表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
錬金術師のポーション屋。疲れたときはやっぱりこれ  作者: ChaCha


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

276/289

自分が何を願っているのか。何が欲しいのか…わからない

カラン。


穏やかな昼下がりの空気を裂いて、アトリエのベルが鳴った。


入ってきたのは、ひどく曖昧な輪郭をした客だった。

足取りには目的がない。

視線は宙を泳ぎ、肩の力も、立っているための芯も、どこか薄い。


ふらりと。

風に流されるように、ここへ迷い込んできたような気配だった。


「……ここは」


客は、呆然としたままアトリエを見渡した。


白い石畳の広がるロビーは、相変わらず高級ホテルのラウンジみたいに整っている。

けれど、そこにいる人間たちは妙におかしかった。


ふかふかのソファに深く沈み込み、分厚い魔導書を読みながら、時折、青い小瓶をちまちまと煽る魔術師。

ローテーブルを挟み、昨夜の美容ポーションの配合について真剣な顔で語り合う女性客たち。

そして、部屋の隅の暗がりでは、顔の青ざめた男が死んだように眠り込み、規則正しいいびきを立てている。


異常な光景だった。

なのに、それがどうしようもなく馴染んでいる。


「いらっしゃいませ」


完璧な営業スマイルを浮かべたリヒャルトが、流れるような所作で客の正面に立った。


「貴方が今、欲しいと願っているポーションをお伺いします」


柔らかい。

だが、逃げ場のない問いかけだった。


客は、はっとしたようにリヒャルトを見た。

その口が、かすかに開閉する。


「……今、欲しい……願い」


言葉が、ひどく空虚に響いた。


すっ、と。

客の手元へ、温かな湯気が差し出される。


「どうぞ」


レッターだった。

小さな盆に載せられた特製茶が、薬草の青苦さと、微かな甘い匂いを立てている。


「あ、ありがとう」


客は両手で包み込むように茶杯を受け取り、ひと口飲んだ。

強張っていた肩が、ほんの少しだけ落ちる。


しばらく、静寂が落ちた。


客は茶杯を見つめたまま、長く、ひどく迷うような逡巡を繰り返していた。

何かを探しているのに、その探し方そのものを忘れてしまった人間の沈黙だった。


やがて。


「……わかりません」


ぽつりと、こぼれた。


「自分が何を願っているのか。何が欲しいのか。……全部、わからないんです」


客は顔を上げた。

その目には、どうしようもない欠乏感だけが張り付いていた。


「恋人を作れば変わるかと思った」


そこで一度、言葉が途切れた。

客の指先が、茶杯の縁をきつくなぞる。


「仕事に打ち込めば満たされると思った」


冷めかけた茶をひと口飲む。

けれど、喉を通っても何も落ちていかないみたいに、視線はまだ宙を彷徨っていた。


「趣味も増やした。……でも、どれも違ったんです」


茶杯を持つ指先が、かすかに震える。


「手に入れた時は、これで変わるかもしれないって思うんです。これで埋まるかもしれないって」


睫毛が震えた。


「でも、すぐまた空になる」


声が、掠れた。


「ちゃんと選んだつもりだったんです。自分なりに」


「これなら前に進めるかもしれないって、その時は本気で思ってた」


客は、俯いたまま茶杯を両手で包み込む。

もうぬるくなりはじめているはずなのに、その熱だけを確かめるみたいに。


「恋人ができた時も、嬉しかったんです」


「仕事で必要とされた時も、少しだけ、自分にも意味がある気がした」


「趣味だって、始めた時は楽しかった」


そこで、かすかに息が詰まった。


「……なのに、長く持たなかった」


客の喉が、小さく鳴る。


「気がつくと、また同じところに戻ってるんです」


「置いていかれるみたいに。自分だけ、何にも辿り着けないまま」


言葉の最後が、ひどく頼りなかった。


「でも、欲しいんです。……何かで、満たされたいんです」


アトリエの奥。

乳鉢で薬草をすり潰していた店主が、ぴたりと手を止めた。


石と石が擦れる音が止んだ瞬間、店の空気がひとつ沈んだ。


「……自分が何を食いたいかもわからないのに、ただ胃袋に何かを詰め込みたがる」


店主は乳棒を置いた。


「腹を壊すガキと同じだな」


客の肩が、びくりと跳ねる。


店主はカウンターの下へ手を入れた。


コト。

コト。

コト。


並んだのは、三つの小瓶だった。

桃色。

金色。

そして、光を吸い込むみたいに澄んだ透明。


「お前がただ、その気持ち悪い空腹を魔法で消し飛ばしたいってんなら、選べ」


ひとつめ。


どろりとした、甘ったるい桃色の液体。


