面を蒼白に引きつらせた男が、転がるようにロビーへ飛び込んでくる。
「黒い……黒いアイツが!!」
ピキリ。
アトリエの空気が、一瞬で凍てついた。
メテスが音もなく床を蹴り、男の前に立ち塞がると同時に片手剣を鞘から引き抜いた。
放たれる、本物の殺気。
カウンターの奥では、リヒャルトの指先に青白い魔力が鋭く収束し、ロビーの職人や冒険者たちも、呼吸を止めてそれぞれの得物に手をかけていた。
退路の封鎖。
死角の排除。
息をする間もない、暗殺者級の迎撃陣形。
「落ち着け」
店主の地を這うような声が、張り詰めた空間に落ちた。
「……数は。武装はしているか」
男は床に座り込んだまま、ガチガチと歯を鳴らして叫んだ。
「ひ、一匹だ! 流し台の裏に潜んでて……! テカテカ光る黒い鎧を着て、ものすごい速さでカサカサと……っ!」
スン……。
メテスの剣から力が抜け、リヒャルトの指先の魔力が霧散した。
ロビーの面々も一斉に武器を下ろす。
「……なんだ」
「……虫かよ」
「びっくりしたなぁ。俺の出番かと思ったわ」
「大事なくてよかったよかった」
致死量の殺気が充満していたロビーが、一瞬で日常へ戻った。
「な、なんだよその反応! 親の仇のように憎いんだぞ! でも、恐ろしくて戦えないんだ……!」
「親の仇なら、自分で始末しろ。うちは駆除業者じゃない。ポーション屋だ」
店主が、重い溜息を吐いた。
「そんなこと言わずに、なんか薬をくれ! 部屋に帰れないんだ!」
「……白亜の要塞には、虫は一匹たりとも出ない」
店主の断言に、職人たちが胸を張る。
「そうだぞ! 俺たちが完璧な防虫結界を編み込んであるからな!」
男が、羨望のまなざしで周囲を見回す。
「いいなぁ……結界……」
「よそを羨んでる暇があったら、自分の家をどうにかしろ」
店主はカウンターの下から、三つの小瓶を並べた。
「お前が借りてる『外』の家で戦う気があるなら、選べ」
ひとつめ。
『絶対反射の雫』。
店主が黒ずんだ青の小瓶を指先で軽く弾く。
「反射神経を上げ、ヤツの動きを止める。叩き潰す感触はしっかり手に残る」
「無理だ! 味わいたくない!」
ふたつめ。
『妖精の幻霧』。
淡い金の靄が、瓶の中でふわりと揺れた。
「ヤツが“花の妖精”に見えるようになる。……妖精だと思って手乗りにする覚悟が必要だ」
「ひっ……! 発狂する!」
男は震えながら、別の薬を求めた。
「氷とか、遠くから凍らせるようなやつは……っ」
店主の目が、凍るほど冷えた。
「ねぇよ」
短く切って、鼻を鳴らす。
「……お前、賃貸だろ。床を傷めりゃ、困るのは大家だ」
店主は最後の一本を押し出した。
淀んだ茶色の、素焼きの壺だった。
「現実補助。『殲滅の餌壺』だ」
「……餌?」
「お前が部屋を留守にしてる間に、それを置いておけ」
店主の声は、淡々としていた。
「潜んでいた黒いヤツらは、一匹残らず匂いに寄る。食った瞬間に終わりだ」
男の目が、ぱあっと輝いた。
「すごい! それなら僕、何もしなくていい!」
「そうだ。戦う必要も、感触を味わう必要もない」
店主は、そこで一拍置いた。
「ただし」
男の顔から、笑みが消える。
「帰ってきた時に片付けるのはお前だ」
静かな声だった。
「部屋の真ん中に、黒いのがまとまって転がってる。……それを自分の手で、袋に詰めて捨てろ」
レッターが、奥で小さく顔を引きつらせた。
男は、壺と自分の手を交互に見比べ、ごくりと唾を飲み込む。
「……これ、ください。これなら、なんとか……っ」
「毎度。銀貨一枚だ」
リヒャルトが、一切の無駄がない手つきで壺を包み始めた。
だが、その口元には、さらに深い闇が揺れている。
「あ、ちなみに」
男の肩がびくりと跳ねる。
「忘れた頃に、また別の場所から出る可能性はあります。ですから、継続購入をおすすめしますよ?」
「ひっ、ひぃぃぃ……っ!」
男は、包まれた壺を胸元へ抱え込んだ。
ようやく助かったと思った顔と、まだ何も終わっていないと理解した顔が、ひどく情けなく同居している。
その視線が、ふとロビーを彷徨った。
磨かれた白い石畳。
防虫結界の編み込まれた壁。
怯えて駆け込んできた自分を、何事もなかったみたいに受け止める頑丈な建物。
「……ところで、お客様」
リヒャルトが、そこで初めて柔らかく声を変えた。
柔らかいのに、逃げ場だけはなかった。
「……ご職業は?」
「えっ? あ、えっと、中堅商会の事務で……」
「なるほど」
リヒャルトの目が、男を上から下まで値踏みするように舐める。
その視線は、もはや客を見るものではなかった。
「収入は? 勤務形態は? 趣味は? 生活リズムは?」
男は、その圧倒的な“面接”の空気に飲み込まれていた。
「え、あ……順調です。残業も少なめで、読書が趣味で静かに暮らしてます……っ」
リヒャルトの口角が、わずかに上がる。
「完璧です。当要塞の入居基準を満たしておられます」
にっこり。
「防虫、快適、設備充実。……理想の住環境ですよ」
男は、入居案内書と、自分が抱える茶色の壺を交互に見比べた。
虫の恐怖と、片付けの地獄から逃げ出せる“白亜の要塞”という聖域。
それは、今の彼にとって、何よりもまっとうな救いに見えた。
「……家賃は、いくらですか」
「おい」
店主が、呆れ果てたように声を落とす。
「勝手に囲い込むな。うちはポーション屋だ」
だが、リヒャルトは振り返りもしない。
「私は要塞の資産価値と、安定した家賃収入を管理しているだけです」
メテスが壁際で、静かに頷いた。
「……身元が確かなら、安全だ」
「きゅ!(入居面談!)」
ルゥが、床で呆れたように息を吐いた。
「わふ(……また、騒がしくなるな)」
男はまだ壺を抱えたまま、案内書を開いた。
白い紙面へ目を落とし、こわごわと息を吐く。
さっきまでの悲鳴混じりの呼吸ではなかった。
ようやく見つけた避難先を、恐る恐る確かめるみたいな、細い息だった。




