飲めば、血量が増えるポーションが、欲しい
甘い牙痕と、痛覚の正常化。
カラン。
深夜のアトリエに、重く、引きずるようなベルの音が落ちた。
二階からは何の音もしない。
子供たちはとうに深い眠りについている。
カウンターの奥で片付けの手を動かしていた店主は、その単調な作業を止めた。
「……表の『CLOSE』の札は見たか」
入り口に立っていたのは、ひどく青ざめた顔の男だった。
足元がおぼつかない。
ただ立っているだけで、薄紙みたいにゆらゆらと揺れている。
「これでも、急いだんだ……」
男はカウンターへすがりつくようにして、荒い息を吐いた。
「昼間は動けなくて……今しか、来られなくて」
首元には、季節外れの分厚いマフラーが巻かれている。
だが、その隙間からアトリエへ漂い出したのは、甘ったるい腐臭と、ひどく薄い血の匂いだった。
クリムが、店主の肩で毛を逆立てる。
「きゅ……!(あぶない!)」
ルゥが暗がりから立ち上がり、低く唸る。
「グルル……わふ(……薄い)」
店主は無表情のまま、男を見下ろした。
「で? 何が欲しい」
男は、縋るような、濁りきった目で店主を見た。
「……飲めば、血量が増えるポーションが、欲しい」
「……血量?」
「そうだ。血だ。血を増やす薬をくれ……! 貧血なんだ。少し、血が足りないだけで……俺は健康だ。だから、血さえ増えれば……!」
店主は、深く鼻を鳴らした。
「貧血ね」
ひどく冷たい声だった。
「首の動脈に穴を開けて、毎晩『ヒル』に吸わせてりゃ、そりゃあ血も足りなくなるだろうな」
男の肩が、びくりと大きく跳ねた。
無意識に、マフラーの上から自分の首筋をかばう。
「ち、違う! 彼女はそんなんじゃない! 俺を愛してるんだ! 俺の血が、彼女には必要なだけなんだ……!」
「愛してるなら、相手が死にかけるまで吸い尽くさない」
店主は、カウンターの下へ手を入れた。
コト。
コト。
コト。
「お前が『愛する恋人のための輸血』って綺麗事にすがりたいなら、選べ」
ひとつめ。
どろりとした、黒に近い赤の液体。
「物理補助。『無限の造血水』だ。飲めば、お前の骨髄は休むことなく血を造り続ける。抜かれた端から補充される」
男の顔に、狂気じみた歓喜が浮かんだ。
「それだ! それがあれば彼女は……!」
「ただし」
店主が瓶を指で弾く。
「血を造るには、お前の肉体の寿命を直接燃やす。長くて半年だ。半年後、お前は干からびて死ぬ。……そして相手は、ただ『次の餌』を探すだけだろうがな」
男の顔が、わずかに引きつる。
ふたつめ。
泥みたいに濁った、黒い液体。
「物理排除。『拒絶の泥液』。飲めば、お前の血は非人道的な魔物や吸血種にとって、吐き気を催すほどの猛毒に変わる。吸った瞬間に相手は悶絶する」
「そんなの駄目だ! 彼女が苦しむじゃないか!」
「お前を餌じゃなく、人間として愛してるなら、血が吸えなくなっても側にいるだろ」
男は息を呑み、そして強く、何度も首を振った。
「……だめだ。俺の血が不味くなったら、彼女は……」
その先は言わなかった。
店主は、最後の一本を男の前へ押し出した。
透明な、ただの水みたいに見える液体。
「みっつめ。現実補助。『痛覚の正常化』だ」
男が、怪訝そうに瓶を見る。
「……痛覚?」
「お前の首を噛みちぎる時、そいつは麻痺毒と快楽物質を流し込んでる。だからお前は、血を抜かれるのを『気持ちいい』と錯覚してる」
店主の目が、男の急所を容赦なく抉った。
「その薬を飲めば、快楽毒は一切効かなくなる。……生きたまま肉を噛みちぎられ、血管を啜られる、本物の激痛だけが残る」
アトリエの空気が、氷みたいに冷え切る。
「自分が『恋人』なのか『餌』なのか。……激痛に耐えてでもそいつに血を捧げたいなら、本物の愛だ。好きにしろ」
男は、三本目の瓶を見つめたまま、ガチガチと歯を鳴らして震え始めた。
快楽のない、ただ肉を噛みちぎられる激痛。
自分がただの『餌』であるという、見たくない現実。
「……あ、あ……」
男の伸ばしかけた手が、空中で止まる。
「……嫌だ」
ぽつりと、本音がこぼれた。
「痛いのは、嫌だ……。でも、血が足りないと、彼女が……俺を、見てくれない……!」
店主は、無言で三本の瓶を引き出しへ戻した。
「……え?」
「お前はもう、何を選んでも壊れる。選ぶ段階はとうに過ぎてる」
店主はカウンターから身を乗り出し、男の胸ぐらを無造作に掴んだ。
そのまま、強引に一本の青いポーションを口の中へ突っ込み、顎を砕く勢いで流し込む。
「がっ……!? ごふっ、げほっ……!」
「『強制泥眠の薬』だ。……三日間、死んだように眠れ」
男の目が白黒と泳ぎ、直後、糸が切れたみたいにカウンターへ突っ伏した。
大きないびきが、深夜のアトリエに響き始める。
「きゅ……(手遅れだった……)」
クリムが、小さく身震いをした。
「……ギルドに『吸血種の討伐依頼』を投げる。特急料金でな」
店主は、布巾でカウンターに散った数滴のポーションを拭き取った。
「相手が灰になれば、こいつも嫌でも目が覚めるだろ」
ルゥが、床に伏せたまま低く唸る。
「わふ(……手荒な、救いだな)」
「……ガキどもが寝てる時間に、生臭い死人を持ち込むなって話だ」
店主は苛立たしげに頭を掻き回し、入り口のランプを完全に消した。
暗闇に沈むアトリエ。
時には、選ぶ権利すら与えられないほど、手遅れな命も転がり込んでくる。




