新人が、まったく使いものにならない!
傲慢な舌と、指揮者の耳鳴り。
カラン。
乱暴に扉が開かれた。
荒い息遣いが、静かなアトリエへ踏み込んでくる。
肩を上下に揺らし、スーツの首元を乱雑に引き結んだ男だった。
「……はぁっ、くそっ……!」
男は、カウンターへすがりつくように両手をついた。
すっ、と。
その脇へ、湯気を立てる特製茶が置かれる。
「……いらっしゃいませ」
リヒャルトが、寸分違わぬ姿勢で立っていた。
男は茶を一瞥しただけで、口をつけることもなく吐き捨てた。
「新人が、まったく使いものにならない!」
アトリエの奥。
店主は、フラスコから試験管へ透明な液体を移している最中だった。
とく。
とく。
男の怒鳴り声にも、その手はぶれない。
「何度言っても同じミスをする! 指示もまともに聞けない! あれで給料をもらっているなど、泥棒と同じだ!」
男の視線が、ふと横へ流れた。
カウンターの端で、補充用の薬草を包んでいたレッターへ。
ねっとりと、値踏みするような目つきだった。
「……ここで働くやつは、有能だな」
鼻で笑うような声。
レッターの肩が、びくりと跳ねる。
「教えがいのある脳みそをしていて、羨ましいよ」
レッターは下唇を噛み、手元の薬草を握りしめた。
指先が、かすかに震えている。
「……で?」
店主の声が、アトリエに落ちた。
「疲労回復のポーションか」
試験管を光に透かしたまま、こちらを見ずに問う。
「違う」
男は身を乗り出した。
目の奥で、暗く濁った欲が鈍く光る。
「新人が、俺の言うことをちゃんと聞いて実行できるようになる薬をくれ! 奴らに飲ませりゃ、仕事の出来もマシになるだろう!」
リヒャルトの微笑みが消えた。
壁際で目を閉じていたメテスが、音もなく目を開く。
店主は、試験管立てへ硝子の筒を戻した。
こつ。
硬い音が鳴る。
ゆっくりと振り返った店主の目は、凍るほど冷えていた。
「うちの薬は、本人が飲む分しか処方しねぇ」
「……は? 金ならいくらでも払うぞ!」
「そういう問題じゃねぇ」
店主は、カウンターの下へ手を入れた。
コト。
コト。
並んだのは、二つの小瓶だった。
「部下を思い通りに動かしたいなら、お前が飲め」
男が、眉間に深い皺を寄せる。
「一つめ」
店主が指した小瓶は、ひどく白濁していた。
「心理補助。『凪の鼓膜』だ。
飲めば、部下が何度ミスをしようが、どれだけ無能だろうが、一切腹が立たなくなる。イライラは完全に消える。お前はずっと笑っていられる」
「ふざけるな! それじゃあ仕事が回らないだろうが!」
店主は鼻を鳴らした。
「そうだな。仕事は崩壊する。
だが、お前のストレスは消える。……他人に飲ませる違法な薬を求めるくらいだ。よっぽど追い詰められてるんだろう?」
男の顔が、屈辱で赤く染まる。
店主は、二つめの小瓶を前へ押し出した。
泥水のように濁った、黒に近い緑色の薬瓶だった。
「現実補助。『指揮者の耳鳴り』だ」
男が、警戒するようにその瓶を睨む。
「飲めば、お前が部下に指示を出した時、その言葉が『相手の耳にどう聞こえているか』、そっくりそのまま自分の耳に返ってくる」
男が、息を呑む。
「主語のない曖昧な指示か。
感情に任せた八つ当たりか。
ただ威圧して、相手の思考を止めているだけか」
店主の声は、淡々としていた。
「相手が馬鹿だから伝わらねぇのか、お前の言葉が呪いになってるから動けねぇのか。……全部、自分の耳で聞ける」
「……俺の、言い方が悪いとでも言いたいのか!」
男がカウンターを強く叩いた。
店主は、微動だにしない。
「言ってねぇよ」
冷えた目だった。
「お前の指示が完璧で、部下が本当にただの無能なら。お前の耳には、自分の理路整然とした正しい声が響くだけだ。何も恐れることはねぇ」
男は、黒緑の薬瓶を睨みつけていた。
「……試す勇気がないなら、帰れ」
ぴくり、と男のこめかみが跳ねる。
やがて。
「……俺は、間違ってない」
自分に言い聞かせるように呟き、男は乱暴に銀貨を叩きつけた。
「これを寄こせ」
「かしこまりました」
リヒャルトが、ひどく事務的な手つきで瓶を包む。
男はそれを引ったくるように受け取ると、逃げるように踵を返し、扉へ向かった。
カラン!
荒々しいベルの音が響き、男の姿が消える。
静けさが戻る。
レッターが、ほう、と長く息を吐き出した。
手の中に握り込まれていた薬草は、すっかり潰れてしまっている。
「……レッター」
店主が、短く呼んだ。
レッターは肩を揺らし、はっと顔を上げる。
指の中では、握り潰した葉がくしゃりと形を崩していた。
「ひゃ、はいっ!」
「それ、もう使いものにならないから昼飯用に回せ」
店主はレッターの手元を一瞥しただけだった。
「あ……すみません……」
慌てて開いた掌に、細かく砕けた葉が張りついている。
「……香草焼き、楽しみにしてる」
壁際から落ちたメテスの声に、レッターがぱちりと目を瞬かせた。
「気にするな。……あんな目を向けられりゃ、誰でも力が入る」
店主の一言が重なる。
張りつめていたものが少しほどけて、レッターは困ったように笑った。
メテスが、低く呟く。
「……言葉の刃は、振るう側には見えない」
リヒャルトが、冷めた紅茶を流しに捨てる。
琥珀色の液面が揺れ、細く落ちた。
「ええ。明日あたり、彼は自分の声のあまりの醜さに、耳を塞いでうずくまることになるでしょうね」
クッ、と嗤う声が漏れる。
「……実に、いい薬です」
店主は何も言わず、奥の錬金釜の火を少しだけ強めた。
ぼうっ、と。
青い火柱が、わずかに高く上がった。




