朝焼けの鉱山と、満杯のグラスの処方箋。
「店主おっはよー!!」
カランッ! と。
ベルが千切れんばかりの勢いで、アトリエの扉が開かれた。
「ルナ! 待ってよ! 忘れ物してるよ!」
元気いっぱいに飛び込んできたアルテルナの背中を、ゲッセネスが慌てて追いかけてくる。
その手には、彼女が置き忘れた小さな採取袋がしっかりと握られていた。
一階ロビーは、職人たちが持ち込んだ高級ラウンジのまま、朝から妙に優雅な顔をしている。
まだ開店前だというのに、すでにポットから注がれた紅茶の香りが漂っていた。
磨かれた白い石畳の上を、アルテルナが軽い足音で駆け抜ける。
カウンターの前には、帳簿を開いたリヒャルトが立っていた。
皺ひとつない襟元。
寝起きの気配など欠片もない、完璧な番頭の顔だ。
「今日はいつもより、ずいぶんと朝が早いですね」
「鉱山の採取クエストいくんだけどさ」
アルテルナが、身軽な装備の留め具を調整しながら答える。
「乗り合い馬車が、朝イチの便しかなくて!」
「なるほど」
リヒャルトは、にっこりと微笑んだ。
そして、その完璧な笑顔のまま、声の温度だけをすっと下げる。
「……間違っても、鉱山内で『あれ』を投げてはダメですよ?」
ぴたり。
アルテルナとゲッセネスの動きが、同時に止まった。
幻惑の森を吹き飛ばした、あの“失敗作”の記憶が二人の脳裏をよぎる。
「生き埋め確定だよね……」
ゲッセネスが、青ざめた顔で小さく震える。
「な、投げないよ! 投げるわけないじゃない!」
アルテルナが滝のような冷や汗を流しながら、カウンターへ身を乗り出した。
「と、とりあえず、暗闇でも目が冴えるポーションください!」
「あとこれも」
ゲッセネスが、書きつけた紙切れを差し出す。
レッターが、奥から小箱を抱えてぱたぱたと出てきた。
どうやら朝の補充が終わったところらしい。
「えっと……鉱山なら、予備の灯石と、喉の乾きを抑える薄めの回復水と……」
「ルナさんなら、反響で酔わないように耳の負担を軽くするのもあった方がいいですね」
リヒャルトがさらりと差し挟む。
帳簿から目は離さないのに、必要なものだけはもう揃っていた。
「鉱山用の呼吸補助ですか。賢明ですね」
「粉塵きついって、前に言ってた人がいたから」
「それ、いいやつだよネス!」
「ルナが咳き込むとうるさいからね」
「優しさをそういう言い方で包むな!」
リヒャルトが、選び抜いた小瓶を布の上へ並べていく。
深緑の小瓶。
淡い金色の小瓶。
粉塵避けの白濁した瓶。
簡易灯石。
薄い布に包まれた応急用の湿布薬まで混ざっていた。
「暗所視界の補助が一本。呼吸補助が二本。灯石は予備込みで三つ。あと、転倒時の打撲用を一枚」
「そんなにいる?」
「必要になる時は、たいてい“そんなにいらないと思ってた時”です」
リヒャルトの返しは滑らかだった。
ゲッセネスが素直に頷く。
「それはそう」
「素直なのよねぇ、ネスは」
「ルナが雑すぎるだけだよ」
「はいはい」
アルテルナが銀貨を置き、ゲッセネスも自分の分を追加する。
リヒャルトはそれを正確に受け取り、小さく頷いた。
「お気を付けて。あと、本当に投げてはダメですよ?」
「わかったってば!」
「言質、取りましたからね」
「怖っ」
「ルナ、急ごう。馬車出る」
「わ、待って!」
二人は荷物を抱え直し、揃って扉へ向かった。
「「いってきます!」」
「ええ。お気を付けて」
カラン。
朝の冷たい空気が一瞬だけ流れ込み、二人の背中と一緒に外へ抜けていった。
その直後。
「……鉱山で採取クエストねぇ」
欠伸をしながら、店主が居住区側から顔を出した。
寝癖のついた髪。
片手で首の後ろを掻きながら、まだ半分眠たそうな目で閉まった扉を見る。
「ええ。朝イチの乗り合い馬車だそうです」
「……あいつら、無駄に元気だな」
「若いですから」
「便利な言葉だ」
店主が鼻を鳴らした、その時だった。
二機の魔導リフトが、ほぼ同時に軽い到着音を鳴らす。
チーン。チーン。
重厚な扉が開き、居住者たちがぞろぞろと降りてくる。
職人。夜勤明けの住人。いつもの中年冒険者。五階の主婦までいる。
「「「おはようー!」」」
「店主! いつものー!」
「今日は腰が重いんだよ!」
「徹夜明けで死ぬ、濃いやつ頼む!」
「朝から賑やかねえ」
白い石畳のロビーに、一気に生活音が満ちた。
薬草の匂いに、珈琲と紅茶と朝の外気が混ざる。
店主は欠伸の残る顔のまま、カウンターの内側へ入っていく。
「……開店直後から死ぬ死ぬうるさいな。死んでから来い」
「死んだら来れねえだろ!」
中年冒険者が笑いながらジョッキみたいに小瓶を煽る。
コンッ。
空瓶が景気よく置かれ、レッターがそれを抱えて走る。
リヒャルトは羽根ペンを滑らせ、メテスは入口脇で朝の流れを黙って見ている。
クリムが店主の肩で弾み、ルゥが床で片耳だけ動かした。
いつもの朝。
賑やかで、少しだけ騒がしくて、ちゃんと回っている。
そんな中。
カラン。
今度のベルの音は、さっきまでと違っていた。
勢いがない。
軽さもない。
ただ、持ち主の体重ごとぶら下がってしまったみたいな、沈んだ音だった。
入ってきたのは、学園の制服姿の生徒だった。
髪は整っている。
ノートも鞄もきちんと抱えている。
なのに、その目だけが完全に死んでいた。
青白い顔。
焦点の合っていない視線。
目の下へ濃く貼りついた隈。
彼はカウンターへ辿り着く前に一度だけ立ち止まり、それから、どうにか口を開いた。
「……最近」
声が掠れている。
「授業の内容が、まったく頭に入ってこないんです」
店主が、乳鉢を回す手を止めた。
「……致死レベルで、何も頭に残ってない。文字が、全部すり抜けていくんです」
学生の指先が、カウンターの木目を強く引っ掻く。
「このままじゃ、落第する。……助けて欲しい」
切実な悲鳴だった。
店主は無表情のまま、学生を見下ろした。
「……ただの寝不足じゃないな」
「寝てます……机に向かっても、どうしても文字が読めなくて……気がついたら、朝になってて……」
リヒャルトの完璧な笑顔が、すっと消える。
何も言わずに、特製茶を一杯差し出した。
レッターは心配そうに布巾を胸の前で握りしめる。
メテスは壁際で、静かに目を細めた。
店主は鼻を鳴らし、カウンターの下へ手を入れた。
コト。
コト。
コト。
並んだのは、三つの小瓶だった。
「……文字を頭に叩き込みたいなら、選べ」
ひとつめ。
どす黒い、インクのような液体。
「物理補助。『丸呑みのインク』だ」
学生が、息を呑む。
「飲めば、視界に入った文字がすべて脳に焼き付く。教科書を一瞥するだけで、一言一句たがわず暗記できる」
「それだ……! それがあれば!」
「ただし」
店主が瓶を指で弾く。
「意味は一切理解できない。
ただの“図形”として脳を埋め尽くすだけだ。応用も利かない。そして、膨大な情報を強制保存させられた脳は、三日後に焼き切れて熱を出す」
学生の顔が引きつる。
ふたつめ。
真っ白に濁った、耳栓みたいな沈殿物が浮かぶ小瓶。
「心理補助。『他者遮断の滴』」
「……遮断?」
「飲めば、勉強以外のすべてのことへの興味が完全に死ぬ」
店主の声は淡々としていた。
「飯の味もしない。友達の顔も浮かばない。不安も焦りも消える。ただ“机に向かうこと”だけが至上の快楽になる。……完璧な学習機械の出来上がりだ」
学生は、白い瓶を見たまま、喉を引きつらせた。
「……それは」
「落第は免れるだろうな。だが、お前が人間として大事にしていたものは、全部手からこぼれ落ちる」
学生は、二本の瓶を見つめたまま動けなくなった。
「だから、まともな『みっつめ』を用意してやってんだ」
店主は、最後の一本を前へ押し出した。
透き通った、ただの純水のように見える液体。
だが、水面がわずかに凹んでいるように見えた。
「みっつめ。現実補助。『満杯のグラス』だ」
「……グラス?」
「文字が頭に入らないのは、お前の頭が悪いからじゃない」
店主の目が、学生の疲労しきった心を容赦なく見透かす。
「お前の頭の中が、すでに“別の何か”で満杯だからだ」
学生の肩が、びくりと跳ねた。
「不安か。プレッシャーか。それとも、誰にも言えない別のやりたいことか。……水が溢れているグラスに、新しい知識なんて注げるわけがない」
しん、と。
アトリエが静まり返る。
「この薬は、お前の頭を良くしない。記憶力も上げない。
ただ、今お前の頭を埋め尽くしている“本当の悩み”を、紙に書き出せるくらいはっきりと自覚させる薬だ」
店主は瓶から手を離した。
「自分が何に怯えて、何に脳みそを食われているのか。それを見る覚悟があるなら、これを飲め。……文字を読むのは、コップの中身を捨ててからだ」
学生は、震える手で顔を覆った。
「……怖いんです」
ぽつりと、零れた。
「親の期待に応えられないのが。自分が、本当はちっとも優秀じゃないって、バレるのが……」
「だろうな」
店主は即答した。
慰めもしない。
「だから、まずはそれを見ろ」
学生はゆっくりと顔を上げ、三本目の、澄んだ純水の小瓶へ手を伸ばした。
「……これを、お願いします」
「賢明なご判断です」
リヒャルトが、ひどく静かに、だが温かみのある動作で小瓶を包む。
「お代は銀貨二枚になります。なお、服用後はご自身の見栄やプレッシャーの正体と真っ向から対峙することになり、ひどく落ち込む可能性がありますが、正常な反応ですのでご安心を」
「……はい」
学生は銀貨を置き、小瓶を両手で大切に握りしめた。
「……ありがとうございました」
カラン。
扉が閉まる。
足取りはまだ重い。だが、幽鬼みたいにふらついていた先ほどとは違い、確かな地面を踏みしめていた。
「……真面目な子ほど、自分を追い詰めてしまうんですね」
レッターが、ほうっと息を吐きながら呟く。
「頭の容量には限界がある。気合でどうにかなる問題じゃない」
店主は再び乳鉢を引き寄せた。
ゴリ、と薬草が潰れる音が響く。
メテスが壁際で、静かに頷いた。
「……盾も、持ちすぎれば重みで動けなくなる。捨てる技術が必要だ」
「ええ。不要な荷物を手放すことも、立派な戦術です」
リヒャルトが帳簿へペンを走らせる。
朝の騒がしさはもう遠い。
アトリエには、一つの重たい荷物をようやく自分の手で見直そうとした学生の、静かな決意だけが薄く残っていた。




