寂しいの、俺だけなのかな
カラン。
午後のアトリエに、少しだけ重いベルの音が落ちた。
入ってきたのは、制服姿の学生だった。
学園帰りらしく、肩にかけた鞄はずっしりと沈んでいる。
だが、それ以上に足取りがひどく重く、迷っているみたいに遅かった。
扉を閉めたあとも、すぐにはカウンターへ近づかない。
ひんやりとした白い石畳の上で、自分の居場所を決めかねるように一度だけ立ち止まる。
「……彼女が、卒業してから」
ようやく絞り出された声は、喉の奥でひどく引っかかっていた。
「会える機会が、減っていくんです」
「通信魔導具で、やりとりはしてるけど……」
その先がうまく続かない。
言葉を探して視線を泳がせる生徒の鼻先へ、すっ、と温かい湯気が立ち上った。
リヒャルトが、何も言わずに特製茶の入ったマグカップを差し出していた。
薬草の青苦さと、微かな甘い匂いが混ざり合う。
「あ、ありがとうございます」
生徒は両手でそれを受け取り、ひと口飲んだ。
熱かったのか、目を細める。
少しだけ、強張っていた肩の力が抜けた。
「……なんていうか」
「寂しいの、俺だけなのかな、とか」
カウンターの端。
ポーションをジョッキみたいにぐいっと飲み干していた常連の冒険者が、喉を鳴らして豪快に笑った。
「ガキの悩みは甘くてたまらんな!
おい店主、こっちに辛めのツマミをくれ」
「はい」
レッターが、香辛料を強く効かせた干し肉をすっと小皿に載せて差し出す。
「おっ、気が利くねえ!」
生徒はそのやり取りをちらりと見た。
マグカップを両手で包み込んだまま、さらに深く俯く。
「……次に、会った時に」
一拍。
「俺を、彼女の頭に刻み込んで」
「追いかけてくれるようになるやつ……ほしいです」
アトリエの空気が、一瞬で凍りついた。
クリムが、店主の肩でぴしっと耳を立てる。
「きゅっ!(急な犯罪臭!)」
ルゥが床の石畳に伏せたまま、ひどく冷たい息を吐いた。
「わふ(……極端な思考回路だ)」
常連客が干し肉を咥えたまま、うわぁ、という顔でドン引きしている。
「甘酸っぺえ悩みかと思ったら、急に重ぇな坊主」
レッターが、困ったように目を泳がせた。
手元の布巾を、ぎゅっと握りしめる。
「お、お相手の方が嫌がることは……だめだと、思います……」
「そういうことだ」
店主の低く冷ややかな声が、アトリエの奥から落ちた。
カウンターの奥。
乳鉢の中で薬草をすり潰していた手が、半ばで止まっている。
店主は片手で無骨な乳棒を置くと、俯く生徒をまっすぐに見据えた。
「まず確認するが」
「相手は、お前を嫌ってるのか」
生徒は弾かれたように顔を上げ、慌てて首を振った。
「そ、そこまでは……! たぶん、普通に話してくれるし、通信魔導具の返事も来ます」
「遅いか」
「……前よりは」
「短いか」
「……前よりは」
店主の目が、さらに細められる。
「会う約束は?」
生徒は黙った。
マグカップの中の茶の表面が、指先の震えで小さく波打つ。
「してないのか」
「……向こうも、忙しいだろうなって思って」
「誘って断られたわけでもない」
「……はい」
店主は、深く、ひどく呆れたように鼻を鳴らした。
「それで“自分の存在を刻み込んで追いかけさせる”に飛ぶのは、だいぶ雑だな」
生徒の耳が、羞恥で真っ赤に染まる。
「だって……このまま、俺のことなんて薄れていきそうで」
「薄れたくないから、相手の頭に無理やり焼き付けたい?」
返事はない。
痛いところを突かれたその沈黙が、重すぎる肯定だった。
店主はカウンターの下へ手を入れる。
コト。
コト。
コト。
木目板の上に並んだのは、三つの小瓶だった。
ひとつめ。
淡い、花びらのような桃色。
光にかざすと、表面にきらきらと細かな膜が揺れている。
「心理補助。『残響の香水』だ」
生徒が、ごくりと息を呑む。
「これを飲めば、お前の言葉も仕草も、相手の脳裏に妙なほど印象へ残るようになる。
次に会った時、記憶のフックに引っかかりやすくはなるだろうな」
「それ……!」
「ただし」
店主が瓶を指で弾いた。
ちん、と薄い硝子の音が鳴る。
「好意も違和感も、等しく残る」
生徒の顔から、ぱっと血の気が引いた。
「お前が焦って重たいことを言えば、その重たさごと相手の脳に刻まれる。
……印象に残るってのは、好かれることと同義じゃない」
ふたつめ。
透き通った青い液体。
底の方だけ、微かな銀色の粒子がたゆたっていた。
「物理補助。『文面の整列水』」
「文面……?」
「通信魔導具で送る言葉を、読みやすく短く整える。
余計な重さ、湿っぽさ、未練がましさを自動で削ぎ落として、相手が返信しやすい形に調整する薬だ」
常連客が干し肉を齧りながら、大きく頷く。
「おっ、そりゃあ実用的だな。俺も欲しいくらいだ」
店主は生徒から目を離さずに続ける。
「だが、お前が本当に欲しいのは“テンポよく返事が来る綺麗な文章”じゃないだろ」
生徒が、はっと顔を上げる。
「お前が欲しいのは、相手の生活の中で、自分の比重を上げることだ。
返事の速さや文面の美しさだけで満足できるなら、最初からこんな物騒な店に来てねぇ」
ぐ、と。
生徒の喉が、引きつるように鳴った。