店主が指先で瓶を転がす。

重たい蜜が、内側でゆっくり遅れて揺れた。


「物理補助。『疑似満腹の蜜』だ」


客が、すがるように小瓶を見る。


「飲めば、虚無感は綺麗に消え去る。焦りも欠乏感も湧かない。ただ息をしているだけで満たされる」


店主の目は、客から逸れない。


「……置物みたいにな」


客の息が、ひゅっと止まった。


ふたつめ。


派手な金粉が、液の中で忙しなく舞い踊る小瓶。


「心理補助。『他者の青写真』だ」


店主は鼻を鳴らした。


「世間が持て囃す『幸せ』を、自分の願いだと錯覚できるようになる。

金、名誉、恋人。誰かの欲望をそのままなぞって、それを追うために忙しく生きられる」


「……他人の、欲望」


「そうだ。自分の願いがわからないなら、他人の真似をして走っていればいい」


金粉が、きらきらと薄く光る。


「中身が空でも、充実してる顔はできる」


客は、桃色の瓶と金色の瓶を見比べた。

どちらも、恐ろしいほどの救済だった。

そして、恐ろしいほどの破滅でもあった。


店主は、最後の一本を客の前へ押し出した。


透明な液体だった。

だが、水ではない。

光を吸い込むような、ひどく澄んだ『空白』の色をしていた。


「みっつめ。現実補助。『渇きの輪郭』だ」


客が、瞬きをする。


「……渇き?」


店主は、透明な瓶を指先で軽く弾いた。


ちん、と。

乾いた硝子の音が鳴る。


「この薬は、お前を一切満たさない」


一拍。


「逆に、お前自身の『本当の飢え』だけを浮き彫りにする」


店主の目が、客の奥底を真っ直ぐに射抜いた。


「恋人も、仕事も、趣味も違ったんだろ」


店主は、透明な瓶を客の方へほんの少し押した。


「なら、次に要るのは“もっと別の何か”じゃない」


客の喉が、小さく鳴る。


「お前が何に乾いてるのか、自分で見ることだ」


店主は、ふっと短く息を吐いた。


「願いがないままでも、人は生きる。悪いことじゃない」


そこで一度だけ、小さく頷く。


「だが、乾きの正体も見ないまま手当たり次第に掴んでりゃ、自分を削るだけだ」


アトリエの白い石畳に、静けさが重く沈んでいく。


「恋人を作る」

店主が一本、指を折った。


「仕事に打ち込む」

もう一本。


「趣味を増やす」

三本目を折る。


「どれも悪くない。ちゃんと生きようとした結果だ」


客の睫毛が、また小さく震えた。


「だが、欲しいものの形を知らないまま掴めば、埋め草にしかならない」


店主の声は低い。

だが、ただ切り捨てているだけではなかった。


「それを繰り返してりゃ、そのうち自分が何に乾いてるのかすら見えなくなる」


店主は、透明な瓶から手を離した。


「だからまず、乾け」


短い言葉だった。


「乾いて、自分の喉が何を欲しがってるのか思い出せ」


客は、動けなかった。

ただ、その透明な瓶を、食い入るように見つめていた。


満たされたい。

けれど、偽物で満たせば、自分は永遠に、自分の願いに出会えない。


それが、ようやく分かってしまった。


やがて。


客の手が、ゆっくりと伸びた。

震える指先が掴んだのは、透明な『渇きの輪郭』だった。


「……これにします」


「賢明なご判断です」


リヒャルトが、一切の無駄がない優雅な手つきで小瓶を包む。


「お代は、銀貨二枚になります。

なお、服用後はご自身の圧倒的な虚無感と孤独に直面することになり、ひどく苦しむ副作用がございますが。……ご安心を。正常な反応です」


「……はい」


客は銀貨を二枚、カウンターに置いた。

冷たい金属の音が、静かに響く。


包みを受け取り、客は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


カラン。


扉が閉まる。


入ってきた時の、風に流されるような足取りではなかった。

まだ痛みは抱えている。

けれど、自分の足裏で確かな地面を探ろうとする、一歩だった。


「……願いがないのは、悪いことじゃないんですよね」


レッターが、空になった茶杯を両手で持ちながら、ぽつりと呟いた。


「悪いことじゃない」


店主は再び乳鉢を引き寄せる。

ゴリ、と薬草が潰れる音がアトリエに響いた。


「だが、願いがないことを誤魔化して、他人の餌を食い始めると腐る」


メテスが壁際で、静かに頷く。


「……空腹を知らなければ、獲物は狩れない」


リヒャルトが、帳簿を静かに閉じた。


クリムが店主の肩で胸を張る。


「きゅ!(がんばれ!)」


ルゥが、床で静かに息を吐いた。


「わふ(……自分の足で探せ)」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