痛いほど、図星だった。
「……はい」
店主は、最後の一本を生徒の目の前へ押し出した。
深い琥珀色。
温かい特製茶みたいな色だったが、底には小さな白い粒が静かに沈んでいる。
「みっつめ。現実補助。『次の約束の白紙』だ」
生徒が、泣きそうな目で瞬きをする。
「……白紙?」
「会った時に、お前の存在を相手に刻み込む魔法の薬じゃない」
「次に会う約束を、その場で一つだけ、きっちりと置いて帰るための薬だ」
沈黙。
アトリエの奥で、錬金釜の青白い火が小さく爆ぜる音がした。
「効能は単純だ。
お前の頭の中でぐちゃぐちゃに絡まってる
“重たい感情の全部”を、次の一言まで崩す」
店主の声は、どこまでも平坦で、容赦がなかった。
「久しぶりに会えて嬉しい。
また話したい。
次はいつ空いてる?」
「……これだけだ」
生徒は琥珀色の瓶を見つめたまま、微動だにしない。
「刻み込むとか、追いかけさせるとか、そういうのは相手の自由を食う考え方だ」
「だが“次の約束を取る”なら、まだお前たちは、同じ地面の上に立てる」
クリムが、店主の肩で胸を張る。
「きゅ!(まず次を取れ!)」
ルゥが、低く呆れたように続ける。
「わふ(……段階を飛び越えすぎだ)」
レッターが、手元の布巾をそっと置いて、おずおずと口を開いた。
「い、いきなり……ずっと残るような何かになるより、
次にまた会える方が、たぶん……うれしいです」
常連客も、うんうんと深く頷く。
「そうだぞ坊主。相手の脳に刻印だの追跡だのってのは、順序がだいぶ後だ。」
「後でもだめでしょう」
リヒャルトが、ひどく柔らかく、しかし絶対に反論を許さない温度で切った。
それから生徒へ向き直り、完璧な営業スマイルのまま静かに微笑む。
「店主のおっしゃるとおりです。距離が開くことに怯えて、一足飛びに“大きな結果”を欲しがると、往々にして手前の一歩が雑になります」
その微笑みはやわらかいのに、放たれる言葉だけが、生徒の痛いところへ正確に突き刺さる。
「環境が変われば、会う機会が減るのは当然の理です。
ですから今、あなたに必要なのは、相手の人生へ無理やり刻印を残すことではなく、減ってしまった機会を、確実につなぎ止めるための技術ですよ」
生徒は、ゆっくりと、肺の底に溜まっていた重たい息を吐き出した。
桃色。
青。
琥珀色。
どれも、夢みたいな特効薬ではない。
だからこそ、誤魔化しがきかない。
やがて、迷いながら伸びた指が止まったのは、琥珀色の瓶だった。
「……これ、ください」
「賢明だ」
店主が短く言う。
リヒャルトが、流れるような優雅な手つきで小瓶を包み始める。
「お代は銀貨一枚になります。
なお、服用後しばらくは“刻み込みたい”“忘れられたくない”といったご自身の過剰な願望が、少々恥ずかしい黒歴史として自覚されやすくなりますが、副作用ですのでご安心を」
「うっ……」
生徒の顔が、耳の先まで一気に茹で上がったように赤くなる。
常連客が、けらけらと意地悪く笑った。
「よかったな坊主! 相手に引かれる前に、自分で引けるって最高の薬じゃねえか!」
「……はい」
絞り出すような、情けない返事だった。
銀貨を置き、小さな包みを受け取る。
それでもすぐには立たず、少しだけ俯いて言った。
「……俺、勝手に不安になってただけかもしれません」
「だろうな」
店主は即答した。
「会う機会が減るイコール、気持ちが薄れる、で結論へ飛ぶのが早い」
「……まだ、次に会おうって誘ってもいないのに」
「そうだ」
生徒は、小さく笑った。
さっきまでの思い詰めたような顔より、ずっと年相応のまともな顔だった。
「じゃあ……次に会えた時は、“また会いたい”って、ちゃんと言います」
「刻み込むより先に、約束を取れ」
「はい」
カラン。
扉が閉まる。
今度の足音は、入ってきた時のような迷う重さはなく、少しだけ真っ直ぐに前を向いていた。
しばらくして、常連客が干し肉の最後の一本を齧りながら唸る。
「若ぇなぁ。でもま、会えなくて薄れていくのが怖いって気持ちは、まあ分からなくもねぇよ」
「お前に相手いたのか?」
店主が、容赦なく切る。
「きゅ!(そこ!?)」
「わふ(……まずそこからだ)」
常連客が、ぐっと言葉に詰まり、干し肉を喉に詰まらせかけた。
「……む、昔はいたんだよ!」
「過去形じゃないか」
レッターが、空になった茶杯を下げながら、ぽつりと呟く。
「……寂しいのを、相手のせいにしちゃだめなんですね」
「全部が全部、そうでもない」
店主は乳鉢を引き寄せる。
ゴリ、と薬草が潰れる鈍い音が鳴った。
「だが、自分の不安を処理しないまま
“もっと向こうが俺を欲しがれ”に飛ぶのは、
大抵ろくなことにならん」
リヒャルトが、帳簿へ視線を落としたまま冷ややかに続ける。
「ええ。距離が空く時ほど、誠実さは技術になりますからね。自分の不安を相手にぶつけて雑に重くなる人間は、だいたいそこで関係を終わらせます」
メテスが、壁際で腕を組んだまま短く落とす。
「……待てる奴の方が、次に進める」
アトリエには、薬草の青い匂いと、飲み干された特製茶のやわらかな余韻だけが残っていた。




